迷走する仮分数 5
6
わたしがいくら風邪という病に対する知識がりんごの皮並にぺらぺらだと言えど、三十八度八分が高熱と言って差し支えない数字だということぐらいは知っている。気分的な問題かもしれないけど、頭痛もだるさも何もかも一層ひどくなってきた気がする。どうしよう……。
――いや、でも、途方にくれている場合じゃない。あったかい服装に着替えて、何か少しでも食べて、薬を飲んで寝よう。それが風邪を治す一番の近道だと聞いた気がするし。
部屋に行って、制服からスウェットに着替える。着替えるのにこんなに体力を使ったのは初めてだった。動作のいちいちが辛い。
着替え終わるとリビングに行く。まず薬箱にある風邪薬のラベルに、食後に服用と書いてあるのを確認し、食べるものを捜す。食欲なんて全然ないから食べられるものなら何でもいい。
しかし、こんなときに限って手軽に食べられるものがない。わたしは普段、日曜日に一週間分の食べ物をまとめ買いするので、土曜日の夜はもっとも食べ物がない時間帯なのだ。
どうしよう。この体調で、まさか料理をするという選択肢はないし。
壁にもたれかかるようにして突っ立って考えていると、突然鳴ったぴんぽーんという間抜けな音に心臓が止まりそうになった。誰かがインターホンを押したのだ。
「はーい」
声を出して分かった。若干、鼻声になってる。それでも誰か来たんだら出迎えないわけにはいかないので、ふらふらと玄関に向かう。
「ミヤー。夕ごはんのビーフシチュー、作りすぎちゃったからおすそ分けにきたよー。もうごはん食べちゃった?」
ドアの向こうから、そんな声が聞こえてくる。マチだ。
ドアを開けると、鍋を持って軒先に立っていたマチは笑顔になったが、わたしの顔を見るなり一瞬で驚愕の表情に変わった。
「ミヤ、どーしたの!? 風邪ひいてる?」
顔を見ただけで分かるらしい。マチがすごいのか、わたしがいかにも病人な顔をしているのか。たぶん、後者かな。
「うん…。でも、シチューは助かる。食べるものがなくて……」
「ごはんないの!? ちょっと、おじゃまします!」
マチは半開きのドアから身体を滑り込ませて室内に入ってくると、靴箱の上に鍋を置き、精一杯の背伸びをしてわたしの額に手を当てた。わたしは訊かれる前に答える。
「三十八度八分あった」
「やばいよ、それ。ミヤ、ソファーで横になっといて。あたしがシチューあっためてもってくるから。薬はある?」
「テーブルの上に」
「分かった。行こ」
わたしの腰に手を回すようにして支えながら歩き出す。わたしとマチの間にある身長差と体重差は相当なものなので、本当なら自分でしっかり歩きたいところなんだけど、わたしはこのときばかりはマチの優しさに甘えることにした。
「横になってて」
そう言ってわたしをソファに寝かせ、踵を返してどこかへ行ってしまったかと思うと、しばらくして小さな腕一杯に毛布を抱えて現れた。
はい、と寝そべるわたしに毛布をかけてくる。身体の上に三枚も毛布を重ねられたけど、熱いとも重いとも感じなかった。むしろ、寒気がまぎれて大助かりだ。
「ありがと…、マチ」
「うん。薬のむよ」
しかし、テーブルにある風邪薬の箱を見て、マチはあっと声を漏らした。
「これ、有効期限とっくにすぎてるよ。一年以上も」
そうなんだ。わたしも実も健康面に関してはトップレベルで、薬箱を開けることは滅多にないので、気づかなかったんだろうなあ。
本格的に頭がぼーっとしてきて、大変なことのはずなのにまったくそう思えない。
マチはポケットからケータイを取り出すと、何度かボタンを押して耳に持っていった。
「もしもし? あたしだけど、ミヤが熱だしてる。風邪薬ある? ちゃんと有効期限切れてないの。………そっか、じゃあ、もってきて。うん、お願い。まってるから」
それで通話を終えるとケータイを仕舞い、今度は子走りに玄関に行って、鍋を手に戻ってきた。
「コンロ借りるね」
わたしが小さくうんと言うのを聞いて、マチは鍋を火にかけた。鼻がビーフシチューの香ばしい、けれど今はまったく食欲をそそらない匂いを嗅ぎ取ったとき、がちゃりと玄関のドアが開く音。続いて足音とともに、大きな声。
「ミヤ、大丈夫!?」
ユキだ。手には錠剤が詰まった風邪薬のビンと、青森産ジョナゴールドと書かれた金色のシールが貼ってある真っ赤なりんご。それらをテーブルに置くと、まっすぐわたしのところへ駆け寄ってきた。床に膝を着いて、視線を低くする。
「ミヤが風邪ひいたってマチから聞いて、びっくりよ。ひどい顔してるわ。何度出たの?」
「三十八度八分」
さっきマチに言ったとおりのセリフをくり返す。するとユキもマチと同じような表情になり、似たような言葉を継いだ。
「やばいわね。薬飲んで寝てなくちゃ」
首を後ろに回して、シチューをかきまぜるマチを一瞥すると、
「シチュー食べられそう? りんご持ってきたんだけど、どっちがいい?」
「りんご」
「分かった。マチにお願いしてくる」
そう言って台所に行ったユキは、しばらくして洗面器に氷水とタオルを入れて戻ってきた。その後ろには、ガラス製の深皿を持ったマチが。
「りんごしりしりにしたよ。食べられるだけでいーから」
「ありがとう」
眠っていた身体を起こす。開いた口からさっきから小刻みに吐息が漏れているけど、その息ですら熱を持っていて気持ちが悪い。発熱ってこんなに苦しいのか。
マチは器とスプーンとわたしを二度三度と見て、戸惑いがちに訊いてきた。
「だいじょうぶ? 自分で食べられる? なんなら、あたしが食べさせようか」
強がりでも何でもなく、単純に笑みがこぼれてしまった。
「それぐらいは大丈夫。でも、ありがとう」
器とスプーンを手渡した後も、マチは心配そうにスプーンを口に運ぶわたしの手を見つめ続けた。するとユキが、なぜか胸を張って頼もしさをアピールしながら、軽くマチの背中を叩いた。
「安心して、マチ。ミヤが少しでもきつそうな素振りを見せたら、ドクターストップをかけてあたしが食べさせるから」
いつからこの人はドクターになったんだろう。
「……ごめん、もう無理」
わたしは結局、半分も食べられないままスプーンを置いた。飲み込むのにも体力を使い、しんどかった。
器を受け取ったマチは、じゃー、次は薬ね、とコップに水道水をいれて持ってきた。
ユキが風邪薬のラベルを読み上げる。
「十五歳以上は一回三錠ね」
蓋を開けてビンから小さな粒をみっつ取り出して渡してくる。マチからコップも受け取り、錠剤と水とを一緒に流し込む。
「よし、後は眠るだけだね。きついとおもうけど、ここはさむいから部屋に行こう」
頷き、立ち上がる。今度は流石に、マチではなくユキが支えてくれた。マチは毛布を抱えている。
わたしの部屋に入るとユキがぽつりと、
「相変わらずきれいね」
まあね。そこは、気を使ってますから。
わたしがベッドに入ろうとすると、待って、とマチが静止の声をあげ、シーツの上に一枚毛布を敷いた。
「どーぞ」
ベッドに寝転がると、ふたりが残りの毛布をかけてくる。
シーツに敷かれた毛布と、身体にかけられた毛布、二枚の毛布にはさまれる形になって、両側から身体が温められた。
額には、ユキが冷えたタオルを当ててくれた。熱で火照った顔に、それはひどく気持ちのいいものだった。
「ありがとう、ふたりとも……。たぶん、もう眠れると思う」
「うん。ところで、実くんは? まだ塾なの?」
「藤原くんの家にお泊りって」
「はあ!? こんなときに? ちょっと待ってね、今呼び戻すわ」
ユキがケータイを取り出し、カチカチとボタンを押し始めた。いや、ちょっと、それは。わたしはできる限り大きい声を出した。
「いいよ、ユキ。わたし平気だから。もう夜も遅いしさ」
「そういう場合じゃないでしょ? ミヤがこんなにひどい熱出してるのに。電話して帰ってこさせる」
早口で、普段より高めの声。やばい、いつものあれだ。暴走ユキ。
止めなきゃ、とわたしが思っていると、マチがすばやい動きで、ユキの手からケータイをかすめとった。
「マチ!」
ユキが声を荒げるが、マチはふるふると首を振った。
「だめだよ、ユキ。ミヤの言うとおり、もうおそい時間だし。ほかに看病できる人がいないっていうならともかく、あたしたちもいるんだから。ユキ、看病するのがいやなわけじゃないでしょ?」
「もちろんよ! でもね、実くんとミヤはほとんどふたり暮し状態なのよ。そのミヤが高熱を出してるのに、友だちの家に泊まるなんて」
「ミヤが熱出してるって知ってたら、ミノくんはそんなことしなかったよ。だいじょうぶ、あたしたちがいるんだから。無理にミノくん呼び戻して、楽しい時間に水を差すことないって。ね、ミヤ?」
くりくりした瞳を向けてくるマチに、わたしはうんうんと何度も頷いた。ユキは、何か言いたそうに唇を噛んでいたけど、しばらくして表情をやわらげた。
「分かったわ。ふたりの言う通りね。ごめん、大きい声出して」
最後の一言はわたしに頭を下げながら言った。
マチはユキにケータイを返した後、
「でも、あたしからミノくんにメールは送っておくね。ミヤが風邪ひいてます。今夜はあたしたちが看病するけど、明日はできるだけ早く帰ってきてね、って」
「うん、お願い」
にこりと笑って、はーいと返事をすると、マチはケータイを取り出し、しばらくぽちぽちとボタンを押してメールの作成をしていた。送信が終わるとケータイを閉じて、ユキに尋ねる。
「じゃー、ユキ、今日はこっちにお泊りだね。お風呂と夕ごはんはすませた?」
「お風呂は入ったけど、夕飯はまだよ」
「じゃー、お父さんとお母さんに連絡してから、キッチンのシチュー食べていーよ。でさ、ミヤ、お風呂かりてもいいかな? あたし、まだなんだ」
喋るのが億劫だったので、毛布から右手を出し、親指と人さし指でマルを作った。ありがとー、とマチが笑う。
その後、ユキがシチューを食べにリビングへ行った。マチはユキが戻ってくるまでわたしのそばにいてくれるらしい。正直、かなり助かった。ここでひとりになったら心細いと思っていたのだ。数年ぶりの病魔に、わたしは心までやられてしまったらしい。
マチが額のタオルを換えてくれる。ふたたび感じるひんやりとした気持ちのいい感覚に、わたしのまぶたは次第に重くなっていった。
そして、薄れゆく意識の中、ぼんやりとわたしは思った。
そういえば、さっき、おかしいなと思うことがあったはずだけど、何だったっけ――?
7
「よかった。ミヤ、よくねむってるよ。これなら明日はよくなるかも」
「流石ね。普段薬飲まないから、きっとよく効いたんだわ。インフルエンザじゃないかと思ってたけど、杞憂だったみたいね」
「そーだね。インフルエンザだと大変なことになってたから、よかった」
「……ねえ、ところで、マチ。ミヤが柄にもなく風邪ひいた原因って、やっぱり…」
「…だとおもうよ。体調管理しっかりしてても、ストレスたまったら風邪ぐらいひくよ。結構期間が長いし」
「一ヵ月半だもんね……。まったく、自分で気付いてないのがタチ悪いわ! ミヤが自分で気づくべきだって分かってるけど、ここまで来るとはっきり言ってやりたくなるわ」
「気持ちはわかるけど、おさえてね、ユキ。これはミヤの問題だから」
「分かってるわよ。でも、ねえ、ちょっとそれとなく教えるっていうか、ほのめかすのはいいでしょう? あたし、これ以上黙ってたら何かのはずみで言ってしまいそうなのよ」
「そーだね。それならいーんじゃないかな。あたしも実は、おんなじことおもってたんだ。でも、ちゃんとミヤが復活してからね」
「うん。そうするわ。ところで、実くんから返信は来た?」
「それが、まだなんだよね。もしかしたら、気づいてないのかも」
「……そうかもね。頻繁にケータイ開きそうなタイプじゃないし。…こうなったら、あたしがクラスの連絡網から藤原くんの家を探りだして、連れ帰ろうかしら」
「それはやめてね、ユキ。でも、ミノくん、早く帰ってきてくれるといーんだけど」