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帯分数は遠いけど  作者: 天そば
第三章 迷走する仮分数
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迷走する仮分数 8

     11



《月曜日》



 熱は下がったといっても、やっぱり体力は消耗しているらしい。目が覚めたら九時だった。

 いつもは自然に五時に起きるはずが、こんな時間まで眠ってしまうなんて、となんだか悔しい気分になりつつ顔を洗い、リビングに行く。実は九時から塾だったはずだから、もう行ってしまったんだろう。


 一応、昨夜のシチューの残りがあるからそれを朝ご飯にしてとは言ってあったけど、鍋のふたを開けるとまったく減っていない。

 我ながら、結構美味しくできたと思うんだけど……。そういえば、昨日もあいつはビーフシチューをほとんど食べていなかったっけ。お腹が痛いとか言ってたけど、大丈夫かな。ちゃんと塾行けたかな。

 

メールしようかと思ったけど、それはそれでうざいなと思い直し、開いたケータイを閉じる。あいつはそういうお節介を嫌がるタイプだ。


 鍋に火をかけてシチューを温めるあいだ、回復した食欲はたぶんシチューだけでは満足しないだろうなと冷蔵庫を開けて、ユキから貰ったりんごを取り出す。


 そして気がついた。

 一昨日の夜、寝る前に何か引っかかることがあると思っていたけど、それが何だったのか。


 ユキから貰ったこのりんごは、赤くて丸くてへたがあって、どこからどう見てもりんごである。ちょうど一昨日、店長に見せてもらったものと同じように。――けれど、両者にはひとつだけ違いがあった。


 このりんごには、シールが貼ってある。『青森産ジョナゴールド』。製品名が書いてあるシールが。八百屋さんなんかに行っても、りんごにはすべてそうしたシールが貼られていると思う。しかし、わたしたちの店先に置いてあったりんごには、それが貼られていなかった。

 もともと貼られていなかったのか、あるいは……。


「犯人が、わざわざ剥がしていった……?」


 何のために? 

 製品名がばれてはまずいものだった? 犯人はりんご農家の人物で、製造元を辿られるのを恐れた、とか。いや、でも、それならりんご以外のものを置くか、それができないなら他の農家で作られたりんごを買えばいいだけだ。シールを剥がす理由にはならない。

 …………待てよ、そういえば。


 二日目のU字ロック。あれは、見たところ新品だった。なのに、パッケージに入っていなかった。

 最初は入っていたのに店長が開けたのだろうか? でも、そうだとしたらU字ロックと一緒にそのパッケージも見せてくれそうなものだ。そうすると、たぶんそのまま新品のU字ロックが裸で店先に置かれていたのだろう。わざわざU字ロックを取り出す意味は?


 パッケージに指紋をつけてしまったから? だから、それを残したくなくてU字ロックだけをそのまま置いていったのだろうか。それならまあ、納得できないでもないけど……。


 でも、この一連の出来事は、わたしたちが勝手に『事件』とか『犯人』とか言っているだけで、実際は大した罪じゃない。段々とエスカレートしていくわけでもなし、営業妨害として認められるかさえ疑わしいのに、まるで推理小説に出てくる犯人のようにいそいそと指紋の隠滅に励むだろうか? それよりは、何か他にわけがあってU字ロックをパッケージから取り出したというほうが納得できる。恐らくは、りんごからシールが剥がされていたのも、同じような理由だろう。

 けれど、肝心のその理由が分からない。犯人にどんなメリットが?


[…………よし、こうなったら」


 わたしは取り出したりんごをふたたび冷蔵庫に戻した。そして、部屋からルーズリーフとシャーペンを持ってきて、食卓テーブルにつく。この際だから、疑問点をまとめておこう。

 まず最初に、今気がついたりんごのシールとU字ロックのパッケージのことを書き留める。


 1、りんごのシールと、U字ロックのパッケージを除去。指紋の隠滅のためでは恐らくない。


 そしてふたつ目に……。


「初日に置かれていったCD、と」


 あれだけは、そのままケースに入れられていた。他のふたつはシールを剥がされていたり、パッケージから取り出されたりしていたのに。それから、ついさっき買ってきたようなりんごやU字ロックと違って、年季の入った、薄汚れたものだった。


 そして何よりも特筆すべき点は、それがDo As InfinityのCDだったことだ。最初も思ったけど、なぜDo As Infinityなんだろう? ただ適当に選んだCDがそうだっただけで、意味なんかないのかもしれないと思ったこともあった。けれど、そうじゃないと今なら断言できる。りんごのシールをわざわざ剥がし、U字ロックをパッケージから取り出す犯人だ。きっと、Do As Infinityである意味があるはずだ。そもそも、CDを置いていきたいのならそこら辺の百円ショップに録音用のものがいくらでも売っている。それを買わなかったのは、百円を惜しんで家にあったCDを持ってきた、なんてことではなく、どうしてもDo As Infinityでなければならなかったからだろう。


 2、初日のCD。ケースに入れられていて、古かった。Do As Infinityでなければならなかった。


 そうまとめて、その下に、最後の、一番大きな謎を書き連ねる。


 頭のとれたぬいぐるみと、裁縫セット。

 同一犯によるものだとアピールしたいのであっても、わざわざ三つも物を置いていく必要はない。そもそも、クマのぬいぐるみの首を取る必要もない。あれにも、何か意味がある。


 3、頭の取れたクマのぬいぐるみ(百円ショップで見たことある)、裁縫針、裁縫糸。同一犯というアピールではない。


 他にも小さな疑問はちょこちょこあるけど、とりあえず、大きいのはこんなところかな。後は、放置された物を書いておこう。Do As InfinityのCD、U字ロック、りんご、綿棒、と。

 わたしは、ルーズリーフに書いた三つの謎と品物を見比べる。


 1、りんごのシールと、U字ロックのパッケージを除去。指紋の隠滅のためでは恐らくない。


 2、初日のCD。ケースに入れられていて、古かった。Do As Infinityでなければならなかった。


 3、頭の取れたクマのぬいぐるみ(百円ショップで見たことある)、裁縫針、裁縫糸。同一犯というアピールではない。


Do As InfinityのCD、U字ロック、りんご、綿棒。


 これらが示すものは?

 わたしはルーズリーフに視線を睨むようにして考えた。考えて考えて、そして数分後、納得のいく結論にたどりつくと同時に、


「……あっ!」


 シチューの焦げる匂いが漂っていることに気がついた。



     12



「やっほ、桜井くん。奇遇だね」


 駅から出て数歩歩いたときに、突然後ろから肩を叩かれた。振り向くと、おれより頭ひとつほど背の高い女子の姿。

 松野由奈だ。当然のようにおれと並んで歩き出す。


「ああ、おはよう。びっくりだな」

「学校以外で会うの初めてだもんね。これから塾?」

「ああ。九時からなんだ。松野はバイトか?」

「ううん。『坂上屋』で友だちとお喋り。バイトはお昼からだよ」


 そこまで言って、そういえば、とおれの顔を見た。


「都、大丈夫? 熱出てたでしょ?」


 おれは苦笑した。大丈夫も何も、本当に熱なんてあったのかすら疑わしい。

 おれたち以外に誰も渡らない横断歩道を早足で渡りながら答える。


「もうすっかり治ってるよ。家の掃除とか、料理までできるぐらい」

「ああ、よかった。私がおでこ触ったときはかなり熱くなってて、相当熱があるなと思ったんだけど。じゃあ、今日のバイトも来るんだね」

「だと思う」


 松野は安心したように胸をなでおろし、続けて訊いてきた。


「ところで、桜井くんは何かいいことでもあったの?」

「……いや、特に何もない」

「そう? 何となくいつもより嬉しそうに見えたんだけど、気のせいか」


 ふんふんと前をむいて頷く。横断歩道を渡り終えると足を止めて手を振ってきた。


「私はこっちだから。また明日ね、桜井くん」


 おれは何も言わず手を振り返した。


 そうか。……松野には、おれが嬉しそうに見えたのか。



    *****



 気分が落ち込んでいようが何だろうが、容赦なくスケジュールの波は襲ってくる。他に考えたいこと、やりたいことがあっても塾には行かなければならず、受験生のおれは勉強しなければならない。

 けれど、そんな状態で授業を受けたところで身が入るわけなんてないのだ。


「なあ、お前大丈夫か? ずっとおかしいぞ」


 授業が終わっても席に座ったままぼーっとしているおれを見かねたのだろう、正則が訊いてきた。


「なんでもない。ちょっと疲れただけだよ」


 それだけ言って、おれは鞄に教科書類を詰めて立ち上がる。


「おれ、今日は自習して帰る。お前はどうする?」

「俺も自習するよ。でも、その前に少し話さないか?」


 おかしいな、と思った。個人ブースに行く途中で話が弾んでしまい結局立ち話をすることは多々あるが、こいつがわざわざ話をしようと言い出すことはおれの知る限りではなかった。

 何か、真剣な話をしようとしているのだろうか…?


 そう考えると、話したくないな、と思わないでもない。だが、おれは黙って頷いた。いちいち否定するのも面倒くさい、もうどうにでもなれ、というひどく無気力な状態だった。


 塾内で話をするのにお決まりの場所、入口付近の自販機の隣にあるベンチに腰を落ち着けた。野朗ふたりでくっつきあうのも気持ち悪いので、空間をあけて座る。


「で、何の話をしようってんだ?」

「その前に、都さんはもう大丈夫か?」

「ああ。昨日おれが帰ったときにはもうぴんぴんしてたよ。夕飯まで作ってた」


 ご丁寧に、ビーフシチューを。


「そうか。ならよかった」


 正則は安堵した表情で、ふう、と小さく息を吐いた。

 おかしいな、とまたおれは思った。こいつは姉貴の話になるとテンションが上がって素が出てくるはずなのに。俺が看病したかった、とか何とか言い出すだろうと予想していたのだが、こんなに大人しい反応をするとは。

 正則は視線を宙に向けて呟くように、


「なあ、実」

「なんだ?」

「お前、大丈夫か?」

「何が?」

「色々なものが」


 色々と言われても。曖昧すぎて分からん。


「まあ、一番分かりやすいのは成績だな。今日の英単語テスト、何点だった?」

「三八だった」


 この英単語テストとは、塾が作っている英単語テキストから百問を抜き出してひとつ一点で換算するテストのことだ。英語の授業では最初の二十分はこれに費やされる。

 正則は宙に向けていた視線をおれに向けてきた。あまり見ることのない、真剣な表情をしている。


「昨日、家で何かあっただろ? 今日のお前はやばいぜ。どこに魂置いてきたんだってぐらい無気力だ」

「おれはいつもそんなだよ。知ってるだろ?」

「いつも以上に、ってことだ。授業中はペンも握らない、テストにもまったく集中しない。いくらなんでも、三八点はないだろ」

「今日はたまたま調子が悪かったんだよ」


 だからもう、放っておいてくれ。そう続けようとするが、語気を強めた正則の言葉にかき消された。


「なあ、俺に言いたくないんなら無理して言わなくてもいいよ。けど、そうやって投げやりになるのはやめたほうがいいぞ。何の意味もないからな」

「投げやりになんてなってない。今日はいつもより疲れてるだけだ」


 はあ、と正則はため息をつくと、藪から棒に訊いてきた。


「なあ、実。お前は橘を見てどう思う?」

「……一生懸命なやつだと思うが」

「だよな。あいつはできる限りのベストを尽くして初恋の人を捜している。お前が橘だったらそこまですると思うか?」

「しないと思う」


 即答する。実際、橘を一生懸命だなと思う半面、なぜそこまでと思う気持ちもあるのだ。見つかる可能性は低いじゃないかと。おれなら、大して話さないようなやつに初恋のエピソードをうちあけてまで捜さないだろう。


「だよな。お前はそんなことしないだろう。けど、俺だったらやる。この違いは何だと思う?」


 もったいぶった正則の話に苛立ちを覚えながらも、おれは思いつくままを答える。


「単純に、性格の違いだろ」

「そうとも言えるな。でも俺は、考え方の違いだと思う。実、お前は見つかる可能性は低いからとか何とか考えたんじゃないか?」

「そうだよ。それに、いちいちひとりひとりに話をしなきゃいけないのが面倒なんだ。それが普通だろ?」

「いいや。俺はそんなことまで考えない。思い立ったら即行動だ。橘もそうだろう、とは言い切れないが、少なくとも話すのが面倒とは考えなかっただろう。早い話が、お前は考えすぎなんだよ」


 人さし指を突きつけてそう宣言する。

 おれが考えすぎね。確かに、そう思わないでもない。


「お前と初めて会ったとき、こいつ、やる気なさそうなやつだなと思ったよ。こうしてよく話すようになってからもそう思う。けど、最近になってその理由が分かってきた。お前は行動する前に考えるタイプだ。それはべつに悪いことじゃない。けど逆に、考えすぎて身動きが取れなくなることがあるんだよ。もし失敗したらどうしよう、頑張っても努力が実らなかったらどうしよう、って具合にな。違うか?」


 何か言い返してやろうと思った。だが残念なことに、返す言葉を持っていないおれは、しかめ面で黙り込むしかない。


「なあ、怒らないで聞いてくれよ。正直に言うと、煮え切らないお前を見てると、ときどきムカつくことがあるんだよ。慎重に行動するのは悪いことじゃないと思う。でも、それと頭でっかちになって身動きがとれなくなるのは全然違うぜ。変に勘ぐりすぎてもやもやする暇があったら行動しろよ。がむしゃらに、何でもいいから何かに打ち込めよ。そうやって見えてくるものってあるんだから」


 ………。

 おれは何も言わない。何も表情を変えない。頭の中では、今の正則の言葉を咀嚼するので精一杯で、そんな余裕はなかったのだ。

 何も反応を示さないおれをしばらく見ていた正則は、やがて表情を緩めた。


「悪いな、突然こんな話をして。お前にも色々あるだろうって、分かってはいるよ。けど、どうしても言っておきたかったんだ」

「ああ…。……まあ、ありがとう」


 にかっと、正則は口を広げて笑った。そして、おれの背中を平手で叩いてくる。


「うし、じゃあ、勉強しにいくか! 英単語、しっかり覚えなおさないとな!」


 行こうぜと陽気な声とともにと立ち上がり、おれに視線を向けてくる。それらの芝居がかった仕草は、真面目な話は終わり、いつものように振る舞うぞ、と言外に伝えてきていた。

 だからおれも軽く頷いて立ち上がり、自習室の個人ブースに座って黙々と勉学に励む受験生を演じた。手は英単語をノートに書き写しているが、頭はそれらにまったく集中していない。


 おれが考えすぎというのは、本当だと思う。

 でも……。


 そう簡単に、断ち切れるものでもないんだよ。

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