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帯分数は遠いけど  作者: 天そば
第三章 迷走する仮分数
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迷走する仮分数 9

    13



 一番右端のフックにかけられていたのは、『がっちり安全U字ロック』だった。その隣が、『盗難防止用U字ロック』。そしてさらにその隣、一番左端のフックには、『バイク用U字ロック』。

 やっぱりそうか、とわたしは声に出さず呟いた。


 バイトに間に合う時間よりだいぶ早くに家を出たわたしは、まずスーパーに行った。そこで見たりんごはどれも『サンふじりんご』やら『紅玉りんご』やら、様々な品名を持っていて、その品名が書かれたシールはどのりんごにも貼られていた。

 そして、こうしてホームセンターにあるU字ロックを見てみると、どれもただの『U字ロック』とは書かれていない。必ず、前に余計なものが入っている。


 シチュー鍋の火を止めた後、ためしにユキが持ってきたりんごのシールを剥がそうとしてみたら、結構ぴったり貼られていて苦労した。U字ロックをパッケージから取り出すのはともかく、これを剥がすのは面倒くさい作業だったはずだ。


 それではなぜ、犯人はこんなことをしたのか。答えは簡単だ。


 ――犯人にとって『U字ロック』は『U字ロック』でなければならず、『りんご』は『りんご』でなければならなかった。間違っても、『ジョナゴールド』や『がっちり安全U字ロック』であってはならなかったのだ。そして、『CD』はただの『CD』では駄目で、『Do As Infinityの』CDである必要があった。


 それらのことを踏まえた上で、一連の置き去り事件が示すもの。わたしはやっと、これだ、と思える答えを出すことができた。蓋を開ければ非常に単純なものだ。たぶん、今日も何かお店の前に置いていかれただろう。それが何かは、大体予想がつく。


 わたしはホームセンターから立ち去ると、足早にバイト先に向かった。シフトに入る前に、今日置かれていったものと、昨日の綿棒を見せてもらわなくちゃ。そうすればきっと、わたしの出した結論が正しいのかそうでないか分かるだろうから。



     *****



 公休日はやはり平日とは違う。お昼時と言うにはまだ少し早いけど、それでもなかなかの客入りだった。わたしのシフトが入っている時間は正にその『お昼時』なので、相当な忙しさが予想される。


 そんなわけなので、いつも以上に遅刻は許されない。事件の調査(と言うほど大袈裟なものでもないけど)は手早く終わらせなければと思いつつ、まだ制服に着替えず私服のままでいることに若干の後ろめたさを感じながら厨房を抜ける。


 ドアを開け、誰もいない事務室に足を踏み入れると、予想通り、店長のデスクの上には今日の放置品があった。

 まん丸な形をして、だけど中央に大きな大きな穴が開いている、三時のおやつによく出るあれ。

 それは、バームクーヘンだった。ティッシュで包まれているけど、間違いない。どこからどう見ても、胸を張ってバームクーヘンと言えるシロモノである。


 そのバームクーヘンは袋に入っておらず、裸のままだった。それを包むティッシュは、このデスクの上にあるボックスティッシュから取ったもので、始めから包まれていたわけではないと思う。

 わたしもバームクーヘンは結構好きでよく買うんだけど、『バームクーヘン』とだけ書かれた袋は見たことがない。どれも、『しっとりやわらかバーム』とか、『ミルクバームクーヘン』だとかの名前がついている。


 少し視線を動かすと、デスクには綿棒もあった。しっかりケースに入れられていて、大きく太い文字で『綿棒』とだけ書かれている。定価を見ると、なかなか高いシロモノだった。わたしの家にある百円ショップで買った綿棒は、確かひらがなで『めんぼう』と書いてあったはずだ。


 わたしは、自分の出した結論が間違いないと確信する意味合いで、小さく頷いた。


 バームクーヘンが裸のまま置かれていったのは、『バームクーヘン』であることを強調するため。わざわざ高い綿棒を買ったのは、漢字の『綿棒』であると念を押すため。それらでなければ、犯人の伝えたかったメッセージが完結しないから。


 そう、犯人は、この五日間でメッセージを送ってきていたのだ。嫌がらせでも何でもなく、この一連の品々はすべて暗号になっていた。


 この暗号を解く最大の肝は、あのぬいぐるみと裁縫道具。


 頭のとれたぬいぐるみと、それを修復することのできる針と糸。頭のとれたぬいぐるみを修復するとは、つまり、頭をつなげろ、ということだ。


 頭をつなげろ。つまり、ぬいぐるみや裁縫道具とともに残された物の、頭文字をつなげろ。


 一日目は、Do As InfinityのCD。

 二日目は、U字ロック。

 三日目は、りんご。

 四日目は、綿棒。

 五日目は、バームクーヘン。


 Do、U、り、綿、バ。DoUり綿バ。ドゥーユーリメンバ。

 Do you remember?


「……あなたは、覚えていますか?」


 我知らず、わたしはその言葉を呟いていた。これが、犯人の伝えたかったメッセージだ。

 けれど、一体誰に宛てた言葉なんだろう……?


 このお店にいる誰かひとりか、それとも、アルバイターも正社員も含めた、お店に関わる全ての人か。

 今の時点では、まだなんとも言えない。他に誰か特定の人物を示すようなヒントはないかと考えるけど、みつからない。一応、今日のバームクーヘンでひとつの文章は出来上がったけれど、もしかしたらまだ続きがあるのかもしれない。その可能性も大いにある。


 そして、まだ大きな謎が残っている。


 それは、犯人はなぜ、こんな方法でメッセージを送ってきたのだろう、というものだ。

 五日間、お店の前にぬいぐるみやら何やらを放置していく。これって結構手間もお金もかかる。それよりは、紙にそのまま『Do you remember?』と書いて置いていけばいいじゃないか。筆跡を残したくないんなら、ワープロで書けばいいことだし。


 そもそも、このメッセージを暗号にして伝えること自体、デメリットしかない。わたしのような物好きはこのメッセージを受け取ることができただろうけど、誰もこれが暗号だと気づかず、気味が悪いねえ、だけで終わってしまうこともあったはずだ。むしろ、その可能性のほうが高いんじゃないかと思う。


 それを承知の上で、べつに伝わらなくてもいいや、とこんな方法をとったのだろうか? いや、それもそれでおかしい。


 犯人は、わざわざりんごのシールを剥がしたり、U字ロックやバームクーヘンをパッケージや袋から取り出したりしている。Do you remember? の文字を完成させるためには、りんごはりんご、U字ロックはU字ロック、バームクーヘンはバームクーヘンじゃないといけないからそうしたのだと納得はできるけど、よく考えたら、わざわざそんなことをしなくてもいいじゃないか。ぬいぐるみと裁縫道具が、それぞれの品物の頭文字を繋げろ、という意味だと理解できればこの暗号は楽に解ける。


 たとえりんごに『青森産ジョナゴールド』と書かれたシールが貼られていようが、りんごはりんごだ。わたしたちは自然とそう考える。そしてそれは、U字ロックやバームクーヘンにも同じことが言える。


 間違っても、それぞれの頭文字を繋げろ、かあ…。じゃあ、Do As Infinityの『Do』に、がっちりU字ロックの『が』に、ジョナゴールドの『ジョ』に、めんぼうの『め』に、ミルクバームの『ミ』で、『Doがジョめミ』だ! なんて、馬鹿なことにはならない。


 じゃあ、どうして犯人はわざわざそんなことをしたのかと考えると、細かいことに徹底してまでこのメッセージを伝えたかったから、という答えしかでてこない。誰かがこの暗号に気づく可能性を少しでも上げたかったのだ、と。だから、このメッセージが伝わらなくていいや、と犯人が思ったはずはないのだ。


 そして、それなら直接紙に書いて置いていくのが一番確実じゃないか、と思考は振り出しに戻る。


 うーーん……。紙に書かず、わざわざ迂遠な表現でメッセージを伝えてくる理由……。犯人は、自分の筆跡を見られたくなかったけど、ワープロが使えないからこうした方法をとった? まさかね。今の時代、家にパソコンがなくてもネットカフェがあるんだし。重度の機械オンチでワープロの使い方を知らなかった、というのもちょっとなあ…。


 あるいは、とわたしは考える。


 ――犯人は、心理的な理由で紙に書いて直接メッセージを送ってくるのを躊躇ったのではないか?


「こらあ、桜井!!」


 びく、と反射的に肩があがった。誰かに怒鳴られたのだ。声のしたほうに目を向けると、そこには、


「な、中井さん。おはようございます。すみません、表、相当大変なことになってますか?」

「いや、まだそんなに。こうしてあたしがトイレ休憩入れるぐらいだからね」

「そうですか。あの、すみません、わたし、さぼってるわけじゃなくて。シフト入ってる時間までもう少しありますから、それまでちょっと考え事を…」

「ああ、さっき怒鳴ったの気にしてる? うそうそ、あれはちょっとびっくりさせようと思っただけだから。怒ってるわけじゃないよ」

「そ、そうですか」


 よかった。てっきり、わたしがさぼっていると勘違いして相当腹を立てているものだと思ったから、ちょっと安心。

 中井さんはわたしのほうへ近づいてきて、じっとデスクの上を見つめた。


「今日はバームクーヘンか」

「はい。中井さん、三時のおやつにどうですか?」

「そうね。三時といわず、お腹すいたから今食べようかしら……ってコラ」


 肩に軽い平手が一発。わたしは笑って、


「いいノリツッコミですね」

「まあね。で、どうなのよ。何か分かった、名探偵?」

「うーん、そうですね…」


 Do you rememberのメッセージを中井さんに伝えるかどうか、少し迷う。間違いはないと思うんだけど、もしかしたらまだ続きがあるのかもしれないし……。でも、一応訊いておくべきかな。


「あの、中井さん」

「ん?」

「突然、Do you rememberって尋ねられたら何か心当たりはありますか?」

「はあ?」


 非常に分かりやすいリアクションをとってくれた。中井さんは心当たりがない、と。


「何それ? 何か関係あるの?」

「はい、たぶんですけど。でも、中井さんは突然そう訊かれても意味分かんないですよね?」


 そりゃあね、と頷く。そして、少し考えて、


「それ、事件に関係あるんだよね? じゃあ、あたしも手伝って、お店の人たちに訊いて回る?」

「え、いや、結構です!」


 わたしは慌てて首と手を振って否定する。そんなこと、一番されたら困ることだ。


「なんで? あたしに訊いたってことは、他の人にも訊くつもりだったんじゃないの?」

「いいえ! 中井さんだから訊いただけで、他の人にまで訊いて回るつもりじゃありませんでしたし、まだ確実じゃないので、いいです、今は、中井さんだけで! 中井さんがいれば十分です!」


 自分でも何が言いたいのか分からない。でもまあ、いいとしよう。中井さんも、そ、そう? と一応は納得してくれたみたいだし。

 中井さんは、改めてデスクの上に視線を落とし、じっくりと眺め回した。


「一日目のCDってさ、どこいったのかな?」

「一番下の引き出しの中に入ってると思いますよ」


 以前、店長はそこからU字ロックを取り出した。たぶん、今までの放置品はまとめてそこに保管してあるのだろう。

 わたしの言葉を聞くなり、中井さんは欠片の迷いもなく一番下の引き出しを開けた。


「え、な、中井さん!?」


 いいの? 一介のアルバイトが、店長の机なんて開けて。


「あんまり大きい声出さないでよ。店長が来たらどうするの。……お、あったあった」


 U字ロックの下に敷かれていたCDを取り出すと、それを見て一言。


「やっぱりそうだ」

「何がですか?」


 中井さんはわたしに目を向けたまま、人さし指でCDケースを何度か叩いた。


「これ、ただのCDじゃない。初回限定生産のアルバムよ」

「え、そうなんですか?」

「そう。ほら、ここに書いてあるでしょ」


 中井さんが指差したところを見る。すると確かに、アルバムのタイトルの下に『初回限定生産』と銘打たれていた。


「あたしもDo As Infinity好きなんだけどさ。このアルバムが出たときまだお金なくて、欲しかったんだけど買えなかったんだよね。今はもう販売してないから、ネットのオークションでしか手に入らないと思ってたんだけど、こんなところで出会うなんて。……ああ、ちゃんとDVDも入ってる!」


 勝手にケースを開いて、中まで見始めた。

 いや、でも、今はそんなことどうでもいい!


「中井さん。このアルバム、今はもう手に入らないんですか!?」

「そりゃあ、初回限定生産だからね。普通のCDショップでは売ってない、貴重なものよ」


 普通のCDショップでは売っていない、貴重なもの……!?


「――あ」

「どうしたの、桜井? アホみたいな顔になってるけど」

「い、いえ、何でもないです! 中井さん、わたし、そろそろ時間なので着替えてきます! また後で」


 わたしはそれだけ言って、え、ちょっと、と戸惑う中井さんを残し、踵を返して事務室から出た。

 そして、厨房を歩きながら思う。


 たぶんわたしは、ここが狭く慌ただしい厨房じゃなかったら、わっと叫んで走り出していただろう。激しく動きたいというか暴れたいというか、要するに変なテンションだったのだ。頭の中は沸騰したてのやかんのように熱く興奮している。けれど芯の部分はあくまで冷たく冷静に、わたしの推論を分析している。


 そう、中井さんの言葉を聞いたとき、わたしの頭の中に閃光が走って様々な情報が瞬時に繋がり、自分でも信じられないことに、これだ、と思える推論が成り立ったのだ。こんなインスピレーションがわいたのは本当に久しぶりだった。


 そして、主観なしにあくまで冷静に客観的に考えても、この推論はなりたつ、とわたしの頭は判断した。


 これだよ。これなら、犯人がわざわざあんな方法でメッセージを送ってきたのも説明できる。パソコンが使えないからとかじゃない、ちゃんとした理由があったんだ。いくつか調べなくちゃいけないこともあるけど、きっと、これだ。


 更衣室まで歩きながら、わたしは冷静だった頭の芯までもが熱くなっていき、興奮とともに自分の口元に笑みが浮かぶのが分かった。わたしはやった。ついに、この事件の全貌を突き止めたんだ……!


「やっほう、都。……どしたの? なんか、変な笑いが顔中に広がってるけど?」


 更衣室のドアを開けると、先に着替えていた由奈がいた。

 わたしは彼女に、一層深くした笑顔を向ける。


「ちょっと嬉しいことがあっただけだよ。今日も頑張って働きましょうか!」



     *****



 お客さんが多く、目が回りそうな忙しさで、終わる頃にはすっかりへとへとになるはずの祝祭日出勤が、今日はまったく苦にならなかった。たとえ何度も注文を変更してくるお客さんや、受付をするときにようやく注文を考えるお客さんがいようと、一ミリの煩わしさも感じなかった。


「お疲れ様でしたー!」


 こうして、店長に帰りの挨拶をして外に出るときも、元気のいい声をだすことができるし。


「ねえ、都。宝くじでも当たったの? いつもとテンションが違いすぎるんだけど」


 隣を歩く由奈の顔には、少しの疲れと大量の訝しさが浮かんでいる。わたしは生徒が問題を間違えたときの先生のように大きく首を振るリアクションをした後、言葉を返す。


「そんなわけないでしょ。ただちょっと、嬉しいなーと思うことがあっただけだってば!」

「……ふーん、嬉しいことねえ。もしかして、例のぬいぐるみ事件のことが分かったとか?」


 わたしは、興奮していた頭が更に熱くなるのを感じながら答える。


「結構、分かってきてたりして」


 曲がり角を曲がる。駅はもう目の前だ。

 おお、と感嘆の声を上げて、由奈は大きな瞳を更に大きくした。


「すごいね、進展あったんだ! どんな感じなの?」

「それは秘密」


 彼女には、まだ言うわけにはいかない。

 由奈は、そっか、と小さく言って肩をすくめた。そして駅に入ったところで、ふたたび口を開いた。


「そういえば、アヤコさんから聞いたんだけどさあ、都、例の事件を解決してみせます、って言ったんだよね?」

「うん、まあね」

「そっか。じゃあ、頑張ってね。こんなよく分からない事件解決するにはさ……」


 ふっと、口元に小さな笑みが浮かぶ。


「どんなに小さい情報にも飛びつくのが大事だと思うよ」


 改札を抜けながらそれだけ言うと、じゃあまたねーと手を振ってわたしとは逆方向のプラットホームへ歩いていった。

 わたしは呆然と立ち尽くしたままその後姿を見送っていた。由奈が見えなくなった後も、わたしはその場から動けなかった。


 飛びつくのが大事。


 由奈の、その言葉を聞いただけで。わたしの頭には、あのときの光景が、ありありと――。



     *****



 手ごたえを感じた。今まで幾度となく感じてきた手ごたえだ。


 バットとボールがぶつかったとき、これは間違いなく抜けると分かった。ピッチャーの顔のわきを抜け、低い弾道で、センター前に突き刺さる。そうだ、これはセンター前ヒットの手ごたえだ。


 ボールが、物理法則に従ってバットにはじき返される。それさえ、わたしにはスローモーションに見えた。

 ゆっくり、ゆっくり。ボールが前に飛んでいく。予想通り、相手ピッチャー、森下の顔の、少し右を抜けていった。そのまま内野を抜けて、それは、センター前に……。


 そのときだった。


 こんなときでも数年間に渡って身体に染み付いた習性は消えず、打った直後はボールの行方を目で追っていたけれど、走り出したときは自然と首が回り、前を向いていた。けれど、ボールから目を離す直前、視界に茶色くて皮製で、五本の指があるものが入ってきたような気がする。あれは、なんだっけ?


 スローモーションで走りながら、考えて、気がついた。


 そうだ。あれは、グローブだ。センター前に飛んでいくボールの行く手をさえぎるように、グローブが出されたんだ。

 ――ぱあん、という大きな音がして、わたしのスローモーションは終わった。


 一度走り出したのでスピードを緩めることができず、わたしはそのままファーストベースを駆け抜けた。駆け抜けながら、ゆっくりと理解していた。

 今の音。あれは、毎日毎日聞いてきた音だ。バットとボールがぶつかり合う音と同じぐらい、何度も聞いてきた音。そうだ。今の音は。


 ボールが、グローブに収まったときの音。


 ――グローブで、ボールをキャッチしたときの音だ。


 そこまで思ったとき、わあ、と歓声が上がった。一塁側のベンチからだ。

 浜子柴高校のベンチから、歓声が上がったのだ。


 わたしは、ゆっくりと、二遊間を、見た。


 セカンドベースにかなり近いところで、女の子が倒れている。背が高くて、長い髪をひとつ結びにした女の子。

 その子がゆっくりと立ち上がる。そして、左腕を天に掲げた。


 彼女の腕の先には、使い込まれた、茶色のグローブ。その中には、真っ白のボールが。ソフトボールが、入っていた。

 わたしは、ふたたび上がった歓声を聞きながら、ベースを駆け抜けたとき理解したことの意味を実感した。


 わたしの打球は、内野を抜けなかった。途中で、相手チームのショートがキャッチしたのだ。あらかじめ、守備位置をかなりセカンド寄りにしていたそのショートが、横っ飛びジャンプで。ノーバウンドで、そのショートは打球を捕ったのだ。


 そのショートの名は、松野由奈。浜子柴高校のキャプテンで、走攻守、すべての要。


 二年前まで中堅だったはずの浜小柴高校は、インターハイ県予選で優勝した。ナンバーワンの座に君臨し続けていた月野宮学園を下し、全国大会の切符を手にした。


 こうして、わたしたちは負けた。あまりにも短い、夏が終わった。


 ――松野由奈は文字通り、勝利に飛びつき、それを手にしたのだ。



     *****



 気がついたら家に帰って来ていた。いつもなら途中のコンビニで何か食べ物を買って帰るのだけど、手ぶらで玄関に立っているのを見るに、今日はコンビニには寄らなかったらしい。


 わたしはゆっくりと部屋まで歩いた。

 ベッドがあって本棚があって勉強机のあるわたしの部屋。ドアを開けると、何てことのないいつもの光景。


 ベッドに腰掛けると、首を回して勉強机に付いている一番下の引き出しを見る。


 そこには、一枚のDVDと、手作りのキーホルダーが入っている。


 貰ってしばらくは鞄につけていたり机の上に置いていたりしたのだけど、見るたびにいたたまれなくなって引き出しの中にしまって以来、一度も開けていない。DVDは一度も観ていないし、キーホルダーが鞄についていた時間は三日に満たない。


 それは、インターハイ県予選の開会式の日に後輩たちから貰った、『絶対優勝!』と縫い付けられたキーホルダーと、引退した後に父母会が作ってくれた三年間の想い出を記録したDVDだ。


 ――わたしはまだ、それらを正面から見ることが出来ずにいる。

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