迷走する仮分数 4
5
勤務を終えて由奈とふたりで更衣室で着替えていると、ぶるぶるとポケットでケータイが震えた。なんだろうと取り出すと、珍しいことに、実からのメールだ。
『今日は正則のところに泊まる』
正則? ……ああ、藤原くんのことか。一緒にここに来たときも思ったけど、本当に仲良しなんだな。
『分かった。気をつけてね』
負けず劣らずの簡素なメールで返信する。家族を相手に絵文字や顔文字を使う必要はないだろうと、実へのメールはいつもこんな感じだ。
「誰から?」
隣で着替えていた由奈が尋ねてきた。わたしはケータイを閉じつつ答える。
「実から。さっき一緒に来てた友達のとこに泊まるって」
「さっき来てた? 桜井くんここに来てたの?」
「来てたのって……」
気づいてなかったのだろうか。あ、そういえばそのとき、由奈はちょうどドライブスルー担当だったっけ。
「うん。塾の友達と一緒に」
「へえ、そうなんだ。私も挨拶したかったな」
お、意外な言葉。わたしは緩慢な動作でジャージを羽織りながらそう思った。
由奈と実が同じクラスなのは知っているけど、そんなに仲がいいのかな。
「挨拶したいって、仲良しなの?」
「いや、あんまり話したことはないけど。でも、だからこそ親睦を深めたいっていうか」
「親睦? あいつと深めても、いいことはないと思うけど」
ジャージのチャックを上げるわたしに、いやいや、と由奈は手を振った。
「高校最後のクラスの仲間なんだから、やっぱりできるだけ仲良くなりたいじゃん!」
なるほど。まあ確かにそれなら、分からないでもないかな。
それにしても――。と、わたしは首を回しながら思う。
何だか今日は異常に疲れた。土曜日だから客入りは当然平日よりも多いんだけど、それを考慮しても今までにないぐらいの疲労感というか、だるさを感じる。夏休みに炎天下のトリプルヘッダーを終えた直後のような状態だ。そんなにハードだったかなあ、今日の勤務。
けれど、このだるさを言い訳にするわけにはいかない。わたしにはまだやることがあるのだ。
「由奈、わたし、これからちょっと、することがあるんだ。悪いけど一緒に帰れない」
「もしかして、例のぬいぐるみ事件の調査?」
う、ばれてるし。うん、と頷く。
「今日も何か置いていかれてたみたいだから、見に行こうと思って」
「そうなんだ。じゃあ、私も同行致します、警部殿!」
背筋をピンと伸ばしながら、びしっと敬礼する。わたしは、否定されることはないだろうと思いつつも尋ねる。
「でも、特に見て面白いものでもないと思うけど、いいの?」
「いいよ、全然。私もさ、気になるんだよね」
「分かった。じゃあ行こう。店長の机に置いてあるんだって」
笑顔の由奈とともに更衣室から出て厨房を抜け、事務室へ入ると、店長がいた。イスには座らず立ったまま、じっとデスクの上に置かれたものを見つめている。ぬいぐるみ、裁縫針、裁縫糸、そして、赤くて丸いアレ。
「今日はりんごですか」
わたしの言葉で、店長は下に落としていた視線を、ドアのほうにいるわたしたちに向けた。
「ああ。お疲れ様、ふたりとも。そうなんだよ、今日はりんごなんだ。まったく、何のつもりかね」
「昨日はU字ロックだったんですよね?」
由奈の問いに店長は軽く頷き、
「そうだよ。見るかい?」
デスクに備え付いている引き出しの一番下を開け、アルミ製の、アルファベットのUの上部に左右の縦線から少しはみ出した太い横棒が蓋をするようにとりつけられた形の物体を取り出した。何かといえば、U字ロック以外の何物でもない、まごうことなきU字ロックである。
店長は近づいてきたわたしに、はい、とU字ロックを渡した。……触ってみても、特に何の変哲もない、ごくごく普通のU字ロックだ。まだピカピカの銀色で、ナンバーも一二三四となっている。たぶん、新品だろう。
隣の由奈にU字ロックを手渡す。ナンバーを確認し、二度三度裏返したりしてじっと観察した後、
「これ、新品ですよね?」
わたしと同じ結論に達した。店長がこくりと頷く。
「そうだと思う。今日のりんごも、まだ新鮮だったよ」
「りんごも、見せてもらっていいですか?」
わたしが訊くと、いいよ、と言って、デスクの上に置いてあったりんごを手渡してきた。
このりんごもU字ロックと同様、赤くて丸くてへたがあって、痛んでいる箇所もない、ごく普通のりんごだった。
「どう考えても、りんごですね」
由奈にりんごを渡しながら、わたしは結論を口にした。
「ああ。りんごの中のりんごだ」
真面目な顔をした店長が深く重々しく頷く。
「これがりんごじゃなかったら何なんだってぐらい、りんごですね」
じっくり観察して手で撫で回してついでに匂いまで嗅いで、由奈が断言した。
わたしたちは三人揃って、うーんと頭を抱えた。
なぜ、まだ使えるし食べられるU字ロックやりんごを、こんな何の変哲もないファーストフード点の軒先に放置していったのだろう。それに、このふたつは事前にどこかで購入した可能性が高い。りんごはともかく、未開封のU字ロックが手元にあるとは考えづらいからだ。わたしはまた、いつもの疑問にぶち当たった。 すなわち――どうして、犯人はわざわざこんなことを?
「ひとつだけ、分かることがありますよ」
隣からそんな声。主はもちろん、松野由奈だ。
「え、何か分かるの、由奈!?」
まじかい、と思う。こんな少ない情報で、一体何が分かるというんだ? わたしは内心、気が気でなかった。
デスクの上にりんごを戻しつつ、弾むような声で、
「うん。この事件の犯人はね……、少なくとも、スーパーうっかりさんで三日連続ここに忘れ物をしていったわけではない」
わたしと店長、ふたりそろって危うくずっこけそうになった。
にこっと、由奈は屈託のない笑みを顔中に広げる。
「まあ、ふたりとも、分かってると思いますけどね」
「なら言わなくていいんだよ、由奈ちゃん……」
「いやいや、こういうお約束も必要かと思いまして」
「由奈、そんなボケはいらないから」
まったく、とんだ驚き損、はらはら損だ。まあ、よかったけど。
安堵の息を吐きつつ少し首を回すと、視界の隅に茶色いクマのぬいぐるみが入ってきた。相変わらず頭がとれて、綿がはみだしている。……ん、待てよ……。頭部が切られている?
ああ、とわたしは小さい叫び声をあげた。そうだ、もっと早く気づくべきだったのに何でこんな時間がかかったんだ!
「店長、いつでもいいですから、このお店で、誰か従業員をクビにしたことってありますか!?」
頭部が切り取られる、つまり、首切り。このぬいぐるみは、暗にそれを示しているのではないか? わたしはいつぞや、このお店でクビにされました。この恨み、はらさでおくものか、というメッセージだ。
しかし、店長はかぶりを振った。
「いや、まだいないよ。ここはまだ、開店して九ヶ月足らずだからね。クビにすべき事態も、せざるを得ない事態もまだ起こっていない」
「そうですか……」
結構いい線いってると思ったんだけどなあ。うーん……。
「このぬいぐるみたち、何時ぐらいに放置されてるんですかね?」
由奈がぬいぐるみを手に取り、はみ出した綿を押し込みながら訊いた。
店長は顎の無精ひげをなでながら思案顔をする。
「そうだね…。ここは八時開店一時閉店だけど、昨夜の深夜勤の従業員が帰る二時頃には何もなかったと言っているし、今朝私が発見したのが七時過ぎだったから、深夜二時から早朝七時までのあいだ、ということになるかな」
「なるほど。約五時間ですか」
綿を押し込み終えたぬいぐるみをわきに抱え、由奈はふんふんと頷く。
「店長。三日連続置いていかれたってことは、もしかしたら四日目もあるかもですよね?」
「そうだね。それが心配なんだよ」
由奈は、いいこと思いついた、というように大げさに手を合わせた。
「じゃあ、私、徹夜は平気なんでそのあいだここらへんで見張りしときますよ!」
わたしも店長も、さっき以上に驚いた。どのくらい驚いたかと言うと、ずっとウィンドミル投法でボールを投げていたピッチャーが七回に突然スリングショット投法になったときぐらい驚いた。いや、そんな経験はないんだけれども。
「ちょ、ちょっと、由奈。それはまずいんじゃないの?」
「何で? これが一番手っ取り早いって」
「でも、わたしたちまだ高校生だし、そもそもあんたまだ十七でしょ?」
「十八って言い切ればいいじゃん」
「いや、無理だから。それに、深夜徘徊で補導歴ついたら、大学推薦取り消されるよ」
「ああ、そっか。それは困るね」
あっけらかんと言う。でもまあ、一応納得はしてくれたようだ。わたしは胸をなでおろす。
店長は首を振りながら、
「そもそも、推薦とか関係なしに、女の子がひとりで張り込みなんて危なすぎる」
そういうことは、できれば私がするべきなんだが、と続けて呟いた。
わたしも由奈も、その先を察して、何も言わなかった。
バツイチの店長には、中学生の娘と、九歳の息子がいる。その子たちを家に置いて深夜の見張りなどできないだろう。
かといって監視カメラをつける予算の余裕もないし、見張りが一番効果的だと分かっているけど、行動に移すことができないのだ。結局、どうにかして推理で犯人を突き止めるしかない、ということになる。
だから、まだ店長に質問しつつ色々考えていたいのだけれど、困ったことがいくつかある……。
先ほどから感じていただるさが一層ひどいものになってきたのだ。それに心なしか、頭痛もしてきた。そのせいで思考があちこちに分散して固まらない。それになにより、これ以上由奈にはらはらさせられるのは心臓に悪い。少し考えて、わたしは結論を出した。
これ以上やっても無駄だ。今日のところは引き上げよう。
わたしは小さく息を吐いて鞄を持ち直すと、店長に挨拶した。
「どうもありがとうございました。わたし、今日はもう帰りますね。由奈は?」
「ん、私も一緒に帰る。店長、お疲れ様でした」
ばいばいと手を振る店長を残し、わたしたちは事務室から出た。その後、厨房を抜け、裏口から外に出ると、びっくりした。
「さむっ」
個人的に、ここ最近では一番の寒さだ。身体の芯に染み込むような冷気が漂っている。何、もう冬?
そう思ったんだけど、由奈は眉をひそめた。
「え? 今日、かなりあったかいほうでしょ?」
「うそ? 由奈、寒くないの? 何か、身体の奥がキーンとするっていうか」
由奈は歩きながら、何言ってんだこいつ、という顔でしげしげとわたしを見つめた。
「都さ、何か……顔赤くない?」
そう言われても。自分で自分の顔は見られない。わたしは両頬に手を当てた。…べつに熱くもないんだけど。
「ほっぺた、熱くないよ。由奈の見間違いじゃない? もう暗いし」
「いや、そんなはずない。手ぇかして」
言われるまま左手を差し出す。由奈はそれを一握りし、苦い顔をした。
「……熱いね」
「わたし、いつも手は熱いけど」
「いや、そういうレベルじゃなくて。ちょっとごめんね」
今度は、手を伸ばして額をさわってくる。ちょっとびっくりしたけど、由奈が手を離すまでじっとしている。
由奈はわたしの額から手を離し、自分の額に手を当てて一言。
「都、熱出てるよ。自覚ない?」
「え、うそ!?」
そんなはずは。小学生以来、風邪をひいたこともなければ体調を悪くしたこともないのが自慢なんだけど。
「何か、身体に異常はない? 何でもいいから」
「えーっと…。今朝から、寒くてだるくて食欲があんまりなくて、ちょっと前から、軽い頭痛がするようにはなったけど……」
「それ、思いっきり、風邪の症状だから」
「え、そうだっけ!?」
最後に風邪をひいたのなんて遠い昔すぎて、どんな症状があったかなんて記憶の彼方に置いてきてしまった。こんな感じだっけ? 単なる疲れだと思ってたんだけど。
「家帰ったら、すぐにあったかくして薬飲んで眠ること。薬は、食後に飲むやつだったら少しでもいいから何か食べてから飲んで。あと、間違ってもお風呂には入らないでよ。洗面所で頭だけ洗うなんてことも絶対駄目」
普段のおちゃらけた様子から一変、我が子に言いつけをするママの顔になっている。わたしは、はい、と頷いた。由奈のこの顔、久しぶりに見る。
その後、駅に着き改札を抜けた。由奈とはそれでお別れのはずだが、彼女はわたしから離れず、まるで依頼人の警護をするSPのようにぴったり後ろに張り付いたままだった。あの、方向が違うんじゃ……。
「今日は、都が電車に乗るまで見届ける」
「いや、大丈夫だって。そんなに重病じゃないから」
「病気の重さとか関係ないの。熱で頭と視界がぼんやりした都が線路に落ちでもしたらどうするの? それでそのとき運悪く電車が滑り込んできたら? 明日の朝刊の一面が女子高生が電車事故で死亡なんて記事で飾られたら私は悔やんでも悔やみきれないの! 四点リードでノーアウトランナー一塁のときでも念のためもう一点ほしいなって送りバントすることだってあるでしょ? それと同じ念には念を入れるの!」
早口で一気にまくし立てる。というか、早すぎて最後のあたりは何と言っているか聞き取れなかった。熱くなったときの由奈の癖だ。
わたしは笑いをこらえ、うん、分かった、と返した。相変わらずだ。あまり表には出さないけれど、彼女は実際、かなりのおせっかい焼きなのだ。ときどき、おせっかいすぎてむかっとくるときもあるんだけど…。
「それから駅から歩いて帰るのが無理そうだったらタクシー拾ってでも帰ること! それぐらいのお金はあるでしょ」
「はい、分かりました」
結局、由奈は最後までこんな調子だった。わたしが電車に乗る直前まで、いい、絶対にお風呂には入らないでよー! とアドバイスを止めなかった。
そんなに念を押さなくても分かってますよ、なんて思いつつ一度電車の座席に腰を下ろすと、改めてだるさと寒気と頭痛が一気に攻め立ててきて、自分の体調が悪いことがはっきりと自覚できた。うわ、わたし、何でこれでバイトできたんだろう、と不思議に思えてくる。いや、バイトしたからこんなに悪化したのか。
だけど、駅から家までは、タクシーを拾わず歩いて帰った。家までは徒歩五分で着く距離だからもったいないし、それに、わたしにだって意地があるのだ。
エレベーターで三階まで上がり、家に入る。この時間帯なら実がいるだろうと思ったけど、そういえば、藤原くんのところにお泊りでいないんだった。わたしのほかに誰もいないリビングまで歩き、ソファーにばたっと倒れこむ。身体のだるさは最高潮に達していた。もうこのまま眠ってしまいたい。それでもいいんじゃないかな。明日はバイトも学校も休みだし。よし、そうしよう。
と、甘い誘惑に乗るわけにもいかない。幸いにして体温計はこのままでも手の届くリモコン立てにリモコンと一緒に立てられている。まずは熱を測ろう。
重力が普段より当社費三割増しの身体を起こし、体温計をわきに挟む。しばらくして、ピピピッと電子音。取り出し、数字を確認する。
「………はは……」
三十八度八分。