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帯分数は遠いけど  作者: 天そば
第四章 帯分数と仮分数
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帯分数と仮分数 5

  8



 再び、机の中の教科書をすべて取り出してみた。……うん、やはりない。

 確定だ。ロッカーの中にもなかった。たぶん、家に忘れたんだろう。まったく、なんてこった。今朝確かに鞄に入れたと思ったんだが。


 次の三コマめ、日本史の大岩はプリントを配らず、教科書を中心に授業を進めていく。それなのに、教科書を忘れてしまうとはどういうことだ。これでは何もできないではないか。

 一学期にはほとんどのやつがグループで固まってのんびり駄弁っていたが、受験前の緊張感ですっかりその喧騒が消えてしまった休み時間の教室で、おれはひとりしかめ面を浮かべた。なんだか今日はおかしい。すべてがうまくいっていない気がする。


「どうしたの、桜井くん」


 隣の席でブックカバーのかけられた文庫本を読んでいた松野が、顔をこっちに向けてきた。


「日本史の教科書忘れた」


 机の中に諸々の教科書を戻しつつ答える。昨日松野とは色々と話をしたが、今日そのことに触れることはなかった。朝も、おはよう、と挨拶しただけだ。


「へー、それは大変だねえ。じゃ、隣のクラスの人から借りてきたら? 安藤くんとか、安藤くんとか、安藤くんとかいいんじゃない? 友だちでしょ、野球部の安藤康夫くん」


 なぜそんなにくり返す。

 しかしまあ、そうだな。この近くで気軽に教科書を借りられる相手といえばまず最初に浮かぶのが康夫だ。よく分からないボケはスルーしつつ、席から立つ。


「そうするよ」


 次が移動教室とかで教室にいないなんてことがありませんように。そう祈りながら廊下に出て隣の教室をのぞくと、ほとんどの生徒が机に座って自習をしている。よかった。


 さて、康夫はどこかなと教室を見渡すと、いた。黒ぶち眼鏡を掛けてノートに何やら熱心に書き込みをしている男子が右隣に、イヤホンをして頬杖をつきながら目を閉じている女子が後ろにいる。

 奥の窓際の列の一番前に、がっしりとした体つきの色黒男。間違いなく康夫だ。英単語帳を広げている。


 ……他クラスの教室の一番奥まで行かなくてはならないのか。まあ、いいんだが。

 少し尻込みしつつ康夫の前まで行く。途中、足音に気づいて康夫は顔を上げた。おれの顔を確認すると、意外そうな表情をする。当然か。お互い、廊下などですれちがうと声はかけあうが、わざわざ教室に訪ねてくることは滅多にない。


「おお、実。どうかしたのか?」

「悪いけど、教科書貸してくれねえか? 日本史の」


 ちょっと待てよ、と言いつつ机の中に手を入れる。しばらくがさがさとやった後、表紙に上杉謙信と武田信玄の肖像画の描かれた教科書を取り出した。間違いなく、浜子柴高校日本史の指定教科書である。


 ほらよ、と康夫が教科書を渡してくる。表紙にはでかでかと、『安藤康夫』と書いてあった。こいつらしい、豪快な字だ。


「サンキュ。終わったらすぐ返しに来るよ」

「おう。オレたち、四コマめが日本史だから頼むな。じゃあ、また後で」


 歯を見せて笑う大男に軽く手を上げ、三年一組の教室から出て行く。目的は滞りなく達成。これで、次の日本史の時間、大岩の解説を引用文なしで聞かなければならないという事態は避けられた。めでたしめでたし。


 と、言いたい気分だったのに。


 なぜだろう、おれは歩きながら、妙な違和感を感じていた。何かといわれれば具体的には答えられないが、今の康夫との会話の中で、何かが引っかかった。変なもやもやが胸一杯に広がっているというのに、理由が分からない。


 その奇妙な感覚は、教室に戻り、授業が始まってもまだ続いた。いったい何が引っかかってるんだ、と頭の中では先ほどの康夫とのやり取りを何度も再生するが、違和感の原因は発見できない。

 なんだ、どうなってるんだ? 目をつぶり鼻をふさがれた状態で口に放り込まれた食べ物を租借しているかの様な気持ち悪さだ。


 そして当然ながら、おれがこうして無関係のことを考えていても授業は進む。大岩は教科書を読み上げ、黒板に板書し、センターに出やすい重要ポイントの解説を行う。おれは手だけは動かしてノートをとるものの、話は全く頭に入ってこない。


 ………………。


 ――まあ、いいか。どうせ大したことじゃないんだろうし。無駄なことに頭を使って疲れたから、この時間はノートをとるだけにして頭を使うのはやめよう。


 そういう結論に達した。面倒なことに対面すると、おれはいつもこうなる。全力を尽くしたところで、先にあるのは大していいことじゃない。そもそも、考えたところで分かるかすら不明なのだ。だから、すぐに放棄してしまう。それでいいと思っていた。


 それなのに、どうしてか、急に正則と橘が頭の中に浮かんだ。アサコちゃんが見つかる保証はない。でも、やれることはしたいと、そう言っていた。


 次に、今朝の通学路で見たふたりの野球部。懸命に走るやつと、必要最低限の力しか出さないやつ。両者のあいだには、うめられないほど大きな差が開いている。それは刻一刻と開いていくばかりだ。


 そして――。


 桜井くんは、スタートラインに立ってる?


 …………。


 おれは、黒板へ向けていた視線をゆっくりと落とし、教科書とノートを閉じた。ノートは、後で誰かに写させてもらえばいいだろう。今は、考えてみよう。

 おれは何に引っかかっていたのか。どうしてそれがこんなにも気になるのか。

 納得のいくまで、突き詰めてみようじゃないか。



     *


 

 そして、しばらく思考の世界に浸かり、それでもまだ答えが見つからず、何の気なしに視線を少し動かしたとき。


 最後のピースを見つけた。


 それは、薄汚れた教科書の隅にでかでかと豪快な字で書いてあった。



 『3-1-2 安藤康夫』



     *



 一組の教室には、次の授業が始まる一分前に着いた。康夫はおれを見ると、安堵したように、

「やっと来たか。なかなか来ないからどうしようかと思ってたぞ」

「悪いな。ちょっとしばらく固まってて」

「固まってて……?」

 訝しげにオウム返しをする康夫に、しかしおれは無視をして、別のことを尋ねた。

「なあ、康夫。忘れてたんだけど、お前、安藤だよな?」

「ああ。そうだが、それがどうかしたか?」

 ますます意味が分からない、という風な康夫の声。しかし、おれはまたもその疑問に答えない。今、おれは腹の底から笑い出したい気分だった。こんなところに、最後のピースが落ちていたとは。近すぎて気がつかない、灯台下暗しとはまさにこのことか。

 目の前の、頭にクエスチョンマークを浮かべている性根がまっすぐな友人に向かって、おれは質問に答える代わりに、満面の笑みを浮かべてこう言った。

「ありがとう、康夫。お前が『安藤』で本当によかったよ」



     *



 ことは昼休みに済ませた。


 そいつは購買に行くつもりらしく、昼休みが始まるとまもなく財布を手に教室から出てきた。幸いなことにひとりだったので、話しかけやすかった。他の女子と一緒だったら変なうわさを立てられかねないと懸念していたおれが自分の幸運に感謝しつつ用件を伝えると、そいつはまずびっくりしたように目を見開いた。そして直後に、その表情のまま小さく頷いた。


 おれは礼を言い、踵を返して歩き出した。あとは放課後を待つだけだ。

 そのとき、ケータイが震えた。着信、藤原正則。通話ボタンを押す。


『悪いな、昼休みに。お願いがあるんだけどさ、もう一度、浜子柴でアサコちゃんを捜してくれないか? ほら、もしかしたら見落としてる可能性があるかもしれないだろ。できればでいいから」

「いや、その必要はない」


 なんともタイムリーな着信に知らず知らず興奮していたらしい。声が弾んでいるのが自分でも分かった。


『必要ない?』

「ああ。見つけたんだよ。アサコちゃん、浜子柴にいたんだ」

『は!? まじかそれ?』

「ああ。まだ本人に確認は取ってないけど、かなりの確立でそうだと思う。だから、もう捜す必要はない」


 ここまで言ってしまってもし別人だったら期待はずれもいいところだと思ったが、止められなかった。けど大丈夫だ、きっと間違いはない。そう言い聞かす。


「放課後に、そいつと会う約束をしたから、そのときに色々訊いてみるよ。橘のこと、覚えてるかとか」

『そ、そうか。じゃあ頼む。……なあ、実』

「なんだ?」


 受話器の向こう側にいる正則が、いたずらを思いついた小学生のようににやっと笑うのが見えた。


「お前、そんな声出せるんだな。なんだか、別人みたいだよ」


 おれも笑って、それに答えた。


「そうか? おれはいつもこうだよ」

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