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帯分数は遠いけど  作者: 天そば
第四章 帯分数と仮分数
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帯分数と仮分数 2

     3



 昼休み、おれはサンドイッチを胃に収めると、進級してからは滅多に足を向けなくなった教室棟三階へ続く階段を上った。と言うのも、この教室棟三階、二年の教室しかない。三年になった今ではほとんど用なしである。裏を返せば、三年が三階へ行くのは二年の教室に用があるからだ。


 林田からメールが来たのは二コマめと三コマめのあいだの休み時間だった。


『クラスに牧田朝子って女子がいるんですけど、家が宜野駅の近くらしいですよ。留年しているかは分かりません……』


 何人かの後輩に、知り合いにアサコという名前で留年していて宜野駅の近くに住んでいる女子はいないか、とメールを回したのだ。すっかり忘れていたが、そのメールで思いだした。他の後輩からも返事は来たが全滅で、林田の返事だけが唯一望みのあるものだった。クラスメイトに留年しているかなんて質問を林田にさせるのも何だかなと少し悩んだ挙句、昼休みに教室に行くからそのとき紹介してくれ、とだけ返信して、今に至る。


 しかし、階段を上るおれの足取りは重い。それもそのはず、おれはもともとアサコちゃんが留年して浜小柴高校二年にいるなんて奇跡は信じていないからだ。たぶん、この牧田朝子だって別人だろうと思っている。それでもこうしてわざわざ確認に行くのは、ひとえに橘の必死な様子が思いだされるからである。あいつのことを考えると、手抜きはできないよな、というわけだ。


 階段を上り終え、三階に着く。するとすぐ正面に、林田が立っていた。こんにちは、と頭を下げてくる生真面目な後輩に、おれは手をひらひらさせながら、


「悪いな、わざわざ」

「いえ。でも、牧田に何の用があるんですか?」

「知り合いが捜してる女子の名前がアサコなんだ。それで、お前は何組だっけ?」


 十分とは言えない説明だが林田は気を悪くした風もなく、三組です、と答えて視線をすぐそこの二年三組の教室へ向けた。おれもつられて教室を見ると、ほとんどの席が埋まっている。クラスでの居心地が悪くて昼休みはどこかに行ってしまう、という生徒は少ないらしい。仲のいいクラスなんだろうな、と漠然と思った。


「あの、窓際にいるのが牧田です」


 林田の差した指の先には、眼鏡をかけた背の低い女子がいた。廊下側の窓際の席に座って、小さな弁当を手に隣の女子とお喋りをしている。


 うーん、そういえば橘の写真に写っていたアサコちゃんは、身体が小さかったっけ。顔が似ているかはよく分からないが、背丈はあの写真の女の子に似ている。けれど、小学一年のときに小柄だったからといって今もそうとは限らないわけだから、あまりあてにはならないか。


「話しかけに行きますか?」


 頷く。

 分かりました、と言って林田は先を歩き、窓から手だけを教室に入れ、こちら側に背を向けて座っていた牧田朝子の肩をちょんちょんとつついた。びっくりしたように振り返る彼女に、林田は


「ちょっとおれの先輩が話があるみたいなんだけど、いい?」


 と言って、後ろにいるおれを振り返った。

 牧田朝子は、下級生が上級生から話があると言われたときに見せる態度、つまり、突然校長室に呼び出されたような調子でおれを見上げた。何を言われるんだろう、何か悪いことしたっけ、とその瞳は語っている。なんだか申し訳ないので、とりあえず謝る。


「悪いな、突然。ちょっと訊きたいことがあるだけなんだ」


 それで牧田朝子の緊張は幾分かほぐれたようだ。完全にとは言えないまでも、だいぶ表情が柔らかくなった。おれも幾分かほっとしつつ、尋ねる。


「『あおい壮』っていう名前のアパートに、聞き覚えあるか?」


 予想通りというか何と言うか、牧田朝子は小首をかしげた。


「……すいません、聞き覚えないです」

「そうか。じゃあ、この写真の男の子に見覚えは?」


 カラーコピーした橘とアサコちゃんの写真をポケットから取り出し、見せる。しかしそれは、牧田朝子の困惑の色をますます深めただけだった。


「えっと、……誰ですか?」


 そうか、と返して、写真をしまう。

 牧田朝子は橘の捜すアサコちゃんじゃない。決定だ。おれは目の前にいる困惑気味の後輩に手を合わせた。


「突然わけの分からない質問して悪かったな。助かったよ」


 背中に痛いほどの視線を感じながら、林田と共にその場を去る。しばらくこの付近には近づけないな。もう用はないからいいんだが。

 階段の前で立ち止まると、残念でしたね、と林田が声をかけてきた。


「まあ、そうだろうなとは思ってたよ」


 おれは素直な心境を口にする。


「そうですか……」

「おう。ありがとな、林田。じゃあ、大会頑張れな」


 そう言って立ち去ろうとしたおれを、待ってください、と林田が呼び止めた。


「桜井先輩、三月のOB戦は来ますよね?」

「……来ると思うが」


 何がそんなに嬉しいのか、林田はにこっと笑顔を作った。


「よかったです。桜井先輩、もしかしたら来ないかもって思ってたから」

「どうして?」

「先輩たちの引退試合の後、グラウンドで最後のミーティングをしましたよね? そのときの桜井先輩、すごく悲しそうな顔してましたから」

「そうか? それなら、康夫のほうが一番来なさそうだろ」


 あの大泣きは、それはそれはすごかった。一生ぶんの涙を流したんじゃないかと疑ってしまうほどに。

 林田もあの様子を思い出したのだろう、苦笑いを浮かべた。


「確かに、安藤先輩の男泣きはすごかったですけど、おれは桜井先輩が一番悲しそうに見えたんです。悲しそうな顔してるだけで、泣いてなかったから、逆に、って言うか」

「……そうか?」

「はい。だからおれ、先輩のぶんも頑張らなきゃって思って。それで、気がついたらレギュラーまで入ってたんです。OB戦、楽しみにしてますね!」


 屈託のない笑顔を見せる後輩に、おれは曖昧な笑みだけを返して別れた。



     ***



 何とも言えない気分で教室まで戻ると、松野由奈が今まさにセンター試験に挑んでいるかのような真剣さを漂わせて教卓に座っていた。視線は下に向けられていて、何だろうかとおれも松野の視線の先を見てみると、そこには出席簿が広げられていた。


 ……どうしたんだろうか?

 何をしているのか気にならないと言ったら嘘になるが、話しかけるのを躊躇わせるオーラを放っていたので、好奇心を抑えて何も言わず脇をすり抜けることとする。しかし、


「ねえ、桜井くん。見てこれ」


 と、本人から話しかけてきた。見ると、出席簿に番号順に張られている顔写真に人差し指を置いている。それも、出席番号三八番、松野由奈の顔写真に。


「私、なんでこんな顔で写ったんだろう?」


 その写真に写った松野は、何と言うか……。眉間に皺がよっていてしかも顎を必要以上に引きすぎていて、人相が悪いと言うか、控えめに言っても怒っているように見える。


「確かにちょっとこれは……おかしいな」


 探しはしたが、フォローの言葉は見つからず。素直に答えるしかなかった。

 松野は苦々しい顔で、教卓の隅に置いてあったコーヒー牛乳を啜る。ずず、と音を立てて飲み干し、ストローから口を離すと、


「だよねえ……。私、この日べつに嫌なことがあったわけじゃないんだけど、明らかにマジギレ五秒前みたいな感じになってるよね」

「ああ、そんな感じだな」

「うーーん。なんで私がこんな顔したのかも謎だけど、それ以上に!」


 べこ、と音を立てて松野に憤りをぶつけられた紙パックがつぶれる。ああ、ストローの先から飲み残したコーヒー牛乳が飛んで教卓を汚したぞ。いいのか。


「なんでカメラマンはこの顔にオッケー出したのかって話だよ! これ駄目だなあって思うでしょ、普通! ごめん、もう一回、みたいになるでしょ、普通!」


 ねえ桜井くん、と写真の顔そっくりな表情で同意を求めてくる。おれはその勢いに押され、こくこくと二度三度頷いた。いや、それより、教卓が……。


「おかげで私、この写真の学生証で三月まで過ごさないといけないんだよね! 映画のときとか、微妙に躊躇うという……」


 うー、と唸りながら、すでに潰れた紙パックを更に握りしめる。またもや飛び散るコーヒー牛乳。今度ばかりは松野もポケットからハンドタオルを取り出し、先ほど飛び散った分も含めてコーヒー牛乳をぬぐった。一応気づいてはいたのか。

 それが終わると、不意におれの顔写真に指をさした。


「桜井くんは、いつも通りの顔だよね。気だるそうな」

「まあな」


 事実なので素直に頷く。昨日、正則はおれを最初に見たときやる気なさそうなやつだなと思ったと言っていたが、こんな顔していれば当然だろうなと納得してしまうような写真だった。

 しかし、話を切り上げるタイミングをすっかり失ってしまった。これは松野がいいと言うか、チャイムが鳴るまで話し続ける流れになりそうだ。いや、べつにいいのだが。


 その証拠に、松野は潰れた紙パックを弄びながら、そういえば、と言っておれに視線を向け、全然違う話題をふってきた。


「桜井くんがさっき三階に上がるの見たんだけど、何の用があったの?」

「後輩にちょっと用があって。……レフトの林田、分かるか?」


 数ヶ月前まで同じグラウンドで練習していたから知ってるかな、と尋ねてみると、松野はああ、と小さく頷いた。


「あのチビちゃんね」


 この言葉には、結構くるものがあった。と言うのも、おれと林田のあいだにある身長差は僅かしかない。林田がチビちゃんなら、おれもそういうことになってしまうだろう。松野も気づいたらしく、あ、と口元に手を当てた。


「傷ついた?」

「……少し」

「ごめん」


 と言いつつも、目が明らかに笑っている。こいつ、謝罪は言葉だけか……。


「で、その林田くんとふたりで、チビちゃん同盟でも組んできたの?」

「そんなことするか。少し話をしただけだよ」


 実際はアサコちゃん捜しが目的だったのだが、素直に答えるのも癪なので黙っておく。そしてチビちゃん扱いされた林田の名誉を守るため、(というのは建前で、単純に松野を驚かせてやろうと)こう付け足す。


「その林田、レギュラーになったんだよ」


 ええ、と叫んで再び口元に手を当てる。目も大きく見開かれていて、予想以上の反応におれの気分はすっきりである。


「え、だって、あんなにもあんまりだったのに?」


 容赦ねえなおい。


「ああ。毎日残って自主練してたらしい」

「うわー、すごい。いいね、居残って自主練。懐かしいなー」


 残念ながらそんな経験のないおれは、同意も否定もできず黙っている。松野は、うはー、とかへえー、とか何とか言った後、感慨深げに腕を組み、二度三度頷く。


「すごいなあー。それ、今日私が聞いた中で二番目に驚いた話だよ」

「一番は?」


 よくぞ訊いてくれた、と言いたげに、松野は勢いよくおれの顔を指差してきた。


「それがね、すごいんだよ! 聞いて驚け、なんと、フジエモンね、あのイケメン葛西くんと別れたんだって!」


 松野はおれがびっくりするのを期待していたような眼差しを向けていたが、残念ながらそれは叶わなかった。なぜなら、


「葛西って、サッカー部のキーパーだよな? あのふたり、付き合ってたのか?」


 そこから知らなかったから。


「そう! しかも、二週間前に付き合い始めたばっかりなのに、こんなスピード破綻して。しかも訊いてみたら、フジエモンからフったらしいし。ありえないって、あんなイケメンをフるなんて!」


 先ほどまで指先で弄んでいた紙パックに再び憤りをぶつける。哀れ、購買で百円で販売されているコーヒー牛乳のパックは、松野の怒りを幾度となくぶつけられ、先ほどまでの液体で満ちた姿とは打って変わってぺちゃんこになっていた。合掌。


「まあ、飯塚も何か理由があったんじゃないか?」

「本人に訊いたら、性格が合わなかったとか何とか言ってたけど、葛西くん、めっちゃいい人だっつーの! まったく、フジエモンはいつもいつも彼氏できてもすぐフって! ありえないって! ……って、桜井くん、フジエモンと知り合いなんだね」


 今更かい。そんなにおれが飯塚と知り合いだと意外か。おれは得意げに、飯塚について知っている全ての情報を公開する。


「元生徒会で、三年一組一番の飯塚藤江だろ?」


 だが、口に出してみると少ないなと実感できて、逆に虚しくなった。

 松野はそうそうと頷いた後、人さし指で自分の顔をさし、笑顔で告白してきた。


「フジエモンってあだ名つけたの、私!」


 おれは自分の目が大きく見開かれるのを感じた。今の発言は衝撃的である。先ほどの、飯塚と葛西の破綻話なんかよりずっと。あの、なかなかに味のあるニックネームは誰がつけたのだろうと気になっていたのだが、まさかこんなに近くにいたとは。


「まじかよ。いいネーミングセンスだな」

「でしょ。私も、このあだ名思いついたときは、絶対いける! と思ったんだよね」


 どこにいけるのかは不明。

 松野は、実際すぐに広まったし、と誇らしげに続ける。そして笑顔になって、


「よかったら、桜井くんのあだ名も付けてあげようか?」

「……それは遠慮しておく」

「えーっ。今結構ノリ気になってたのに」

「それでも遠慮しておく」

「まったく、ノリ悪いんだから……。そういえば、都もあだ名付けようとしたら嫌がってたっけ。似てるね、そういうとこ」


 それはそうだろう。あだ名の由来は大抵その人物の見た目から取る。つまり、容姿に何かしらの特徴があったらそこを狙われるわけで、姉貴とおれの最も分かりやすい身体的特徴はといえば、そう、身長だ。大か小かの違いはあるが、お互い多少なりとも気にしているのは確かなので、ほぼ確実にそこを突かれるであろうあだ名の命名なんてされたくないのだ。


「てかさ、前から気になってたんだけど。桜井くんと都って家では何か話とかするの?」

「しない。そもそも、時間が合わなくてあんまり会わないんだ」

「へー。同じ家に住んでるのに時間が合わないとかあるんだ。――そっか、都、めっちゃ早寝早起きだもんね」


 頷く。あいつが目を覚ましたまま日をまたぐことも、朝のテレビ放送が開始される前に起き出さないことも滅多にない。


「選抜の合宿のときにびっくりしたんだよね。十時にはもう目が半分ぐらいしか開いてなくて」

「そんなやつだよ」

「うん。でも、その合宿の二日目、最終日の前日ね。私と都で、寝る前にちょっと話をしたんだ。主にチームのことをね」


 そういえば、県の選抜チームでは松野がキャプテンで姉貴は副キャプテンだったと聞いた気がする。


「で、ちょっとしたお喋りのつもりだったのに、盛り上がってきてさ。お互い、熱く語り合っちゃって。気がついたら朝になってたんだ」

「へえ……」


 あいつが徹夜とは、なんとも意外な話である。ソフトのことだから出来たのだろうが、普段は朝方生活の見本のような活動時間だというのに。


「いい想い出だなー、あれも。その後の練習ではお互い死ぬかと思ったけど、なんとか乗り切ったし。……ね、桜井くんは、都のことどう思ってるの?」


 突然何を言い出すんだ、こいつ。おれは質問の意図がつかめないまま答える。


「姉だと思ってるけど……」

「いや、それはそうだろうけどさ。どんなお姉ちゃんだと思ってるの? 優しいとか、意地悪とか」

「……人がいいとは思う」


 その答えに、松野は満足げな表情で頷いた。そして、ふたたびおれに視線を合わせて、


「都がうらやましくなることって、ある?」


 …………。


「何で突然そんなこと訊いてくるんだ」

「いや、なんとなく。双子って、お互い意識しあうのかなって思ってさ」

「べつに、そんなに意識しあったりしねえよ」

「じゃあ、うらやましく思うこともない?」

「まあな」

「ふうん」


 松野は口元に小さな笑みを浮かべたかと思うと、すぐにそれを引っ込め、手で紙パックを弄び始めた。


「ね、桜井くん。なんか突然、昔話がしたくなったんだけど、いい?」

「いいけど……」


 戸惑いながらもおれが了承すると、松野は紙パックに視線を落とし、そのまま、ゆっくりと呟く様に話し始めた。



     ***



 私、自慢じゃないけど、監督とかによく向上心があるなって褒められてたんだ。でも、昔はそんなじゃなかったんだよ。ものすごいかっこつけだった。


 ちっさいころから運動神経の良さには自信あってさ。かけっことかいつも一番だったし、クラス対抗の球技大会なんかでも大活躍で。だからまあ、何て言うか、調子乗ってたんだよね。私はすごいぞ、運動神経いいぞーってかんじで。そんなんだからだろうね。小学校の部活とかではよく、肝心なときにミスしたり、打てなかったりしてた。それでも、私は悪くない、って思ったりしてて。


 で、中学にあがったら、即レギュラーになったんだ。恥ずかしながら、それで私はますます鼻伸ばしてね。内心ではチームメイトを見下したりなんかして……。めちゃくちゃいやなガキだよね。そのくせ、なんかミスしたら周りの人にこいつ大したことないじゃんって思われたくなくて必死に言い訳するし。私、言い訳も考えるの得意だったんだ。しまいには、最初っからミスしてもおかしくないように予防線はったりもして。今日、微熱あったんだけど部活は頑張る、とか言ったりしてね。


 今思うと、ホント性格悪かった。でもさ、ある日、フライ捕球をミスして、落とした子がいて。私は、あんな簡単なのも捕れないのかよとか思いながら見てたんだけど、その子、練習終わった後もずっとフライ捕球の練習してたんだ。それ見て、あれって思った。よく見たら、周りで自主練してる人たちも、練習中にミスしたプレーの復習をしてる。それが、二度と同じミスを繰り返さないためだって、しばらくしてから分かった。


 そのとき、目からうろこが落ちた気分だったな。私、気がついたらミスしたときの言い訳ばっかり考えてて、ミスしないための方法とか、同じミスを繰り返さないようにするにはどうすればいいかとか、まったく考えてなかった。


 それで気がついた。私、人目ばっかり気にしてて、どうしたら自分がかっこよく見えるかってことしか頭になくて、ソフトの技術の向上なんて全然考えてなかったって。ソフト始めたばっかのときは、キャッチボールだけで楽しくて、このスポーツをもっともっとうまくなりたい、誰よりもいい選手になりたいと思ったのに、いつしか私はそれを忘れて、言い訳だらけの人になってた。このままじゃ、誰よりも上手いソフトボール選手じゃなくて、誰よりも言い訳の上手い人になっちゃうよ。私、ソフトが好きって気持ちより、運動神経のいい自分はかっこいいって自己陶酔ばっかりが前に出てきてた。だから、自分がミスしたこと認めたくなくて、必死に言い訳ばっかり考えてたんだよ。


 それが分かったとき、そんな自分がいるんだって認められたとき、やっと私は変われたんだよね。

 いくら運動神経がよくても、至らないところはまだまだたくさんある。絶対にミスをしないほどの技術なんてまだ私には備わってない。だから言い訳なんてせず、どうしてミスしたのか、何がいけなかったのか考えて、それを二度と繰り返さないようにしなくちゃ。そう思えるようになった。


 それが、本当の意味での私のソフトボールのスタートだったと思う。本当の自分を見ないようにして、ごまかしてるうちは何も成長なんかしない、理想とちがう弱くて汚い自分を認められて初めて、人ってスタートラインに立てるんだって、今ではそう思うようになったんだ。



     ***



 ふう、と松野が小さく息を吐いた。それで、話は終わりだと分かった。


「いやー、ごめんね、なんか急に語りだして! 大学の課題でさ、『あなたが最も印象に残っている体験を書きなさい』っていうのがあって。声に出して整理したかったんだ。ありがと、聞いてくれて」


 大きく破顔する。話をしているときは、所々で見たこともないほど苦々しい表情も浮かべていたのだが、今の笑顔にその面影は残っていなかった。


 これ、捨ててこようっと、と言って、松野は紙パックを手に教卓から離れた。

 そしておれはその場に立ったままだった。頭の中では、松野の語った最後の言葉が、CDのリピート再生のように繰り返されている。


 本当の自分を見ないようにして、ごまかしているうちは何も成長しない、理想とちがう、弱くて汚い自分を認められて初めて、人はスタートラインに立てる。


 それなら、おれは……。


「次、移動教室だよ」


 ごみ箱に紙パックを捨ててきたのだろう松野が、後ろからそう言葉をかけてきた。

 よく見たら、教室にはほとんど人がいなくなっているし、次の授業まであまり時間もない。やばい、とおれは机に向かおうと歩き出した。席が隣の松野も、後ろを歩いてくる。


「ねえ」


 机の中から教科書と筆記用具を取り出したとき、松野がそう声をかけてきた。

 振り向くと、手に教科書を持ち、そして、先ほどのように口元に笑みを浮かべた松野がいた。


「桜井くんは、スタートラインに立ってる?」

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