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帯分数は遠いけど  作者: 天そば
第二章 アサコちゃんとぬいぐるみ
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アサコちゃんとぬいぐるみ 4

   5



《金曜日》



 習慣とは恐ろしいもので、今日もわたしは早朝五時きっかりに目を覚ました。部活生時代、朝練に行くために毎日この時間に起きていたら自然と身体に染み付いたようなのだ。一応、目覚ましを毎日六時にセットしてはいるけど、それから発せられるアラーム音と共に一日が始まったことは一度もない。そのぶん、夜は十時を過ぎたらまぶたが重くなるんだけど。

 よし、とこれまた習慣となっている一言を言って起き上がる。早く起きたとはいえ、朝はすることがたくさんある。まずは洗濯機を回さなきゃ。





 夜が明けかけた空の下に洗濯物を干し、テレビから流れてくるニュースキャスターのよく通る声を聞きつつ朝ごはんの準備を整えると、実を起こす時間となった。今日は昨日より肌寒い。果たしてあの夜型人間が布団から出られるだろうかと心配しつつドアの前に立ち、軽くノックをする。


「朝だよーー。起きてー」


 ドアに耳を当てる。返事は聞こえない。先ほどより少し強めに叩く。遊び心で、ベートーベンの『運命』のリズムでノックした。


「朝よー。実ーーー」


 ようやく、うーん、とうめき声が聞こえてきた。よし、と思いつつ、声を小さくやわらかくして言う。


「おはよう、実。朝ごはん食べよう」


 しかし、扉の向こうからは、無理だよ、という返事。


「昨日、遅く寝たんだよ。今日は早起き無理。明日する」


 呂律の怪しい声でそれだけ言って、また眠りについたらしい。その後はなんの物音も聞こえなかった。

 寝るのが遅かったのか……。残念だけど、仕方がない。わたしにそれ以上無理強いする権利はない。頑張って起きてと言いたいのを抑えて、遅刻しないようにねーとだけ言い残してその場を離れた。


 その後、久しぶりにひとりで食べた朝ごはんは、つい先日まで当たり前だったとは思えないほど寂しく感じた。



   6



 三コマめの古典を終えての休み時間、おれは隣の三年一組の教室に向かった。理由はもちろん、アサコちゃん捜しである。クラスの出席簿は朝のホームルームが始まる前にチェックしたが、『アサコ』という名前の女子はいなかった。『アサノ』とか『アサミ』とか、おしい名前はあったんだが。


 半開きのドアから覗くと、三年一組の教室はがらんとしていた。移動教室だったんだろうか。チラホラと何人かはいるものの、顔見知りはいない。さてどうしたものかと考えていると、


「桜井くん?」


 と、声をかけられた。振り向くと、おれと同じぐらい、つまり平均的な背丈の女子がいた。すっと綺麗に通った鼻筋と、肩の少し上で切りそろえられたボブカットには見覚えがある。あまり話したことはなかったが、確か、一年のころ同じクラスだったはず。


「ああ、怪しいことしてたわけじゃないんだ。えーっと……」


 名前はなんだったっけか。青木(あおき)だったか朝倉(あさくら)だったか、そんな感じだったはずだ。


飯塚(いいづか)だよ」


 と、思ったが全然違った。まあ、おれの人名記憶力など所詮その程度である。


「分からなくてもしょうがないけど。それで、ウチのクラスの人に何か用? 購買に行った人たちは、しばらくしないと戻ってこないと思うけど…」


 伝言があったら伝えておこうか、と親切な申し出。じゃあ、康夫にこのクラスにアサコという名前の女子がいないかと伝えてくれ、と頼もうとして踏みとどまる。何も無理に康夫に訊く必要はない。目の前の飯塚に訊けばすむ話だ。


 そう思ったとき、


「フジエモーン! 辞書借りるよー!」


 という大きな声が教室から聞こえてきた。フ、フジエモン? 誰だ、そんな腹にくっつけた四次元空間へと続くポケットから便利道具を次々と取り出してきそうな名前のやつは。


「いいよー!」


 当然のように返答する飯塚。どうやら、目の前にフジエモンさんはいたらしい。ポケットはついてないし、手もしっかり広げられているよな、としげしげと見つめるおれに、ああ、と言って、


「あたしの名前ね、藤江(ふじえ)っていうの。ババくさい名前でしょ? やめてってかんじよね。変なあだ名はつけられるしさ」


 うんざりしたようにため息をつく。確かに、この時代、藤江というのはなかなか……。せめて梢とかなら、響きは似てるがだいぶ違っていたのに。だがしかし、フジエモンとはおもしろいネーミングだ。飯塚が未来からやってきたネコ型ロボットに似ているかどうかはさておき、一度聞いたら忘れられない。命名したのは誰だろうか?


 と、本題を忘れるところだった。おれは慌てて尋ねる。


「なあ、飯塚。訊きたいんだけど、このクラスに、アサコって名前の女子はいるか?」


 怪訝そうに眉をよせ、


「そんな名前の子はいないけど……」

「そうか。じゃあ、この学年には?」

「学年? ……ねえ、その前に、なんでそんなこと訊くの?」

「塾の友達に頼まれて」

「どんな用で?」


 おれは言葉に詰まった。初恋の人を捜して、という正当な理由はあるのだが、他人の恋をそうやすやすと語ってもいいものだろうか? それはどうも憚られる。眉間に寄せる皺を一層深くした飯塚に、おれは咄嗟に思いついたでたらめを口走ってしまった。


「その友達の彼女の名前が、『アサコ』っていうんだ。で、自分の彼女と同じ名前の人はどれぐらいの割合でいるのか気になったらしくて……」


 苦しい、苦しすぎる。こんな時期に、なんてくだらない自由研究をしてやがるんだ、そいつは。受験勉強しろよ。

 飯塚もそう思ったらしい。はー、とため息とともに首をふり、


「いるよね、そういうバカップル。こんな時期になにやってんだか。それに乗る、桜井くんも桜井くんだよね」


 じろり、と軽く非難のまなざしを向ける。そこでばつが悪くなり、慌てて嘘の上塗りをしてしまうのが、我ながら情けない。


「まあ、そいつには結構な仮があるんだよ。それで断れなくて」

「ふーん、そうなんだ」


 まだ若干の疑わしさが残る声でそう言って、飯塚は、やっと表情を崩した。


「あたしは生徒会だったから名前だけなら全員知ってるけど、『アサコ』はいないよ。一文字違いの子なら結構いるんだけどね」


 他のクラスも回るつもりだったが、どうやらひとつだけで事足りたらしい。アサコちゃんがいなかったのは辛いが、おれはそんなことはおくびにも出さず、飯塚に向けて軽く手を上げる。


「サンキュ、助かったよ。じゃあな」


 うん、と返事して少しだけ笑いながら、飯塚は教室に入っていく。あまり話したことのないおれに声をかけてきてくれて、あまつさえ名前も思い出せなかったのに怒らず協力してくれたことに感謝の念をささげつつその背中を見送った後、おれも教室に戻ろうと歩き出した。


 浜子柴には、アサコちゃんはいない、か。それを聞いたら、橘は落ち込むだろうな。昨日の様子から、あいつはかなりアサコちゃんに入れ込んでいるようだったから。もしこれで月野宮にもいなかったら、と考えると、何というか、いたたまれない。


 教室に戻る道すがら、塾のベンチでいきいきとした表情で初恋のエピソードを語る橘を思い浮かべ、どうか月野宮にアサコちゃんがいますように、と願った。頼むぜ、正則。

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