第10部分 ジュールの実験 その1
第10部分 ジュールの実験 その1
『ラクどん、どうかね、その後は…』
「ああ、博士… おひさしぶりです。そうですね、まずえっと…報告書というか、メールはお読みいただいて…」
『ん、ない』
「あ、で、では改めて… そうですね、では個々の交渉の様子よりも今までの結果をまとめてお知らせしましょうか」
『そうだな、言い訳ではないが言い訳すると、ワシもそうそうヒマではないからな。いや、ラクどんが要点を見据えてしっかりやってくれてるのはわかっとるぞ。だから安心して任せている』
「では… おおまかに3つのカテゴリで説明いたします。ひとつには電力消費国の政府や企業の出資や協賛ですが、これは予想以上にうまくいっています。やはりSDG’sとか流行りのコトバには乗りやすいしカッコも付くし、広告宣伝費の一環だと思えばそこまで高価いワケでもない。海水温が下がって、海産物漁獲増産が期待できるうえに消費電力の価格が約半分になるんだったら、そりゃ乗ります」
『それで資金の何割かな? アバウトで構わんが…』
「プロジェクト晴嵐の予算80兆円の6割は超えてますね」
『するとワシの出資は32兆円ほどかな?』
「ええ…現在は。しかしまだまだです」
『ふむ、なるほど… では2番目は』
「2番目はハード、インフラ整備面です。試算してみると赤字覚悟かもしれませんが、とにかく初期投資が莫大ですね。やはり絶海の孤島というか火山島であるだけに、港や川の整備…島によっては湾や川の造成も必要ですし、ダム、発電所、作業員宿舎や管制室など、意外に細かくてしかも高コストな要求もあって… この辺は設備を規格化して大量注文によるコスト低減を一層強化すべきです。就中海洋深層水の揚水ポンプは揚水管のみならず本体や駆動装置、さらに浮力発生部からケーソン固定部に至るまで金属自体の耐腐食性だけでなくカキとかフジツボとか海藻の付着を防ぐ防汚性を持たせるのが結構重要で、こういういわゆる維持管理には作業時間もおカネもかかります」
「そういえば船の底とか養殖用の網とかはそういう付着生物がやたらにくっついて困るんだってな。それ、どうやって防ぐんだ? たしかタバタみたい名前だったよな… そうだ、TBTだ、アレを使うのかな?」
『ずっと以前からはTBTっていうスズ化合物が徐々に溶け出すヤツでしたが、あれは生物濃縮つまり高次消費者にはとんでもない濃度で蓄積するうえに内分泌撹乱作用が強くて却下しましたよね。それでも当初は防汚塗料の、その加水分解型か水和分解型を考えたんですが、やはり環境に配慮するとシリコーン型かな、と。まあでも今ではマリンボ◇ベールなんていう… 中の亜塩素酸ナトリウムが海水に溶出して二酸化塩素が発生してフジツボなんかを寄せ付けにくいし金属アルミにも使える塗料もできてますし、これはちょっともう一度検討ということで保留してます。ただいわゆる溶ける塗料は数年おきに塗り直すメンテが不可欠で、ここはコストと大きく関わる。シリコンは溶けないけど基本的に滑って付着しにくいという性質の塗料で、溶けださないのはメリットだけど動かない部分ではなかなか滑って落ちてくれない欠点もあります』
『なるほど、いざ実用となると、特にコスト絡みの観点は大変だな… で、3番目は?』
「はあ、3番目ですか。これあまり話したくないんですよ、正直疲れちゃいました。本当なら一番に話すべきなんですが…」
『まあまあ、珍しく急に弱気だね、ラクどん』
「ええ、まあ… それでもメールでは復命してますが… でも確認ですが博士は…」
『ああ、読んでない、悪いけどな フフフ』
「あまりの信用しっぱなしはよろしくないですよ、博士」
僕はほとんど涙声で、精一杯の抗議をした。
「僕が不正をしようと思えばできてしまう… しかも事務担当でもあるユカさんは僕の大事な恋人です」
『そうやってちゃんと言うのがラクどんの人柄だ… まあまあ、まず言ってごらんな』
「はあ… それでは… 途中で泣き叫ぶかもしれませんが、覚悟はよろしいですか」
『む… まあ、仕方あるまい。やはり建設用地の問題かな』
「は…はい。いや、うまく行ってたんですよ、最初は」
『とすると、途中からの方針転換』
「そしてゴリ押しと費用吊り上げです」
『ははあ、あの例の近くて遠い某K国お得意のアレみたいなアレか?』
「そうそう、”ゴールが動く”という国技です」
『まあイン〇ネシアの新幹線みたいな例もあったからな、アレは酷かった』
「アレは日本の計画を某C国に横流ししたうえに計画マルパクで見掛けはお安く、つまり粗悪廉価版でありながら後で実質負担が爆増する魔法特典付きで売りこんで… しかしできたのは数年単位で遅いわ、計画の倍近いカネがかかった上に無いはずの債務まで体よく背負わされるわってさんざんでしたね… まあネシアザマァって日本人ならみんな思ってますけど、でも政治家は賄賂と息のかかった施工会社からの還流で丸儲けって… あ、嗾けないでください博士、わたしずっと罵詈雑言を並べてしまいそうで…」
『はは悪い悪い…想像はつくけどね… で、ラクどんはどんな?』
「もう、聞いてくださいよ博士…」
このあと交渉経過という名目で涙ながらのグチが原稿用紙15枚ほどの分量で続くのだが…
さすがにだらだら過ぎて書く方もしんどいので要点だけに絞って記載しておこう。
・温暖化でまもなく消滅しそうな国土から移転予定の国民が、計画を知るなり補償金吊り上げを目的として断固移転拒否に回る。無論表向きは環境破壊阻止と愛国的国土保全が名目であって始末が悪い。また補償金の要求がべら棒かつ所有権を手放さない形で要求する者もいて、後々採算性に関わる問題となる。
・相手政府レベルの交渉であってさえ、最初はスムーズに合意をしても後から再度の交渉を求められるか最悪破棄されたこともある。
・とにかく賄賂の要求がものすごい。
・C国とK国の横ヤリと妨害がお話にならないくらいアケスケでヒドく、命の危険すら感じる
…というワケで博士、私はもう… グスン …もう限界れす…
涙とともに啜り上げた出したハナミズがジュルっと音を立てた。
『それは… ずいぶん試練のある人生修業だったね、よく頑張ったな、ラクどん』
「ええ… ご理解いただきありがとうございます」
もう一度溢れかけたゾル状の液体をジュルっと啜り上げた。
『ウン… なるほど、ジュールか』
「えっ、なにがジュールですか?」
『ん? ラクどんが言っただろうが、ジュールと』
「え、そんなん言ってませんよ、ハナ啜っただけです」
『いや、まあいいじゃないか、ちょっと思いついたんだよ』
まあ博士にしても、天才と紙一重に有りがちな自己中心的要素を少なからず持ち合わせているしなぁ… そう思ってちょっと黙ると、次の質問が飛んできた。
『ところでラクどんはジュールの実験を知っとるか?』
「あ、はい… たしか中学だったかな、習いましたよ。でも随分話が飛びましたね」
『あのね、なんか閃いたんだよ。ラクどんが聞いてきたのは民の声だ。小さくてもこれは無視してはならん』
「無視はしてない代わりに腹が起立するんですよ… だって、ヤツラはさもあたりまえのように大声で主張してましたよ」
『そこじゃ!』
「えっ、そこですか?」
『いやいや声の大きさではなく、民意は無視できんということじゃ。政府機関だって結局はきれいごとを翳しながら民意と賄賂で動くんじゃからな。でも作ってしまえばあとはこっちのものじゃ』
「はあ、でもしかし…」
『良いんじゃよ。結局はカネでカタが付くならじゃんじゃん使えば良い、必要なところには、な。あとでシクシク回収ば良いだけの話し。ラクどんがイラつくのはな、突き詰めれば吾輩のためにコストと効率を… 例のコスパってやつだろ… アレを優先に考えてくれてるからじゃろ?』
そっか… そう言われればそんな気もする。
「なるほど、ちょっと考え直してみます。これは新しい視点かもです」
ビンボー人には永久に辿り着けない発想かもしれない。
『まあ、今までの交渉に感謝を込めて、なぜワシがジュールを連想したのかをな、今日はじっくり語ってみようかの… これも修業じゃでな…』
僕は釈然としなかった。
博士は博士なりに僕の立場を労わり慰めてくれようとしているに違いないが、僕としてはあの熱帯亜熱帯住民に多い楽観的自己中心的他はどうでも良い的な考え方とそれを実際言動に移してしまう無神経さに気も腹も立って仕方がなかったからでもある。
まあでも、この営業不振…というか早く言えば失敗に寛容で、すべての責任を押し付けられるよりは相当マシだし、差し当たって都合が悪いことでもない。まあ、そういう熱帯気質を計算に入れなかった自分の見通しが甘かったのと、そういう危惧通り自身に素直に行動する現地人と…
ここは博士の思い遣りを受け止めて、ひとまず冷静になってみよう。
「博士、もう一度確認ですがジュ―ルって、あのジュールですよね」
「あのビートルズのヘイジュードのアレではないぞ… がははは」
「そういえば、あれってユダヤ人のことなんですか? ジュードとは言っても綴りは ”Jude"だから、つい”ユダ”を連想しちゃうんですが」
『うむ、そういう説もある。じゃが元々はレノンがヨーコと浮気した果てに前妻のシンシアと離婚するとき、レノンの長男ジュリアンに”まあまあ、そんなに落ち込むなよ”って励ます曲だってさ。そのジュリアンの愛称がジュールってことだけど、それがどこでJudeになったのやら… でもそう言われてもそりゃ無理ってもんだろ、子供じゃろ? だったらそもそも浮気すんな、別れるなっ…ちゅうの。一家でさえ波風立ててるのに、そりゃいくら歌で訴えてもさ、そんな世界平和なんて無理無理…』
「あ、あ、あははは、おっしゃる通り、それが道理ってもんですね。あ、で、そのジュールなんですが、ちょうど良かった…実は私も中学以来の疑問がありまして今日まで解決しきれなかったというか、放置したままの疑問ってヤツですなんですよ」
『ほう、それはどんな観点かね?』
「そうですね… いわゆる物理ってのはしごく当たり前で、ある意味数学と非常に良く似ています。例えば力学とか。摩擦ゼロとかは全く現実的じゃないけど、まあ想像できなくはないけど、これが流体力学とか電磁気学になるとちょっと抽象的で解り難くなる」
『まあそんなもんかのう、しろ… いや、中学生ではな』
「いや今と変わらず素人でしたからね。所詮はそんなもの。ただしそういう力学も解釈を広げるとだんだん抽象的で解りづらくなってくる。ジュールのやった業績にはスゴイのがたくさんあるけど、その代表が単位”ジュール”の定義だと思うんです。結局数式になっちゃうんだけど、アレって熱量とエネルギー量を等号で結んでるから、熱とエネルギーは等価で互いに換算できるってことですよね。この辺は台風の潜熱、つまり熱エネルギーを水の位置エネルギーと運動エネルギーを経由して電気エネルギーに変換してゆくプロジェクト晴嵐にも通じるものがあります」
『ふむ、そのとおりだね、続けたまえ』
「ところで、疑問なのは、そのジュールが創った装置なんです」
『装置? 実験装置のことかね?』
「はい、実験装置。ここの測定ミスってたら、現代でも世界中のいろんな計測値とか定数とかを変更しなくちゃいけなくなりませんか?」
『ふむ… そりゃそうな、うん』
「ちょっといきなりなんで何も下調べも準備もないので、うろ覚えで失礼しますが…
中学のセンセはたしか… 落下する錘にヒモを結んで、そのヒモが引かれると容器の中の水が羽根車によってグルグルをかき混ぜられるような装置を造ったとか教えてくれました。錘の重力による”落下”によって錘の位置エネルギーが減り、代わりに装置によって位置エネルギーから変換された運動エネルギーが水を運動させる。このとき水分子の摩擦によって温度が上がるはずだから、運動エネルギーがどんな大きさで熱エネルギーに変換されるかが分かるはずだ… たしかそんな感じだったはずです」
『ラクどん、説明がもうちょっとなんとかならんかのう… しかしまあ、そんな感じじゃな』
「あ、そうか、それならこれでどうです? 水をかき混ぜるという仕事をしたらその摩擦で水温が上がる装置、とかで良いのかな」
『うむ、それならすっきりするの、合格じゃ』
「これ、ずっと疑問だったんです」
『ほう、それのどこが?』
「現実問題として、僕らがシャカリキになってコップの水とか、竹筒の水とか、いくら混ぜても振っても水温が上がってる気がしない… そうじゃありませんか?」
『ふむ、なるほど… 他に気付いたことは?』
「そうですね… モノとモノの摩擦で温度が上がるのは、例えばマッチとか火打石とか、車のブレーキや…そうだな、掌や乾布摩擦で擦れば実感できます。でも水をバーテンダーみたいに2~3分程度振りまくっても水温は上がらないし、ど根性ですごく長い時間頑張ったなら体温くらいまでは上がります。でもこれって要は掌から伝導した体温でしょ、たぶん」
『ほうほう…』
「あと… 気温というのは要は気体の分子運動速度なんですよね。で、音とかの振動エネルギーは壁や気体分子を振動させて最終的には熱エネルギーとして放出されるというけど、部屋を閉め切ってガンガンにステレオ掛けても、別に温度が上がったような気はしないでしょ。それでも中3の夏休み、少しでも放熱ロスが減るよう自分の部屋を閉め切って真面目に実験したらあやうく熱中症でしたよ、まったく… それにその説を拡大解釈すると、寒い北風が強く吹いたらその風による摩擦で理屈では暖かくならなきゃいけない気がするんだけど、実際はとんでもなく寒いだけっていうのが現実でしょ? もっともこれはそこまで考えて実験してみたワケじゃないけど、まあ体験的に判りますよね、JKで」
『まあ真冬に吹きっ晒しで凍えるなんて実験はしない方がシアワセじゃな』
「あと決定的にわからないのが、断熱材です。現在では発泡スチロールとか段ボールとかで断熱すれば精度よく実験できそうですが、彼の時代にそんなものあるはずがない。せいぜい最低でも毛布とか新聞紙でしょ? なにを使ったと思いますか? 現代じゃ無理だけど石綿って手段があるかな、危険すぎるけど。それに…あとは温度計、これって決定的でしょ。水銀計にしろアルコール計にしろ、どんなに頑張って目盛り以下を無理矢理読んでも精度は0.1℃がギリギリってとこでしょ」
『そうか… なるほど… ははぁん、わかってきたぞ』
「博士、いったい何が分かったと…」
『ところでおい、なぜ女子高生が登場したんだ?』
「あ、常識で考えて…のJKです、失礼しました。まあキライじゃないですけど」
『好きならば好きと言え』
「あっ、もちろん好きです… って、何言わせるんですか」
『まあまあ、しかし、何とかわかったぞ、そのいろいろな疑問の比叡山は1つだな』
「比叡山…??」
『っとわからんかな、比叡山と言えば根本中堂、すなわち根本じゃよ』
「ああ、なるほど、わからんかったです、メモしときます」
『実はな、それこそがワシに言いたいことだったのじゃ』
「比叡山が、ですか? 天台宗でしたっけ、密教でしたっけ?」
『まさか… 小さな小さな民の声によく似とる感じの小さな小さな… 集めないと分らないようなエネルギーのことなのじゃよ、それを自身の体感だけで判断するとラクどんのような結論に至るじゃろうな』
「僕にとっては数十年来の疑問なんです。ひとつお手柔らかに」
『うむ… ならば語って聞かせようかの。まずは、そういうことを疑問に思い続けたことが素晴らしいことじゃ。たいていは放置のまま忘れてしまう。あの頃はネットもなかったからな、AIでちょろっと簡単に調べることなど到底叶うことではなかったゆえな』




