第6部分 カオス
第6部分 カオス
カオスのもともとの意味は「混沌」である。「ごちゃごちゃで秩序の無い世界」のような意味で使われることが多い単語だが、ここではもうちょっと特殊な意味で使っている。それは
「ほんのちょっとの原因が後々大きな差異の結果に繋がってくる」という概念である。もともとは数学から産まれた論理だが、似たようなことは自然科学のなかでもしばしば見られるものだ。
カオスの最も大きな特徴は、「最初の状態がほんの少し異なることが、将来非常に大きな結果の相違になる」ということだ。例えば測定値の少しの誤差が将来的には想定外の大きな結果の差になる。一見規則もないような混沌とした結果を招く状態が生まれることから「カオス」と呼ばれるようになったという。つまり… 未来の状態を現在のデータだけから完璧に予測するのは非常に困難で、事実上不可能であるということだ。もっとも日常に近い例では「天気予報」がそれに当たるだろう。
昔と違って、今の天気予報は「確率」で発表されている。いま現在の天気図を眺めて「多分明日は晴れるだろう」… ではなく、過去30年ほどの「現在の天気図と類似した天気図の日」の翌日は降水確率が何%だったのか… それを確率的に%で表現したものである。
なぜ似たような条件でも異なった結果を生じてしまうのか…
気象学者であるローレンツという方はこうした因果関係を「ブラジルで一匹の蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が起きる」と表現した。より正確には「竜巻発生に繋がることもあるかもしれない」ということだが、これを「バタフライ効果」と呼ぶこともあるので付記しておこう。
「博士、やはりこのカオスは私の頭では克服できません。例えば理想の風を吹かそうとして巨大扇風機を作動させたとします。しかしその風が秒速3mなのか4mなのか、東風なのか東北東から吹かすのかでは将来の結果が予想もできないほどに変わってしまうことになりかねません。そして風と雲を制御できなければ、太陽光の当たり方、つまり雲の発生も制御できないことになります」
「ふむ… やはりそう思うか… ユカどのはどうじゃな」
「あの… 私はカオスっていまはじめてややこしい意味を知ったのですが… あ、聞いたことはありますよ。でもごちゃごちゃの意味だと思ってました。だからアタシなんて…」
「ああ、良いのじゃよ。思うことをいうのに素人も玄人もありゃしない。むしろ新しい切り口を期待したいのぅ」
「ああ… では遠慮なく。あの… 雲を発生させたいんですよね」
「そのとおりじゃ。そのために太陽を当てるエリアと雨を降らせるエリアを分け、順次交代させてゆく。動かないといっても意図的に少しずつ動かすのじゃよ。まあ三圃性農業のような形じゃな」
「でもそれじゃ同じモノを2つか3つ作る必要があります。施設費用が大変です」
「水蒸気を作る晴れゾーンと降雨させるゾーンは同じところにはできまい… 覚悟の上じゃ、持続的な施設維持のためには止むを得まい」
「そうなんです。でもエネルギー源を太陽に頼らない方法があると思ったんです。バヌアツとかなら…」
「なにっ、バヌアツ?」
「そうです。バヌ…」
「あそこはのぅ、わしゃ行ったことがあるのじゃ… そうかっ、なるほど、火山か!」
「そうです。アタシ、テレビで見たんです、いつだったか…」
「あああ、しまった! 北半球ばかり考えておったわ。昔はニューヘブリディーズ諸島と呼んだんじゃよ、あの島々をな… 今はバヌアツ共和国タンナ島のヤスール山は標高361mだったな」
「火山なら太陽光がなくても蒸気はできますよね」
「うむ… 周囲の海からは水蒸気を集めつつ、中心部では火山の熱源で海水から大量の蒸気を発生させるのじゃな」
「そうすれば夜の間もある程度の蒸気を維持するころができると思うんです」
「おおお、ヤラレタな…ユカどんの大手柄じゃ。ラクどん、北半球のどこかに活火山島はあったかの?」
「琉球列島じゃ偏西風の影響を受けますよね… 台風発生域での火山島と… 検索してみます」
「そうじゃな… 日本の尖閣諸島や大東諸島でも北緯25度くらいじゃからなぁ。台風発生海域は北緯5度から20度くらいだと言われておるからな」
「…とすると、フィリピンの活火山かマリアナ諸島ですね。フィリピンはルソン島とか人口が多そうだし、しかも大きな島が多いようですね。とするとマリアナ諸島かな。いくつかありますよ… パガン島、ググアン島、アラマガン島…」
「確かに。幾つかあったのぉ… 零戦の坂井三郎の戦記にも出てきたパガン島とか、戦後に女ひとりに男30人くらいが生き延びて… たしか映画化もされたアナタハン島とか… あのころは無人島だったはずじゃぞ」
「とすると、こっちの方が条件に合いそうですね」
「あら、現地の方や役場も知らないうちにここで勝手に決めたらまずいんじゃないですか?… ところで映画化ってなんですか? なんか聞いたことあるかもしれない気もするの」
「ひとことで言うと、絶海の孤島を舞台に女性一人の逆ハーレム状態で数人の男が怪死した事件でね… アナタハンの女王事件って言うんだ」
「あ、ああああ…やっぱちょっと… 記憶の底に引っかかるんの。家で調べてみるわ」
「あははは、この農場も女一人に男が二人…」
「きゃぁ、やだ、怖い」
「あはははは…」
「ふふふ、まあまあ… では改めて… ユカどの、軽くメモを書いてみたまえ。仮にだが…」
① 偏西風の影響の少ない亜熱帯地域に特殊な地形を築いて「動かない台風」を発生させ維持する
→ マリアナ諸島などの台風発生域で、水蒸気発生の中心としてなるべく火山島を選ぶ
パガン島、アナタハン島(女王事件)
では②はどうじゃな?
② 勢力が巨大にならないように海水温を下げて勢いを削ぐ「安全装置」を付ける
「これはもう… みんな思いついてるじゃろ?」
博士が低くそう言う。
「ですね… 深い海の… 幸いマリアナ諸島近くにはマリアナ海溝がある」
私が同意する。
肯いたユカさんが
→ 海洋深層水を汲み上げる。
と書き足す。海洋深層水の起源は北極や南極にあり温度は約4℃の海水である。水として最も密度が高い状態、つまり重いため、最も深層に溜まっているもので栄養塩類も多く、これを汲み上げることで「海藻」や「海草」が繁茂する効果も期待できる。ちなみに「海藻」とはコンブやワカメなど多細胞生物ながらも身体の器官や組織が未発達である藻類を指し、「海草」とはアマモなど再び海に回帰した被子植物、つまりかつては陸上植物だった過去を持つ一族である。
熱帯の海は生物が栄養塩類を奪い合うために少なく、その影響で意外にも植物プランクトンも密度高く存在できないために透明度が高く澄んでいるのである。もしもここに海洋深層水を汲み上げて豊富に含まれる窒素やリン酸などの栄養塩類と共に投入すれば、まるで金華山沖やペルー沖の海域のような豊かな海に生まれ変わることは間違いない。つまり漁業的にも利益を上げることが可能になるはずなのだ。
ただこれも「自然開発」であることはしっかり意識すべきことである。
③ 雨や風を発電等で有効に使うために、高低差のある島を選ぶ、または建設する
あの… ユカさん、いま検索してみましたよ。メモしてください。アナタハン島の頂上は約787mでパガン島は約570mほど… 北緯は18度10分だからちょうど良いかもね。
→ パガン島は約570m、アナタハン島は約787mほどの活火山がある
④ ダムや水力発電装置、風力発電装置、波浪発電装置を完備する
→ インフラは現状期待できないので、今後整備する
⑤ 作った電力等のエネルギーを電線、またはマイクロ波などで適切に伝送できるインフラを作る
→ インフラは現状期待できないので、今後整備する
「ああ、それと…」
私が声をあげる。
「⑤については海水を電気分解して「水素」を製造するのも良いと思います。欧米の自動車メーカーさんは自動車なんかの水素化を進めようとしてるみたいですから… 一応書いておきませんか。個人的には完全な水素化なんて納得しないと思いますけどね、日本の消費者は…」
「うむ… そうじゃな、ユカどん。今日のブレーンストーミングは稔りが多かったの、ラクどん」
「全くです。ユカさんがすごい」
「え、そんな… 」
「いいんですよ… 無駄な遠慮はしないことです。それが結局みんなのためになるんだから」
「は… はい。ありがとうございます」
「ラクどん… 来週末にワシがNYに行く計画を組んでくれんか? 米国の国務長官に話を通じておきたくてな」
「わかりました、博士。ははぁ…」
「なにがははぁかな?」
「マリアナ諸島は米国領ですよね」
「ふふふ、気付いたか。まあ世間話のついでさ」
「わかりました。ファーストクラスで押さえておきます」
「うむ、頼んだぞ」
んん… まだまだ机上の空論なんだがな…