表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帯分数は遠いけど  作者: 天そば
第三章 迷走する仮分数
16/36

迷走する仮分数 3

    4



 学校が終わり、塾へ行った。土曜でも浜子柴や月野宮を含むいくつかの高校は授業があるので、それらに合わせて二時が一コマめの開始時間となっている。

 今日は思いのほか早く帰りのホームルームが終わったので、おれは余裕を持って塾の教室に入ることができた。見ると、正則と橘はもう席について、何やら話をしている。


「なんだ、今日は早いな」


 おれが隣に来るなり正則が驚いた。無理もない。開始ギリギリに来るのがおれのデフォなのだ。おれは橘に目をやり、


「今日はちゃんと一コマめから授業あるか?」

「あるよ」


 目を細めて笑いながら答える。それならよかった。残念ながら、アサコちゃん捜しの件で今日は特に報告できそうなことがないのだ。昨日のように報告を聞きたくて早く来たのだったら、骨折り損にさせてしまうところだった。


 鞄から筆記用具を取り出しつつそう思っていると、正則が訊いてきた。


「実。後輩は調べたか?」

「何人かにメールはしたけど、まだ返信が来てない。今日練習試合なんだよ」

「そうか。俺もそんな感じだ。それに、もし『アサコ』がいたとしてもそれが橘の捜してるアサコちゃんかは、学校が始まる月曜日にならないと分からないな」

「月曜は体育の日で休みだぞ」

「ああ、じゃあ、火曜日か。あと三日も待つのか…」


 はあ、とため息をつく正則に、橘が慌てたようにフォローを入れる。


「そんなにあせらなくてもいいよ。ぼくも火曜日にならないと二年生は捜せないし。それに、他の高校の友だちにも下級生捜しはお願いしたから。気長に待っておくよ。そんなに結果が気になるわけじゃないし…」


 最後の一言は明らかに嘘である。昨日、授業がないのに教室でおれたちを待っていたやつが言うセリフではない。

 だが、それをつっこむのも気を遣ってくれた橘に悪い。おれは黙って頷いた。

 話が進展するのは火曜日だ。それまでは、焦ったって仕方がない。そう思うことにしよう。


 鞄から英単語帳を取り出す。今は、とりあえず勉強する。それで気を紛らわせるために。

 おれがそうすると、正則も橘も話を止め、それぞれの勉強を始めた。



     *****



 土曜日は開始時刻が普段より早いので、終了時刻も当然普段より早い。しかし、ほとんどのやつらは家には帰らず、個人ブースで自習に精を出す。

 だが、今日の正則はそんな気分ではないらしい。教室を出るなり、こんな提案をしてきた。


「なあ、このまま、都さんの働いてるところに行かないか?」


 女子の前では絶対に見せないような、だらしのない笑みを浮かべている。ひとりで行け、と言いたいところだが、今のおれにとってそれはありがたい申し出だった。よって、答えはこうなる。


「いいぜ」

「うお、あっさりオーケーしたな。絶対いやがると思ったのに」


 じゃあ誘うなや、と思いつつ肩をすくめる。


「今日はハンバーガーが食いたい気分なんだよ」

「そうかそうか。よし、そうと決まれば急ぐぞ。都さんの勤務が終わらないうちにな!」


 今日が姉貴の出勤日かすら分からないというのに、ずんずんと明らかに歩幅が大きくなり、迷いなき歩みを進めていく。こいつが長い足を目一杯使って歩くと、おれは着いていくのに苦労する。ちょっとは後ろも見れってんだ。


 そうして塾を出て数分で、ハンバーガー屋に着く。客はなかなかに多い。果たして座れる場所はあるだろうかと首を伸ばして見回すと、ちょうど中学生ぐらいのカップルが席を立つところだった。駆け寄り、鞄を置く。


「ラッキーだったな。これもきっと、俺の都さんへの想いが功を奏した結果に違いない」


 思いっきり違いあると思うが、つっこむのも面倒なのでスルーさせていただく。

 姉貴はいるだろうかとレジに目をやると、いた。


 飯塚は、すごい大きい人がいてびっくりしたと言っていたが、確かにあいつは他の女店員に比べて飛びぬけていた。見慣れたと思ってはいたものの、店のレジで見ると印象は違うものだ。どんぐりの列に突然ごぼうが割り込んできたかのような印象を受ける。隣にいる大学生ぐらいの女の人も、女子の中では間違いなく大きい部類に入るだろうに、姉貴と並ぶと普通に見える。


「よし、いるな。都さんの受付してるとこに並ぶぞ」


 遠足に出かける小学生のようにわくわくした足取りで、正則がレジに向かう。おれもその後ろを、やや距離を開けて着いていった。

 姉貴はおれたちが注文に来ると、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑顔になり、


「いらっしゃいませ。ご注文はいかがなさいますか?」

「ジャンボバーガーセットを。飲み物はコーヒーで」


 正則も笑顔で答える。おれは財布と相談した結果、チーズバーガーとオレンジジュースにした。ポテトかナゲットも頼みたかったが、それはまあ諦めよう。


「かしこまりました。席についてお待ちください」


 料金を支払い、渡された番号札を持って、さっきの席に戻る。

 正則は流石に本人のいる場所だからだろう、声を潜めて、しかし興奮冷めやらぬ様子で、


「やっぱり、制服似合うっ」


 と、感想を聞かせてくれた。貴重なご意見をどうもありがとう。大切に胸にしまっておくよ。

 しばらくして姉貴がトレーを手にやってきた。左手に持ったトレーにはジャンボバーガーとポテト、コーヒー。それはいい。だが、右手に持ったトレーがおかしい。おれの頼んだのはチーズバーガーとオレンジだけだったはずが、そこにナゲットまで追加されていたのだ。


「お待たせいたしました」


 と、トレーをテーブルに置いた姉貴は、まず正則のほうを見て、ありがとう、と微笑みかけた。

 それを聞いた正則は一瞬でキメ顔を作り、いや、そんな、当然のことだよとか何とか言ってたが、姉貴はそれに気づかず、首を回しておれに顔を向けた。

そして、とん、とナゲットの箱を指でたたき、


「サービスね」


 とだけ言って、戻っていった。

 しっかりと姉貴をレジに戻るまで見続けた後、正則は、先ほどのキメ顔はどこへやら、パラソルの下で水着ギャルを堪能した中年親父のような満足感に満ち溢れた表情で、一言こう言った。


「俺、常連になるよ」


 常連客、新たに一名いただきました。


 しかし――と、おれはじっと、チーズバーガーとオレンジについてきた『サービス品』を見つめる。この店のセットメニューはハンバーガー、飲み物、ポテトだけで、ナゲットがポテトの代わりを務めることはないし、おれはハンバーガー屋ではナゲットよりポテトを頼むことが多いのはあいつも知っているだろうから、サービスでつけるとしたら普通ポテトだろうと思う。なのに、姉貴はナゲットをつけてきた。見ると、正則のポテトは、本来はMサイズのはずがLサイズになっている。Lサイズのポテトは量が多く、ひとりで食べていたら正直飽きる。おれのサービス品も同じくLサイズのポテトだったら、どちらも途中で食べるのが面倒くさくなっていただろう。


 だから、姉貴はおれにナゲットをサービスしたのだ。ナゲットは八個入りだ。二で割り切れる。Lサイズのポテトとナゲット、これならふたりでちょうどいい具合に分け合えるだろう、という配慮で。

 そしてその通り、正則はポテトを広げたトレーを、お前も食べていいぞ、と言う風におれのほうに押し出してきた。おれもナゲットの箱を開け、ポテトの隣に置く。


 ハンバーガーをかじり始めると、お互い無言となった。普段なら正則が何か喋るのだが、こいつは今レジにいる姉貴に目を向けるのに神経の大半を使っていて、おれに何か話題を振る気はないらしい。それならそれでいい。おれも今、考え事をしたいのだ。


 学校で、飯塚は言っていた。姉貴は一触即発状態の女ふたりの間に割り込んで、運悪く頬を思いっきり殴られた、と。


 それは普段のあいつからは考えづらいことだ。今のナゲットのサービスからも分かる通り、姉貴は深謀遠慮をつくして行動するタイプなのだ。普通のセットならここはポテトをつけるところだからそうしよう、ではなく、藤原くんのポテトをLにして実にナゲットをつければふたりでちょうどいいように分け合えるな、というふうに。 だから、今にも相手に襲い掛かりそうな女ふたりの間に割り込むなんて、短絡的なまねをするはずがないのだ。運悪く自分がとばっちりを喰らうことを、あいつなら考えられたはずだから。本当に必要ならそうするかもしれないが、あの時は違う。逃げ遅れた人のいない火事現場があれば、外に出て消防を待つだろう。それと同じように、あの時は殴りかかりそうな女を後ろから押さえつければいいだけのこと。わざわざ燃え盛る火の中に飛び込む必要はない。


 ならなぜ、姉貴はそんなまねをしたのか? それをおれは、考えていた。仕事中の姉貴を見れば何か分かるかなと考えてここに来たのだが――。

 首を回して、正則と同じく、レジカウンターにいる姉貴を見る。


 ここ数年で着実に大人へと近づいた顔立ちが、笑顔になった途端右頬にできるえくぼのおかげで一気に幼く見えるのも、気持ちのいいぐらいてきぱきと動くのも、おれの知っている姉貴そのものだ。


 普段と変わるところはない様に見える。


 もしかすると…、とおれはふたたび思う。

 学校で思い当たったひとつの可能性。


 姉貴が殴られることで、結果的にはその女ふたりの喧嘩は収まった。その理由は、店員を殴ってしまったことで女たちのこれまでの興奮が一気になくなった、というのもあるだろうが、それ以上に、その後の姉貴の対応にあるだろう。


 自分たちの喧嘩を止めようとした店員を殴ってしまう。そして、友人の助けを拒んで立ち直ったその店員がこう言うのだ。


 ――お飲み物をこぼしてしまって、もうしわけございません。


 痛そうな素振りも見せず、笑顔で。


 成人し、社会に出た自分なんかよりもずっと立派な高校生を見て、その女たちは何を感じたろう。……それはきっと、ある種の敗北感に似た感情だったと思う。学生のこの子がこんなに立派に働いているのに、自分は公衆の面前で何をしていたのだろう、と。それでもう、憎らしい相手と言い争う気など、なくなってしまったのだ。


 姉貴は、そこまで考えた上で火の中に飛び込んだのではないだろうか? 自分が殴られ、その後目の前のやつらなんかよりずっと『大人』な対応をすることで、場を収める。現に、それは成功した。毒気を抜かれた女たちは、しばらくして肩身狭そうに店を出ていったという。


 しかし、それこそもっとも、普段の姉貴からはかけ離れた行動なのだ。

 あいつは、自分よりも人の気持ちを考え、優先して、例え必要であってもそれを傷つけることを躊躇う。


 そんな人物が、周りのお客さんに迷惑だからという正当な理由をかかげて、そんなことをするだろうか?

 自分よりもまず他人を優先する、あの姉貴が? おれの受験が近づいてきたことで、昼休みにも食事をしながら勉強できるよう、弁当をサンドイッチに変えるようなやつが?


 やれやれ、いい大人がみっともない。しょうがないから、わたしが殴られてやって、その後立派な対応をしてやろう。そうすりゃあ、自分たちの小ささを思い知るだろう。


 そう考えて、一方がもう一方を挑発したとき、チャンスとばかりに割り込んだのだろうか? お客様の争いを止めるため、何も考えず飛び込んできた店員を装って。相手が感じるのが、自分の価値を否定されるような、敗北感だと知っていて。

 記憶の中から、様々な姉貴の行動を掘り起こす。


 受験生のおれを気遣い、家事をほとんど全部担当してくれていること。受験のストレスを気遣ってだろう、わざわざ途中の駅で降りて、いちごミルクの素を買ってきたこと。昼食がサンドイッチではあまり野菜が取れないからと、朝に野菜を多めにしていること。


 それらを交えて考える。姉貴は、相手に敗北感を与えると知っていて、あえてそうした、ということを。

 おれは心の中で問う。


 ――桜井都は、はたしてそんなことができる人間だろうか?



     *****



 室内と屋外の温度差に、本格的な冬の到来はもうすぐそこだと予感した。風を凌げて人も多いハンバーガー屋と、人が絶えず通り過ぎて行き風に身をさらすのを余儀なくされる夜の道。温度差があるのは、まあ当然か。


 ハンバーガーを食い終わると、おれたちはすぐに店を出た。正則はもう少しいたかったようだが、人の多い店内に食事を終えたのにいつまでも居座り続けるのは迷惑というものだ。


 寒空の下、正則の話に適当に相槌を打ちながら、おれはどうやって話を切り出そうかと考えていた。しかし何も言えないまま、駅の前まで来てしまった。正則とはここでお別れだ。やつは駅に止めた自転車で帰る。


「じゃあな、実。また明日」


 手を上げ、駐輪場へ向かう正則をおれは慌てて呼び止めた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


 思いのほか大きい声が出てしまった。正則が、びっくりしたように振り返る。


「な、何だ? どうした?」

「いや……あの」


 どう話そうか、と少し考えて、もう下手な言い訳も迂遠な表現もせずストレートに言ってしまおう、と覚悟を決めた。


「今日、お前ん家に泊めてもらえないか?」


 唐突すぎるお願いに、予想通り、正則は目を見開き、はあ!? と言った。


「何言ってんだ、突然? 俺ん家に泊めろって…」

「突然すぎるのは分かってるよ。でも、どうか頼む」


 手を合わせ、頭を下げる。正則は困ったように頭をかいたが、しょうがねえなあ、といように頷いた。


「……分かったよ。ちょっと家に電話して訊いてみる。これで駄目でも恨まないでくれよ」


 ケータイを取り出して、電話をかけ始めた。おれは、恩に切るぜ、と小さく呟く。

 しばらくしてケータイを耳から離すと、


「いいってさ。でも、寝るのは俺の部屋な」

「ああ。全然問題ないよ。サンキューな」

「それはいいけど、どうしてこんなに突然?」


 当然の質問だ。しかし、おれはそれを言葉にしたくなかった。


「ちょっと、色々あって……」

「そうか。なら、まあいいよ。でもちゃんと、都さんには伝えろよ」


 何だかんだで、嫌がるところに無理に踏み込んでこないのがこいつのいいところだと思う。口に出しはしないが。

 おう、と返事して、正則とともに駐輪場に向かう。


 おれは今日これからは、姉貴と顔を合わせたくなかった。ハンバーガー屋で持った疑い。姉貴は、理由があろうとも人の不快な感情を知っていてあえてそこを突いてくるような人間だろうか、ということ。


 きっと違う、とおれは思った。喧嘩に割って入ったのも、きっと何か他の理由があってのことだろう。目の当たりにした女の戦いのあまりの激しさに冷静さを失ったから、とか。人間なのだから、そんなこともある。そういう結論を出した。


 しかし、この後家に帰ってしばらくしたら姉貴に会うと考えたら……。完全に断ち切れたわけではない疑いがまた蘇るのではないかと思うと、帰る気を失ってしまうほど足取りは重くなった。


 だから、一か八か、藤原家へ一泊させてもらえないかとお願いしたのだ。運良くその願いは聞き入れられた。

 正則が自転車の鍵を取り出すあいだに、おれはケータイでメールを打ち、姉貴に送信した。


 『今夜は正則のところに泊まる』


 たったそれだけの、簡素なメールを。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ