アサコちゃんとぬいぐるみ 5
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かじりついてすぐ、しまったと思った。このコンビーフ、味が濃すぎだ。どうやら醤油をかけすぎたらしい。うーん、失敗したなあ。あんまり、味の濃すぎる料理は好きじゃないんだけど。実はそもそもコンビーフが嫌いなので、あいつにはコンビーフサンドを持たせていないのがせめてもの救いか。次は気をつけよう。
なんて思いながら顔を上げると、藤原くんと目が合った。
わたしは廊下側から数えて二番目の席の真ん中あたりに座っている。窓際に座っている友達と向かい合うようにするため、身体は右、つまり廊下に向けられている。そんなわけなので、廊下に立って窓から教室を覗いていた藤原くんと、がっつり目が合ってしまった。
藤原くんが爽やかスマイルを浮かべて、軽く手を上げてきた。
「久しぶり、桜井さん。食べ終わってからでいいから、ちょっと話があるんだけどいいかな?」
胸がどきりとした。藤原くんの笑顔にときめいたから――ではなく、例の『なんちゃって盗難事件』の話だと思ったからだ。わたしと彼をつなぐのは、それしかない。まさか、誰かに『坂上屋』での話しを聞かれていたのだろうか?
「分かった。ちょっと待ってね」
ぱっと顔を反対方向に向けて、残りのコンビーフサンドを口に突っ込んだ。手で口元を隠し、もぐもぐと何度か租借して飲み込む。食道をまだ十分に噛み砕かれていないパンや牛肉が通っていくのが分かる。
イスから立ち上がり、一緒にお弁当を食べていた友達にちょっと行ってくるねと声をかけて、廊下にいる藤原くんのもとへ。
「そんなに急がなくてもよかったのに」
声をかけてから一分とかからず食事を終えたわたしに驚いたようだ。なんかごめんねと言って、頭を下げてくる。
「いや、そんな、全然だよ」
わたしは手を振り、慌てて否定した。なんか、藤原くんには謝られてばっかりだな。べつにいいのに。
「それで、どうかしたの? ユキとマチはグラウンドにでて昼練してるんだけど、呼びに行ったほうがいい?」
「いや、違うよ。この間の調査書の話じゃないんだ」
わたしは驚いた。どれぐらい驚いたかというと、速球自慢のピッチャーから一球目にチェンジアップを投げられたときぐらい驚いた。絶対あの事件絡みの話だと思ったのに。
「かなり個人的な話なんだけどさ。桜井さん、『アサコ』って名前の女の子知ってる?」
「えーっと…。それって、八組の神谷朝子? それとも、二年生の木佐貫亜沙子?」
突然の質問に驚きながらもそう返す。わたしの知ってるアサコはこのふたりだけである。神谷朝子は中学校からの同級生で、木佐貫亜沙子は部活の後輩だ。
藤原くんはぽんと手を打った。
「ああ、神谷! そっか、そういえばアサコだったな」
うんうんとひとり頷いている。あの、わたしはどうすれば……。
「あ、ごめんね、桜井さん。ひとりで話進めて。あのさ、俺の塾の友達に――」
と、藤原くんはアサコ捜しの理由を説明してくれた。
なるほど、友達の初恋の人か。しかし、それにしても。
「すごくピュアな人なんだね、その友達」
わたしの周りにはいないけど、このご時世、高校生でも平気で二股かける人だっているっていうのに。写真まで大事に保存しておいて、その上お母さんの顔まで覚えているなんて、今時珍しい人だ。いい意味で。
「うん。口に出して言いはしなかったけど、アサコちゃんに再開できたら、どうしても想いを伝えたいみたいなんだ。でもさ」
しきりに感心しているわたしを見つめ、藤原くんは右手の親指を立ててびしっと自分の胸を指差した。
「俺もピュアだよ」
真顔で言うので、吹き出してしまった。
「なにそれ」
「言ったとおりだよ。俺もその友達に負けないぐらいピュアなんだ」
今度はにっこり笑いながら宣言した。
「そうなんだ。じゃあ、藤原くんも同じ立場だったら初恋の人を捜したりする?」
「するする、絶対するね。それで、見つけた後は猛アタックだ」
鼻息まで荒げている。わたしはこらえられず、声をだして笑ってしまった。藤原くん、真面目な人だとばかり思っていたけど、こんな一面もあったのか。
「猛アタックって、どんな? 花束でも持っていくの?」
「お、いいね、それ。その案もらい」
わたしの頭の中に、タキシードを着ていつもの笑顔をたずさえながらバラの花束を腕に抱える藤原くんが瞬時に浮かんできた。唇には他のものとは一線を画すほどに真っ赤な一輪のバラの花。BGMには、スーパーフライの『愛を込めて花束を』。……に、似合う。
まあとりあえず、その話は置いておくとして、今大事なのは…。
「でも、残念だね。たぶん、八組の神谷朝子は、藤原くんの友達が捜してるアサコちゃんじゃないよ」
「どうして? 神谷って、遠いところに住んでるの?」
「うん。わたしと同じ中学校だから、どう控えめに言っても、この辺りではないかな」
「そっかあ……。せっかく見つけたと思ったんだけどなあ…」
頭を抱えながら、苦い顔をする。何だか、悪いことした気分になってきた。
「でも、ほら、絶対確実ってわけではないから。それに、わたしも学年全員の名前までは知らないからさ。まだ、希望はあるよ!」
我ながら頼りないフォローだと思う。しかし藤原くんはにこっと爽やかスマイルを取り戻した。
「そうだね。ありがとう、桜井さん。もうちょっと頑張ってみるよ」
そして、腕時計に視線を落とし、あ、と呟くと、
「じゃあ、時間がないから八組の神谷のところに行ってくるね。……名残惜しいけど。またね、桜井さん。本当にどうもありがとう」
「うん。わたしも、その友だちのこと応援してるね」
もう一度、ありがとうと言ってから、藤原くんは八組へ向かった。
十年前に一度会ったきりの初恋の人を捜す、か。素敵なことだと思う。アサコちゃん、見つかるといいな。――そう思ったのに、どうしてだろう。
自分の想いを伝える。さっき、藤原くんがそういったのを聞いたとき、幼い頃のいたずらが今になって露呈したかのような、ばつの悪さを感じたのは。