物足りない青春 1
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《火曜日》
From 藤原正則
To minorai@******ne.jp
sub 想像以上!
『お前の姉ちゃんまじパネエ!!』
空気が本格的に乾燥した冬のそれになりつつある火曜の朝、いつも時間ギリギリまで寝ているおれは、そのメールのせいで普段より十五分も早く起きてしまった。
おのれ正則の野郎。朝の十五分はかなり重要だぞ。これで今日居眠りをかましたら奴のせいだ。塾でたっぷり文句を言ってやろう。
残り十五分という微妙すぎる時間では二度寝をする気にもなれず、外でチュンチュン鳴く鳥の声を聞きながら渋々ベッドから身を起こす。メールはシカトしよう。どうせ後で会うのだし。
「おはよう。なに、今日は早いじゃん」
リビングでは、制服に身を包んだ姉貴が木製の食卓テーブルで朝飯を食っていた。
トーストに野菜スープ、サラダ、スクランブルエッグ。デザートにはヨーグルトと、今朝は完全に洋風だ。
「まあ、たまには」
適当に返事をして、洗面所に向かう。おれは朝起きたらまず顔を洗い、歯を磨くのが習慣だ。
「実ー。ココアとコーヒー、どっちがいい?」
「ココアー」
姉貴の問いにそう言い返し、顔を洗いながら考える。正則からきたメール。
『お前の姉ちゃん、まじパネエ!!』
パネエとは、どういう意味で半端ないのだ?身長がスーパーヘビー級なのは前から知っていただろう。あいつと姉貴は同じ高校なのだから。バッティングの飛距離が化け物なのも知っているし……。
洗顔を終え、コップに立ててある歯ブラシを取る。ここにある歯ブラシは四本だが、青と黄色の二本は滅多に使われることがない。
父さんも母さんも外資系の仕事をしており、とにかく出張が多い。一年の内、家にいるのは確実に半分以下だと断言できる。まあ、もうそんなことを寂しがる歳でもないからべつにいいのだが。
歯ブラシでがっしがっしと歯を磨く。いつだったか、何かのテレビ番組で寝起きの口内はばい菌の宝庫だと言っていた。それを聞いて以来、朝の歯磨きをかなり念入りにするようになった。そんな口で朝食を食いたくはない。
歯磨き粉だらけの口内に水を含み、もごもごしてから吐き出す。歯磨きを終えたあとの、なんともいえない爽快感がおれは好きだった。
タオルで口回りを拭き、リビングに行くと、姉貴がちょうどおれの朝食を準備し終えたところだった。いつもの席に腰を落ち着ける。
しかし、よく考えると、姉貴と顔をつき合わせて飯を食うなんてかなり久しぶりだ。
いつもなら、おれが起きるころには姉貴はとっくに朝食を終えていて家を出る寸前だし、夜はお互い塾やらバイトやらで時間が合わない。休日だって起床時間が大きく異なる。最後にこうして一緒に食卓を囲んだのはいつだったろうか。思い出せない。
湯気のたつココアを一口すすると、冷えた身体に染み渡った。
「そういえばさ」
正面に座る姉貴が、トーストをかじりながら言った。
「昨日、藤原くんと話したよ。あんたの塾の友達の」
「ああ、正則と。そりゃまたどうして?」
あまり驚きはしなかった。メールを見た時点で、何か接点があったのだろうと思ったからだ。
「いや、まあ、色々あってさ。あんたにもあんな爽やかな友達がいるんだね。意外だった」
「ふうん」
言いつつ、おれは口元がつりあがるのが分かる。
あいつのことを『爽やか』とは。本性を知ったら、到底そうは言えなくなるだろう。
「いい友達だね。大事にしなさいよ」
「ああ、分かってるよ」
トーストを口に突っ込みながら言ったので、「ふぁはってふよ」というような発音になった。まあ、通じただろう。
「ならいいんだけど。じゃ、わたし、もう行くね。戸締りお願い」
少し早口で言うと、空になった食器をシンクに運び、床に置いてあった鞄を手に、姉貴はそそくさと家を出て行った。
外に出る直前、
「お弁当、台所に置いてあるからー」
と言い残して。
ふう、とため息をつく。かなり急いでいたことをみるに、今日も近澤と羽原との待ち合わせの時間ギリギリだったんだろう。大変だねえ、いつもいつも。
トーストを野菜スープで流し込み、サラダとスクランブルエッグをかきこんで、朝食を終えた。今日は時間に余裕があるが、いつもの癖であまり租借せず大急ぎで食べてしまった。まあ、若いのでいいだろう。がんばって消化してくれるさ。
食器類を台所に運ぶと、姉貴の言うとおり、『お弁当』が置いてあった。といっても、弁当箱に入った可愛らしいものではない。サランラップに包まれたサンドイッチに、缶詰のみかんを移し変えたタッパー。
少し前までは弁当箱に彩とりどりのおかずが入っていたのだが、最近はずっとサンドイッチだ。
もちろん理由は分かっている。そしてその理由を思うたびに、おれは胸の奥に何とも言えない複雑な感情が渦巻くのを感じるのだった。
「おお、やべ」
しばらくぼーっとつっ立っていると、時間が大変なことになっていた。これではいつもと変わらない。
おれは踵を返し、制服に着替えるため急いで部屋に向かった。せっかく早起きしたのだから、いつもよりほんの少しは余裕を持ちたいものだ。
おれ、桜井実の双子の姉は、桜井都という。
私立の名門、月野宮学園に通っていて、昔から平均より飛び抜けて大きく、勉強もスポーツもよくでき、どこにいたって目立つ存在だった。
対照的におれは、腹の中にいるあいだに姉ちゃんに成長ホルモン持っていかれただろ、と親戚や友人が口をそろえて言うほどの低身長に、勉強もスポーツも平均以下。高校だって、月野宮に落ちて公立の無名高、浜子柴高校に通っている。
ここまで違うと悔しがる気にもなれず、むしろ冷静に、同じ双子でもこんなに差が出るものなのか、なんて思ってしまう。多分おれが腹の中であいつに持っていかれたのは、成長ホルモンだけではないんだろうな。
そんなおれももう高校三年生。正直いまいち実感が湧かないではあるが、受験に向けてまっしぐらな日々を送っている。
2
「ミヤ、なんだか嬉しそうね」
学校に向かう電車の中、隣でつり革に掴まったユキが唐突にそう言った。
朝の電車内の人口密度は今日も割高で、相も変わらず座れる見込みはなさそうだ。
「ん、そう?」
身に覚えのないわたしはそう返すしかない。
「そーだよ。あたしも朝会ったときから思ってたもん」
マチまでそう言うのなら、そうなのだろう。でも、なにか嬉しくなるようなことがあったっけ……?
「あっ」
思いついた。そういえば、ひとつだけあった。いつもと違うことが。
「今朝、久しぶりに実と朝ごはん食べたんだよね。いつ以来だろ」
わたしも実も多忙な日々を送っているので、一緒に食事をすることは滅多になくなっていた。それどころか、最近はゆっくり話す時間さえ持てていない。
「おー、ミノくんと。いいね、たくさんお喋りできた?」
「いや、あんまり。ちょっと話してすぐ時間がきたから、わたしだけ先に切り上げた」
そうなのだ。べつに大した話はしていないし、あいつは相づちも適当だったしで、特別嬉しい時間ではなかったはず。
……いや、違うか。
短い時間でも一緒に食卓を囲んだことに意味がある。ひとりで食べているときはなんとも思わないけど、やっぱり誰かがそばにいるというのは嬉しいものだ。
「兄弟っていいわね。あたしもほしかったわ」
うらやましそうなユキの言葉。彼女は一人っ子なのだ。
「でも、多すぎてもときどき困るよー」
四人兄弟の三番目という、なかなかに微妙なポジションにいるマチが言うと、なんだか妙な説得力がある。
電車が駅に止まり、結構な数の人が流れ込んできた。降りる人はほとんどおらず、必然的にわたしたちは先ほどより身体を密着させることとなる。目的地まで、あと二駅。
「ねえ、ミヤ。実くんはどこの大学に行くの?」
「あー…、そういえば、訊いてないや」
我ながら驚いた。
そんな大事なことを訊いていなかったということはもちろんだが、何より、訊いていなかったことに気づきもしなかった自分に。
わたし、そんなに薄情だったかなあ……。
ユキは少し呆れたように、
「そんなことも話してなかったわけ?じゃあ、実くんはミヤが合格したことにも知らないんじゃないの?」
「それは流石に知ってるよ。ちゃんと自分で言いました」
あいつは無愛想にただ一言、おめでと、と言っただけだったが。
「ミノくんがかわいそーだよ、ミヤ。おうちにふたりだけなんだから、もっと話しなよ」
「そうは言ってもさあ…。あいつ今、部屋にこもって勉強ばっかしてるから、声かけづらいんだよね」
受験生にやたらめったら話しかけるのはNGだろう。中身のない与太話は時間の浪費につながる。
そうか。だからこそわたしは、今朝少しでもあいつと話ができたことが嬉しいのかもしれない。朝の食卓でなら、受験生だからとか、変な気を使わずに接することができる。話をするわたしも、普段より幾分か気が軽かったのだろう。うーん、なんというか……。
「なんか今、自分の意外な一面を発見しちゃったみたい」
「いいことじゃない。自分を知るって大事だと思うわ」
「うん。成長だよ、成長」
あはは、と苦笑する。そんな大げさなものでもないと思うんだけど。まあ、こんなことを天然で言えるふたりの性格がわたしはかなり好きなのだけど。
「あ、そういえば」
なんとはなしに顔を上げ、偶然目に入ったハンバーガーショップのポスター。それで思い出した。
「マチ、ごめん。わたし今日、バイトが四時から入っちゃってさ。その…、掃除お願いしてもいい?」
普段はたいてい五時からなのだけど、今日は他の人たちの都合で四時から九時までのシフトが組まれている。帰りのホームルームのあと、掃除にまで出ていたら確実に間に合わない。
「しょーがないなー。いいよ」
「ありがと。助かる」
今度ハンバーガーでもおごってやろうかな。もちろんユキも一緒に。
上機嫌でそんなことを考えていると、車内アナウンスが次がわたしたちの降りる、宜野駅であると告げた。人が多くてあまり進むことはできないのだけど、三人そろってできる限りドアよりへ移動する。宜野駅は人の出入りが激しいため、このタイミングでドアよりの位置を確保するのがわたしたちの習慣だった。
駅につき、ドアが開くと、大量の人と押し合いへし合いしながら電車から降りる。いつものことだけど、やはり朝の電車は疲れるものだ。プラットホームで、無意識にふう、と安堵のため息が出た。
ユキとマチ、そしてその他大勢の通勤通学の方々とともに改札を抜け、駅から出る。空気こそ乾燥して冷たいが、空はよく晴れていて気持ちのいい日差しが差し込んできている。少し前なら、絶好の部活日和だ、なんて思っていたのだけど……。
駅から出てすぐの横断歩道で信号待ちをしているとき、そういえば、と言ってユキが手をたたいた。
「ミヤ、今日のバイト、由奈も一緒?」
「うん、そうだけど」
信号が青になったので歩き出す。ここの歩行者信号は赤に変わるのが速いので、いつも自然と速足になってしまう。歩道を渡り終えたあと、ユキはスクールバッグを開け、一冊の本を取り出した。
「悪いんだけど、これ、返してもらえないかしら。選抜のときからずっと借りっぱなしだったのよ」
ソフトカバーの単行本で、明るいモスグリーンの表紙には、『打者の心理、投手の心理』というタイトルが踊っていた。その下には、デフォルメされた可愛らしい少年バッターとピッチャーのイラスト。
「選抜って、結構前じゃない。あんた、ずっと借りてたの?」
「うん。ゆっくり読んでいいって言われたから、つい、ゆっくり読みすぎちゃって」
この、二百ページそこそこの本を読むのに二ヶ月以上とは。一日平均三ページちょっと。しかし、それにしても、
「こういうの読むんだね、由奈」
流石というか何というか。でもこんなライトなかんじのものじゃなくて、もっと分厚く、難しそうな本で研究していそうなイメージだったんだけど。
「でも、その本、すごくためになったわよ。ミヤも借りてみたら?」
「いや、いい」
と、口が勝手にそう動いた。
「どーして?おねがいすれば、貸してくれるよ。由奈なら」
「わたし、人から借りたものには気を使っちゃうからさ。ゆっくり読めないの。だから、読みたい本は自分で買う」
言いながら、まあ、嘘ではないよね、と心中でつぶやく。
ふたりは特に疑う様子もなく、ふうんと頷いた。
それから学校に着くまでは、最近のクラスの雰囲気だとか、昨日観たテレビの話だとかをして過ごした。いつもとまったく変わらない、わたしたちの通学風景だった。
こんにちは。天そばです。
前作よりだいぶ長めになると思いますが、完結させられるよう頑張ります!最後までお付き合いしてくださると嬉しいです。