第3部分 光合成革命
第3部分 光合成革命
チャボの声が響き渡る。スズメが鳴く。ハトが呟く。イソヒヨドリが歌い、カッコウがそれに和す。沫土菜園テスツ農場に朝が来た。
余程の事態が起きない限り農薬を撒かないので、沫土菜園テスツ加速研究所の農場には虫やカエル、トカゲ、ネズミなども多い。時にそういった小動物を狙うモズなどの鳥やヘビ、タヌキにハクビシンそしてキツネなどを見掛けることもある。命懸けのドラマを秘めつつ、ここではどの生き物もそれぞれの都合に従って懸命に生きている。死にたいヤツもいるのかもしれないが、そいつらはなにもしなくてもほどなく誰かの腹中に納まる運命を辿ることになる。
その一角に「C4植物」と「CAM植物」いう立て札があり、以前から私はそこが気になっていた。以前は製薬会社に務めていたが、実は私は農学部の出身、そのせいかC4(シーフォー)植物とかCAM植物という単語を見ると、ついつい過敏に反応してしまうのだ。
C4植物の部分に植えてあるのはススキ、トウモロコシ、サトウキビといった単子葉植物、そして葉鶏頭といった双子葉植物。一方のCAM植物の圃場には単子葉植物ではパイナップル、そして双子葉植物ではサボテンやベンケイソウ、アロエといった植物が栽培されている。
なぜそんな植物を栽培しているのか。
これだけでは少々不親切なので、失礼ながら私なりの解説を試みておく。相手はなんせマッドサイエンティスト沫土博士なので、教養のある方でもよくわからないことの方が多いはずだ。
まず… その辺に生えている植物はたいていC3(シースリー)植物である。C3植物の光合成の仕組みをおおまかに書き出しておこう。
【予備知識】
二酸化炭素はCO2、つまり炭素を1つ持つ物質である。敢えて言うなら「C1」である。
C3とは炭素3個を骨組みに持つ有機物の略称である。
その代表はPGA(Phospho Glyceric Acid 、ホスホグリセリン酸)である。
C4(シーフォー)とは炭素4個を骨組みに持つ有機物の略称である。その代表はオキサロ酢酸やリンゴ酸である。
C5(シーファイブ)とは炭素5個を骨組みに持つ有機物の略称である。その代表はリブロース2リン酸である。
ここまで、よろしいでしょうか?
では、いよいよ光合成の説明に行きます。
【第一段階】
植物は
①日中に気孔を開き、
②空気中から取り入れた二酸化炭素C1を葉の中にあるC5に結合させて、
③まずPGA(Phospho Glyceric Acid 、ホスホグリセリン酸)C3を合成する。
C1 + C5 = C6 になるが、これを2つに分割するので 2分子のC3 が生じる
【第2段階】
④生じたPGA
⑤葉緑素が分解した水分子中の水素
⑥葉緑素が取り込んだエネルギー
④⑤⑥を「カルビン・ベンソン回路」と呼ばれる化学合成系に投入すると、
ブドウ糖(グルコース。C6)などの有機物が生じる。
植物はグルコースを合成するために日々成長しては高さを競い、光を獲得して光合成に励むのだ
ⅰとⅱは葉緑体という構造体の中で行われる。葉緑体は植物細胞の中に存在する。
【C3植物とは】
上記の経路でグルコースを合成する経路を持つ植物をC3植物という
ただし…
①について、気孔は水分が豊富な条件、かつ日中だけ開くので夜の時間を有効に活かせない
また光合成の適温は15~25℃であり、光の利用効率も高いとは言えない
②について、二酸化炭素をいきなりC5物質と結合させるのは効率がよろしくない
といった弱点も併せ持っている。
こういったC3植物は熱帯、亜熱帯や乾燥地域では①や②の弱点がゆえに不利にであることはおわかりいただけるだろう。熱帯、亜熱帯や乾燥地域ではその場所に適した植物が隆盛を誇っている。それがC4植物やCAM植物である。
CAM植物は乾燥地域に多い。その特徴は… 乾燥地域であるがために昼間は気孔を閉じているが、低温で湿度が高い夜間に気孔を開いて二酸化炭素を吸収し、オキサロ酢酸を経由してリンゴ酸という物質に作り替えておくことだ。いわば二酸化炭素を夜間に貯蓄しておくのである。そして昼間に【第二段階】を行って光合成を完了するのである。つまりC3植物とは①と②の部分で決定的な相違があるワケだ。
家で「医者いらず:アロエ」を栽培している方はぜひ試していただきたい。朝のアロエはリンゴ酸のせいで酸っぱいが、夕方には酸っぱさが消えていることを。ただしいつも苦いことに変わりはないが…
このような光合成の方式を「ベンケイソウ型酸代謝」の頭文字を採って、CAM植物と呼ぶのである。
C4植物は熱帯、亜熱帯に多い。その特徴は適温は30~40℃と高温に強く、乾燥にも強いこと、光の利用効率が高いこと、二酸化炭素濃度が低くても光合成濃度が低下しにくいことだ。
良いことづくめじゃないか…
C4植物は昼間に気孔を開くが、いきなり②を行わず、維管束鞘細胞という細胞でオキサロ酢酸:C4 という物質に変え、濃縮して取り込む仕組みを持つ。大きな差はたったこれだけだ。つまりC4植物は②の部分でC3植物とは異なっていることになる。
ここまで来れば、誰しもが思いつくだろう。無論専門家だってこんな夢を見た。
「そんなに良いならC3植物にC4植物でもCAMでも葉緑体を導入すれば良いんじゃねぇ? 地球温暖化も進んでるって言うし、これで世界の食糧危機も一発で解消だぜ…」
ところが… 遺伝子操作全盛の現在に至っても、夢はまだ夢の中のままなのだ。多くの研究者が真剣に取り組んだのにも関わらず…
沫土博士もトライしたのか… そういう感慨に浸って、ついつい見てしまうのである。
「ラクどん、おはよう」
不意に後ろから声を掛けられ、あやうくとび上がるところだった。集中すると周囲で起きていることに注意が向かなくなるのが私の欠点の一つである。
「わっ、博士おはようございます」
「どうしたのかな… この植物に興味があるようだが…」
「ああ、御存知の通り農学部出身なんでね。博士もC4化とかCAM化とかにトライしたのかなって考えてたんです」
「ほっほっほ。これはどうもうまく行かん… どう、ラクどんやってみるかね。栄冠はキミに輝くぞ」
「御冗談を… ところで博士、博士の構想ベースはCAMでしたかC4でしたか」
「わしはC3をベースにC4を導入しようと思ったが… 夜に気孔を開けさせるのはC3には所詮無理な話じゃからCAMは諦めた」
「なるほど… 長所だけを集めたいワケですよね。C3は低温に強いところ、CAMは夜に気孔を開いて二酸化炭素を濃縮して貯めておけるところ、そしてC4は高温に強くて効率が良いところ」
「当時の主流は細胞融合でな、これがなかなかうまくいかんのさ。細胞の細胞壁をセルラーゼで溶かして裸細胞を作り、ポリエチレングリコールやエレクトリックポリューションで異種の植物細胞を融合させる。しかし同種の細胞で融合したり、1:1にならなかったりしてな」
「あれはイライラが募りますね」
「ああ、欲求不満爆発じゃ… ど~ん!!」
「ところで博士、いまは遺伝子群そのものをいじくれる時代になりましたね」
「ん? 何が言いたい?」
「ああ… 何というか、そのいっぺんにいろいろ都合の良いところだけ切り貼りできたら良いな、と思いましてね」
「やはりな、都合の良いところ、だけだよな…」
「いまここで思いついたのが、C4をベースにしてC3の低温特性とCAMの夜間特性を導入するのが最も早道かとも… はは、素人考えですけど…」
「いっぺんにか…」
そう呟いたきり博士は何も言わなくなった。
途中で… 11時くらいだろうか、新たに入った事務員兼研究補助員のユカさんが、
「お昼何にします?」
と私に声を掛けてきたが、博士は微動だにしなかった。
「今はこんなだから… そうだな、そうめんとかできる?」
「ええ、任せといてください。あ、あの辺のネギを薬味に貰ってきますね」
「はい、よろしくです。」
博士はその場に固まって… そこで佇立したまま昼を迎えたのである。さすがに心配になった私は声を掛けてみた。
「博士、お昼にしましょう。この季節にうまい素麺ですよ」
「待て、もう少し待て…」
続けて、
「なんだって? そうめん? うまいそうめん…」
すると
「でかした、やったぞ!」
とにわかに叫び出したのである。
意味が分からない。
しかし博士は興奮している。
「メモだ、メモメモ。C4ベースでC3の葉緑体とキメラ化、CAMの遺伝子で夜気孔、ウミウシのトウ葉緑体機構を利用… これでイケないか?」
「それは… なんだかわかりませんが、こういうことはやってみるまでわかりません。やりましょう、博士。ところで… まずはメシからです。腹が減ってはなんとやら…」
ようやく和らいだ表情になった博士が
「よし、飯だ。しかしそうめんはグッドタイミングだったな。でかしたぞ、ラクどん」
「そうめんが?」
相変わらず私には何のことだか見当もつかない。
「そうさ… ウミウシのタマゴは通称ウミソウメン。あれで一気に繋がった」
「と言われても…」
「食いながら話してやろう。ある種のウミウシにはトウ葉緑体という奇妙な性質があってな…」
「ずるずるっ…」
すすりあげてその麺を飲み込んだ後、博士が話し始める。
「さてどこから話すかな… ますはトウ葉緑体からにするか」
「そのトウってなんですか? 東ではなく、倒れるのでもなさそうだ」
「盗むのじゃ。文字通り盗葉緑体。ある種のウミウシがの、エサにしておる渦鞭毛藻という藻類は植物じゃからな、当然持っておるじゃろ?」
同じくずるずるっと啜って私が答える
「ああ、葉緑体ですね。そりゃ、もう当たり前に」
「エサとして食うのだからな、本来は葉緑体も消化して、ザ エンドだ、このネギのようにな。このネギ、なかなかうまいな」
「ですね。消化するのも当たり前ですね」
ザ エンドってのは ジ エンド のことだろうな、たぶん。博士なりのコトバ遊びに違いない。当然分かって言っているに違いない。今これは聞き流すことにした。
「ところが… このウミウシはな、他の部分は消化してしまうが葉緑体だけは特別扱いしてな、生きたまま自分の、つまりウミウシの細胞の中に取り込むのじゃよ」
「えっ…? それは葉緑体という奴隷の御主人が替わるってことですか?」
「そうじゃ… だから盗葉緑体。乗っ取りじゃな。このネギはもしかしてあの畑の?」
「そうですが… ん? ちょっと待ってください」
「なにかな? あ、わしにそこのラー油をくれないか」
「味変ですね。そうめんにラー油美味いんで、私も大好きです。そうそう、その葉緑体を生かしておいてどうするんですか?」
「ラクどんよ、考えて見なされ」
「まさか、活き作り… なんてワケはないか… じゃあ、えっ、光合成させるんですか」
「生かす理由はそれしかあるまい」
「ああああ、そういえばサンゴって、動物のクセして自身の細胞の中に褐虫藻を飼って光合成させてますね」
「そう、サンゴと褐虫藻の関係が最も似ておるかもしれんのう」
「ウミウシと葉緑体か… あ、葉緑体はずっと飼われているんですか?」
「いや、それはないようだ。早ければ数日、最長十か月という記録がある」
「それはスゴイ… 私は習わなかったですよ、博士」
「たしか2012年の報告だったような気がするな。あとで調べて見ると良い」
「はい、博士」
「よし、午後から基礎研究の準備に取り掛かるか。ラクどんはウミウシと海洋生物飼育のセットを発注しておくように。環境はネットで調べておくと良いだろう」
「はい」
「おう、大事なことを忘れておった。人工海水、あれはあかんぞ」
「えっ? なんでですか」
「あれはpHが中性だからな」
私にはなんだかわからない。
「あの… 中性じゃいけないんですか?」
「あたりまえじゃ。海水のpHはほぼ8、つまり弱アルカリ性じゃ。ウニの受精率なんかだと90%を超えるのが普通じゃが、中性つまり7で受精させるとたちまち20%くらいに落ち込んでしまう」
「そんなにデリケートなんですか? ビックリです」
「ふふふ… 何事も慎重に良く考え調べてからやらんとな。それがワシのやりかたさ。では頼んだぞ」
「わかりました。頑張ってみます」
こうやってこれからの未来が始まっていくんだ。結果が出るまでには恐らく何年もかかるに違いないが、私は精一杯努力してみようと思う。
科学の世界にチートは有り得ないのだから。
ちなみに… この日の夕方に決まったことがある。
明後日の夕食はユカさんと二人で食べに行くってこと… つまりデートってやつだ。いくら素麺の話がきっかけだったからって、まさか素麺てなワケにもいかないし…
どなたかデートプランを御教示願えませんか?
どうぞよろしくお願いいたします。
お風呂で思いついてしまったので、もう一話足しましたが、さすがに連載するには無理がありますね。
もはやマジでネタ切れかもしれません。
御意見御感想やら評価などをお待ち申し上げます。
よいお年をお迎えください。
茶茶