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帯分数は遠いけど  作者: 天そば
第二章 アサコちゃんとぬいぐるみ
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アサコちゃんとぬいぐるみ 3

   4


 今日こそは絶対に由奈に本を返そう。そう心に決めて出勤してきたというのに。


「………今日、由奈休みなんですね…」


 更衣室のドアに掛けられているシフト表を見ながらそう呟くわたし。

 手の甲にわざわざネームペンで書いてきた『本返却!』の字が虚しい。


「ドンマイだねえ、都ちゃん! でも、明日はシフト入ってるよ、由奈ちゃん」


 隣で、店長が愉快そうに笑いながら教えてくれた。


「そうですか、ありがとうございます。明日返すことにします」


 だらしないとは思いつつも、はー、とため息をついてしまう。今日で三日連続出勤が終わり、明日は久しぶりの休みだと心を躍らせていたのに、どうやらまたここに来なければならないらしい。まあ、自業自得だからしょうがないんだけど。


 表に出る前に、手の甲の字を消さなくちゃ。そう思い、従業員用のトイレに行くことにした。

 調理係がポテトを揚げハンバーグをパンズにはさむ作業を洗練された無駄のない動きで進める厨房を抜け、その奥、ちょっとした事務所の中に、従業員用トイレはある。お客様用トイレと違って男女共用だし和式だし古いしであまり受けはよろしくないけど、店長は従業員がお客様用トイレを使うと普段のにこやかな表情を一変させて世にも恐ろしい形相で怒る。その凄まじさたるや、前に中井さんが怒られているとき、わたしは本気で頭にツノが生えたんじゃないかと店長の頭頂部を凝視してしまったほどだ。


 まあそういうわけなので、わたしも手を洗うだけとはいえしっかりと従業員用トイレを利用する。固形石鹸で右の手の甲をごしごしごしごし必死にこすり、油性ネームペンの頑固なインクを落とす。予想以上に時間がかかり、やっと落とし終えたと思い右手につけた腕時計を見ると、わたしの勤務開始時間一分前だった。


 やばい、と慌ててトイレからでる。わたしの中で嫌いなものナンバーワンは遅刻することだ。例え誰が許しても、わたし自信が一番許せない。遅刻は怠惰の始まりだ。これを許してしまうと、ずるずると怠け者への一途をたどってしまう。


 急がなければ、と、厨房に続くドアに向かいながら、ちらりと視界の隅に入ってきた店長のデスクの上に、何やら見慣れないものが置かれている。今はそんなことを気にする場合じゃないと知りながらも、ついつい足を止めて首を回し、目を向けてしまう。


 接客の本などが綺麗に並べられたまだ新しいデスクの上にある異分子。それは、百円ショップで見た覚えのある可愛らしいクマのぬいぐるみだった。そんなものが店長の机に置いてあること自体不自然なのに、更におかしなことに、そのぬいぐるみは頭がとれていた。首から上がきれいに切り離されており、中の綿が少しはみ出している。そして、胴体と並べて置かれた頭部の隣には、茶色い糸と裁縫針。それから、Do As InfinityのCD。


 ――店長、ここでDo As Infinityを聴きながらぬいぐるみの頭の縫い付け作業でもしていたのだろうか。でも、あの人はドリカム一筋だし、裁縫の趣味があるなんて聞いたこともなかったんだけど……。


 まあ、気にはなるけど、それより今は急がなきゃ。

 そう思い直し、わたしは再び駆け出した。こんなところで遅刻なんてしたら、桜井都一生の恥だ!








 無事に五時には表に出ることができ、昨日ほど客足が少なくはないけど一昨日のような火の玉地獄でもない、ようは普段通りの忙しさで今日の仕事を終えた。ルンルン気分で着替えをすませ、厨房へ挨拶する。


「お疲れ様でしたー!」


 明日は休みだと考えると、四時間の勤務を終えた後とは思えないほど元気な声が出てくる。一仕事終えた後のこの開放感、たまらない。一応明日もここには来ないといけないのだけど、シフトが組まれているかいないかで気持ちは全然違ってくる。


「お疲れ様、都ちゃん」


 隣の男性更衣室から出てきた店長に幸せオーラを放出しつつ手を振り、裏口へ足を向けようとする。そこで、思い出した。そういえば、気になることがあったのだ。


「あの、店長」


 厨房へ向かおうとしていた店長は足を止め、振り返る。


「なんだい?」


 わたしは厨房があまり忙しそうにしていないことを確認し、今なら少し店長を引き止めても大丈夫だろうと確信してから尋ねる。


「店長の机に、頭の取れたぬいぐるみとかがありましたよね? あれ、なんですか。もしかして、裁縫にでも目覚めました?」


 冗談交じりにそう問う。純粋な好奇心から出た質問で、わたしに他意はなかった。――が、店長はそれを聞くなり苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、


「ああ、あれのこと」


 そう言う声も、普段よりいくらか低い。

 どうしよう、わたし、何か訊いてはいけない質問をしてしまったのかな? もしかして、相当まずい展開になってる、今?

 何かフォローをしなきゃと考えていると、


「ああ、いや、都ちゃんに怒ってるんじゃないよ。恐がらなくて大丈夫」


 いつ店長の頭にツノが生えるかと相当焦っていたわたしは、その言葉に胸をなでおろす。よかった。あの、この世にはこんなにも恐ろしい形相というものがあるのかとわたしの価値観に少なからず衝撃を与えた店長のお顔を再び拝まずにすんだようだ。


「あれね、今朝、店の入口に置かれてたんだよ。開店前に掃除をしようと思って見てみたらびっくりだ」

「あれって、机にあったもの全部ですか? CDとか、裁縫道具も」


 こくりと頷く。

 なんだか、変な話だ。そんなものをわざわざ忘れていく人がいるだろうか? ご丁寧に、ぬいぐるみの頭をくっつけるための針と糸まで揃えて。


「新手の嫌がらせですかね?」

「そうかもしれないな。何が狙いかはまったく分からないけど」


 うーんと顎に手を当てる。もしかすると、私は裁縫が出来ないのでどうかひとつ、このぬいぐるみを直してくださいという不器用な誰かからの遠まわしなお願いかもしれない。Do As InfinityのCDはお礼にさしあげますので、とか。もしくは、このファーストフード店はこの事態にいったいどういった対応をするのだろうという、他者からの偵察だろうか。

 無言で首を振る。どれもバカらしい。


「確かに、狙いがまったくわかりませんね」

「だろう。私も不思議で仕方ない。じゃあ、またね、都ちゃん」


 厨房に戻っていく店長に手を振り、わたしも裏口から外に出た。

 駅に向かいながら、肌に突き刺さる寒さを忘れ、まだ考える。


 ガラクタの処分に困った誰かが適当に目に付いた場所に遺棄したという可能性は? いや、でも、CDだけは飛びぬけて古かったけど、ぬいぐるみも裁縫道具もつい先ほど買ってきたんじゃないかというほどに真新しかった。ぬいぐるみは頭がとれていたからいいとして、あの針と糸はどう見てもまだまだ使える。というか、頭の取れたぬいぐるみと裁縫道具の関連性は分かるけど、どうして三つめに突然CDが? しかも、なぜDo As Infinityなんだろう。べつにドリカムでもミスチルでもいいだろうに。なんとなくと言われればそれまでだけど、Do As Infinityである意味はあるのだろうか。………うーーん。


 気がつくともう駅の目の前まで来ていた。改札を抜け、電車の席に座るまでのあいだにわたしがたどりついた結論はひとつ。

 たぶん、誰かさんが何かしらの理由あってやったんだろう。こんな少ない情報量で考えても分かりようがないか。

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