第5部分 人工台風
第5部分 人工台風
博士が夢を見ている。
睡眠時のノンレム睡眠時の夢は博士と言えどもしょっちゅう見ているはずだが、夢なんてたいていは起きた瞬間に忘れてしまうものだし、覚えていたとしてもいちいち語るものでもないのでまあ無害なものである。
しかし今回はとても実現しそうもないほどの巨大な夢を見始めてしまった様子なのだ。今日も博士はユカさんと私とを集めてブレーンストーミングで様々なアイデアの検討と討論をするように指示を出している。もっとも午前中は様々な生き物や実験の継続の時間に充てられているので、14時から会議室に集まったのだ。小回りが利いて風遠しの良い組織とも言えるが、ある意味博士の機嫌ですべてが決まってしまう弊害もある。
「今日もな、昨日の続きをやろうかな」
「はい博士… 人工台風の構想ですね」
「ではまず… 君のアイデアを聞かせてもらおうかの…」
高校生のころ… たしか化学の時間だったと思うが、ひどく印象に残ったコトバがあった。それはエントロピーという用語の説明だったはずだが、
「エネルギーを散らすのはワケもない。放っておけば勝手に散らばっていくものだが、散らばったエネルギーを集中させたり、集中を維持しておくことはとても難しくて実用上は不可能だ」
という原則である。
確かに沸騰した薬缶のお湯は放っておけばやがて冷えるが、冷えた薬缶の水が勝手に沸騰しだすことはない。気圧を下げれば低温でも沸騰はするが、それはここでは当然想定外のことだ。
あるときドラゴ●ボールとかいうコミックをヒトから持たされるように貸してもらったことがあった。その中で主人公が「元気玉」なる技を教えてもらうシーンに巡り合う。たしかこんな感じだったはずだ。
「この技はな、周りのすべてのモノから少しずつ元気を分けてもらって、それを一気に放出する技なのだ」
エントロピーの説明を思い出した時、反射的にこのセリフを見て思い出してしまったけど… どちらの記憶も「若い頃」のことで… あれから何年経ったことだろうか。
では… 本当に「散らばったエネルギーを集め、集中させておくこと」はできないのだろうか。たしかに人類のコントロールのもとでは成功してはいない。もしできたのならば、それは核融合技術にも比すべき「エネルギー史上最大の技術革新」になるだろう。
そもそもその核融合でさえプラズマ状態の水素を
① 1億度以上の温度にする
② 原子核が100兆(個/1mL)以上の密度にする
③ ①②を持続する「閉じこめ時間が1秒」以上ある
という「ローソン条件」を3つ同時に達成しなければ連続的な核融合反応は起きないとされている。
ちなみにプラズマとは「固体・液体・気体」という「物質の三態」に加えて、約1万度以上の超高温環境下で原子の中の「原子核と電子が離れててんで勝手に動く」ようになった「第4の状態」を指す用語である。核融合反応させるときには重水素Dや三重水素Tといった水素の同位体のガスをプラズマの状態にする必要があるのだが、これがなかなかに難関なのだ。1つ1つの条件は達成できていても3つ同時に達成するというのが想像以上の至難で… つまり核融合は当分お預け状態になっているため、人類のエネルギー危機は未だに解消していないワケだ。
重水素:D および三重水素T についても注釈が必要かも知れない。
それでも日本人ならば福島第一発電所において、放射性物質除去装置「ALPS」ではどうしても除去できない三重水素Tについては報道などで聞いたことがあるはずだ。
トリチウムの海洋放出、つまり海に垂れ流して処理するのがもっとも手っ取り早い。確かに放射性廃棄物ではあるが、原子力発電所や原子力潜水艦を運用している諸外国はみんな垂れ流して処分していることでもある。炉心溶融を起こした日本の福島第一原子力発電所のトリチウムを海洋放出するにあたって強く反対している国は中国と韓国だけである。近隣国だから神経質になる気持ちはわからないでもないが、どちらの国もゲンパツで出るトリチウムは海洋放出で廃棄し、その危険性または正当性を公式に説明したことはない。
つまり単に… 日本憎しのスネ夫的精神の発現であるに過ぎないことだ。
話が反れてしまった。
ふつうの水素原子Hは原子殻が陽子1、その周囲に電子1という組合せであり、陽子の電荷が+1、電子の電荷が-1で電気的には中性になっており、電荷ゼロの中性子は付属していない。ちなみに電子の質量は陽子の約1/1840 であり、例えるならば体重50kgのヒトが1円玉を28枚持っているほどのもので、無視しても構わないほどの比率に過ぎない。
これに対して重水素は原子殻が陽子1と中性子1、その周囲に電子1という組合せである。原子の種類は原子番号、つまり陽子の数だけで決まるので、重水素も「水素」であることは間違いない。しかし中性子を持つ分だけ普通の水素原子よりは重いことになる。陽子の質量はほぼ中性子の質量に等しいため、水素Hの体重だけが2倍になったものが重水素Dであるが、化学的な性質はほぼ変わらない。
同様に三重水素Tは原子殻が陽子1と中性子2、その周囲に電子1という組合せである。つまり水素Hの体重だけが3倍になったものが三重水素Tである。同じ「水素」という原子なのに元素記号が異なるのはおかしな話だが、これは類似したものを誤解しないような配慮だと寛容な気持ちで笑っていただきたい。
ところが… 今回博士が気付いてしまったのは…
散らばったエネルギーを集めて一挙に巨大化する方法がないわけではなかったことなのだ。無論理屈として気付いていた方はたくさん居るだろう。しかしそれを実用化することを本気で考え、プロジェクトを立ち上げていこう… というのである。
エネルギーを集め、巨大化する方法… その解の一つが地震である。
日本の南半分は大陸を支えるユーラシアプレートの南東の際にあるが、そこに向かってフィリピン海プレートががじわじわと押し寄せ、より軽い大陸プレートの下に潜り込んでいく。毎日毎日の移動量はたいしたことはなくても、これが数十年~数百年溜まり続けたエネルギーは膨大な量となっている。プレートが滑ったり壊れたりするときに溜まりに溜まったエネルギーが一挙に放出されて「巨大地震」を起こすとされている。
ただし… 地震のエネルギーは巨大であっても、これを拾い集めることができない。一時にドカンを放出されるが、不規則だし継続性がないし、そもそも放出量が一挙かつ巨大すぎるために発電や運動エネルギー、位置エネルギーなどに変換して利用することは事実上不可能である。
これではエネルギー源としては落第… というか失格だ。
博士が目を付けたのはもう一つの解… すなわち台風である。台風のエネルギーを雨の位置エネルギー、風の運動エネルギー、波の運動エネルギーなどとして取り出すことは不可能ではない。いずれも相当な工夫と改善が必要ではあるが… そういう意味では地震より実現に近いと言えるだろう。
台風のエネルギーは凝縮熱。凝縮熱とは気体が液体になるときに放出するエネルギーである。暖かい水域で発生した水蒸気は、暖められて軽くなった空気と共に上昇する。上空で冷やされた水蒸気は体積を減らしつつ凝縮して「雨」を作り、下からの暖かい空気を吸い上げるような作用をもたらしつつ自らは周辺部を下降してゆく。これが連鎖的に続くと地球の自転の影響(コリオリの力)で、北半球では気団が半時計回りの方向に回転するようになる。これが低気圧であり、成長すれば台風に発達してゆく。インド洋のサイクロンや大西洋のハリケーンも原理は同じだ。
小さなエネルギーを集めて保持することは至難のくせに、ひとたび集まると到底制御の効かない巨大なものになってしまう。
台風の困る点は、その位置が動くこと、そして巨大化すると全く制御できないことである。
従って博士は
① 偏西風の影響の少ない亜熱帯地域に特殊な地形を築いて「動かない台風」を発生させ維持する
② 勢力が巨大にならないように海水温を下げて勢いを削ぐ「安全装置」を付ける
③ 雨や風を発電等で有効に使うために、高低差のある島を選ぶ、または建設する
④ ダムや水力発電装置、風力発電装置、波浪発電装置などの周辺管理機器を完備する
⑤ 作った電力等のエネルギーを電線、またはマイクロ波などで適切に伝送できるインフラを作る
といった条件を構想し、実現に向けて政府や電力会社等に働きかけていこうと言うのである。
それだけではない。台風のタマゴは熱帯または亜熱帯で産まれるし、日本の領土で偏西風の影響を受けないところなどはないので、フィリピンやブルネイ、インドネシア、そしてサイパン、グアムなどのアメリカ領まで巻き込むべく、United Nation、つまり国際連合にまでロビー活動を広げよう、というのである。
「博士… すごくナイスなアイデアだと思います。ただ家でもじっくり考えてみたのですが、どうしても『カオス』をクリアするのが困難であるように思えるのです」
「ふむ…カオス、か。やはり… な」