帯分数と仮分数 1
1
《火曜日》
誰しも、こういう体験があると思う。
幼い頃、父さんが大事にしていた茶碗を割ってしまうとか、母さんの読みかけの雑誌にジュースをこぼしてしまう。その後、雷を落とされるのを恐れて証拠隠滅をし、問題の父さんか母さんが帰ってきたときに自分なりにいつも通りの態度で接する。しかし、二言三言言葉を交わした後に、こう言われるのだ。
「何か隠してることあるだろ」
あるんじゃない? とか、もしかしてある? とかの疑問系ではない。あるだろ、と断言されるのだ。
茶碗や雑誌がなくなっていることすら分からない段階でなぜ気づくのかと、幼いおれは心底不思議に思ったものだ。しかし、今ならその理由が分かる。
相手は生まれたときからずっと一緒にいる家族なのだ。長年のうちに培われてきた息子像と少しでも違うところを見せれば、理屈ではなく感覚で気づいてしまう。おれとしてはいつもとなんら変わりなく接しているつもりでも、相手には腹の底を見抜かれるのだ。家族とはそういうものだ。
だから、おれは気づいた。
ケータイのアラームで目を覚まし、リビングに行くと、
「あれ? 起きてきたの?」
と、テーブルに朝食を並べながら、意外そうにおれを見る姉貴が、普段の姉貴とだいぶ違うということが。
まず、何よりも目がおかしい。いつもよりあまり開いておらず寝不足そうな印象を受ける。締め切り間際の漫画家とまではいかないが、それでも十分不健康そうだ。
他にも、声に覇気がないし、全体的に暗い。
もうぶっちゃけ、家族じゃなくても分かるぐらい普段と違う。何かあったのは明白だ。
だが、おれはそのことにはつっこまず、頭をかきながら当たり障りのない答えを返した。
「なんか早く目が覚めたんだ。顔洗って来る」
あの姉貴にも落ち込むような出来事がある。
そう思ったときに生じた感情が何だったのか、おれ自身にもよく分からなかった。
2
マチには、切羽詰った受験生みたいだね。
ユキには、今にも自殺しそうな顔ね。
以上、わたしが幼馴染ふたりに開口一番言われた言葉。
「おはよう、ふたりとも。……わたし、そんな顔してる?」
「うん。この前もひどかったけど、きょうはそれ以上」
「まさにどん底です、って顔よ」
そんなにひどいのか、わたし。
それだけ言った後、ふたりが歩き出したのでわたしもついていく。普段よりゆっくり歩いてくれるのがありがたい。
「それで、何かあったの?」
わたしに視線を合わさず、ユキが訊いてきた。
「ちょっと、昔のことを思い出して……」
気持ちを察してくれるありがたい友人たちに、けれどわたしは言葉を濁した。
それでまた察してくれたようで、ふたりは軽く頷いただけでこの話題をこれ以上追求してこなかった。
昨日観たテレビの話題が飛び交う中で、わたしはちらりとユキの鞄に目をやった。
黒いスクールバッグについている、ソフトボールをかたどったキーホルダー。金色の糸で、『めざせ優勝』と刺繍が施された、後輩たちからのプレゼント。
ユキはこれをスクールバッグにつけている。マチはストラップ代わりにケータイにつけている。
わたしは、それらを見るたびに胸をえぐられるような気持ちになる。
めざせ優勝。
わたしたちは、その目標を現実にすることはできなかった。県選抜のメンバーには浜子柴より多くの人数が選ばれたけど、インターハイ県予選では負けた。準優勝に甘んじた。関東大会には出場できたけど、全国大会に出場することはできなかった。
どうして、とわたしはそのキーホルダーを見るたびにふたりに問いたくなる。
どうして、それを堂々と鞄やケータイにつけることができるの、と。
責めているわけじゃない。ただ単純に、どうして、と思うのだ。
わたしはまだ、直視することもできないのに。
*
いつもより長く感じた通学路にも終わりが来て学校に着くと、ユキと別れてわたしとマチは階段へ向かった。わたしたち三年四組の教室は二階にあるのだ。
「あ、メールだ」
階段を上がりながら、マチが制服のポケットからケータイを取り出した。それについているソフトボール型のキーホルダーが揺れる。
めざせ優勝。
「――ねえ、どうして?」
意図せず、疑問が口から飛び出した。ケータイに向けていた視線を上げ、少し首を傾げてくるマチに、わたしは勢いに任せて続ける。
「どうしてマチはそれをケータイにつけられるの?」
優勝できなかったのにどうしてそのキーホルダーを使えるの、というニュアンスが通じたのは、マチが一瞬口元を結んだので分かった。
そんなつもりはないけど、遠まわしに責めているように聞こえたかもしれない。けれど、マチはすぐに口元を緩め、階段を上がりながらこう答えた。
「やれることはやったっておもってるからかな」
「……どういう意味?」
「あたし、ベストはつくしたから、後悔してないんだ。優勝できなかったのはくやしいけど、心残りはないっていうか、あれだけ自分の力を発揮して負けたんならしかたないってどこかでおもってるら、優勝できなかったことも受け入れられるんだとおもう」
階段を上り終え、廊下を歩きながら飄々と言い切った。
心残りがないから、負けたことを受け入れられる。
あまりにもあっさりとしたその言葉に面食らいつつ、どこか冷静に租借しているわたしがいた。
そうか。マチはそう思っているのか。もっともな理由だ。きっと、ユキも同じだろう。
じゃあ、どうしてわたしは受け入れられないんだろう。
わたしが、あの試合でベストを尽くさなかったから? いや、それは違う。あの試合は、一瞬たりとも緊張を切らさずにプレイできたという確かな自覚がある。油断も慢心もなかった。ボールは内野を抜けなかったけれど、最後のバッティングだって、自分の力を発揮できたはずだ。
それなら、どうしてわたしはまだ引きずっているのだろう? キーホルダーを目にするたびにいたたまれない気持ちになって、DVDを観ることすらできないんだろう。
わたしは、ふたりと違って、何か心残りがあるのかもしれない。だとしたら、それは何だろう?
わたしは、何をこんなにひきずっているんだろう?
「ねー」
教室に足を踏み入れながら、マチがおもむろにそう言った。わたしは視線を落とし、マチと目を合わせる。
「あたし、いっつもおもってたんだけどさ。ミヤって、分母より分子がおっきいよね」
「…………はあ?」
「それだけ! じゃーね!」
笑顔で手を振り、自分の席へ駆けていく。
わたしは立ち止まったまま今のマチの言葉の意味を考えた。
「……あいつめ」
そしてしばらくして意味を理解する。何てことはない、頭でっかちだと言われたのだ。あの小学生め、いつからそんな言い回しをするようになったんだ。
――悔しいけれど、その通りだ。わたしは、自分でも呆れてしまうぐらい、頭でっかちなのだ。