第1部分 沫土(まつど)博士
第1部分 沫土博士
その博士がどのように生計を立てているのかを知る人はない… おそらく。
近所で特に仲良くしているヒトもいないようだが、別段嫌われているワケでもない。妻はないがちゃっかり愛人を近くに住まわせていて、僕も3度ほど会って挨拶した記憶がある。梅子という名でなかなかお綺麗な方だが、やはりちょっと… というか、かなりの変人であった。維持管理が大変でねぇ…とは博士の言である。
食事は出前かコンビニ飯が多いようで、今は勝手口の脇にプラ容器のゴミが大量に積んであるが、もっと昔は皿やドンブリが家の前に店ごとにきれいに仕分けされて並んでいたらしい。本気でSDGsに取り組むためには、まずこういったプラを大量に消費するヒトの意識改革から始めなければならない…と思ったりもするが、さすがに面とむかって言う気にはなれない。
私は楽々(らくらく)製薬という会社の営業販売員で、最初は試薬の宣伝と販売のためにここを訪れ、やがて新開発の薬品の原料となる植物の評価と栽培方法や薬効のテストを依頼するようにもなったりして、気付いてみたら気難しがりの博士に「ラクどん」と呼ばれるほど懇意になっていた。その博士… 沫土博士は天才であるとも言えるが、天才と紙一重という部分もあって… 要するにスゴイけど相当に変わった人物である。
どうやら資産家の家に生まれカネには不自由しなかったようで、名のある大学の修士、博士コースを歩んで現在の試験農場経営に続いているらしい。ちなみに
「この農場に特に名はない」
という。しかし郵便物の宛名は一様に
「沫土菜園テスト農場」
であって、机に並んだ郵便物の宛名がことごとく同じなのを見て、僕が正式な農場の名前を聞いたときの返事であった。
このとき博士は
「そういえば名乗ってもいないのになぜかな? まあいいか。それより… おおそうだ、そろそろPS培地を作らにゃな」
と不思議がっていたことがあってヒヤヒヤしつつも面白かった。これだけ怜悧でアタマのキレるヒトがこんなことに気付かないなんて…
平たく読めば
「まつどさいえんてすとのうじょう」
だが、ちょっと流暢に読み上げれば
「マッドサイエンティスト農場」
に聞こえてしまうではないか。
博士が扱う学問はさすがに天才だけあって膨大な領域におよぶ。物理化学生物地学… 理科一般に強いが、少々数学には弱いんだ、とは博士のコメントである。
研究の成果を幾つか挙げてみよう。
「ムペンバ効果」というコトバを聞いたことがあるだろうか。
熱いミルク(お湯)と冷たいミルク(水)を同時に冷凍庫などで冷やした時、熱いお湯の方がより早く凍る、という通常の物理法則に反する現象を指すコトバである。1963年に同級生とアイスクリームを作っていたタンザニアの中学生エラスト・ムペンバさん(13歳)がこの現象に気づいたことが由来となっている。普通なら「思い違いかな」とか「あれっ、いや気のせいだよな、きっと…」で見過ごすところに食いついたところが素晴らしい。
そして実は未だに理論的な解明が為されていない、意外に難しい現象なのである。実際にそうなることは分かっているが、どうしてそうなるのかという部分がきちんと説明されてはいないのだ。
博士に言わせると、
「ラクどん、あんなものわしはとっくに解明しておるぞ」
ということになる。
「水分子同士の共有結合だのクラスター(十数個の水分子の塊)だの水素結合だのいう説明を全部取り払ってしまえば、じゃのう…」
「あ、できるだけお手柔らかに、博士」
「ラクどんにわかるように、か… そっちの方がずっと難しいわな」
「ああ、でもそれね、私も知りたくて」
「そうか、仕方あるまい。ラクどんは水と氷、どっちが重いか知っておるな」
「無論水です。4℃の水が最も重くて1立方cmで1gですね」
「もうちょっとちゃんと言うと質量は0. 99997(g/cm3)なのだが、まあ良いだろう」
博士は時にこうやってマウントを取ってくるが、正確さに念を入れる態度について私は特に抵抗はない。
「で、だなぁ… 氷の質量は水の…」
「5~10%程度小さい(軽い)はずです」
「先回りすな… だから氷は水に浮く」
「はい。そして?」
「お湯はどうかな」
「温められると軽くなって… 正確には密度は小さくなって上に浮いて… 対流が始まります」
「ほう、よくできたのぉ」
「それで?」
「しまいじゃ」
「?」
「わからんかな? 要するに氷とお湯は似た物同士なのじゃ。特に水分子の距離感と並び方が、な」
「…といいますと?」
「水を凍らせると、水分子同士は位置を変えて密度を下げる… つまり周囲の水分子を押しのけて体積を増やすのに意外に多くのエネルギーが必要なのじゃ… ワシの試算ではこのくらいの、な」
博士は分厚くてちょっと汚らしい実験記録ノートの一部を指してみせる。
それを眺めて私は答える。
「ほう… 結構大量ですね」
本当はよくわからなくても、そう答えなければならない空気だけは読んでいる。
「さらにその水分子が氷になるべき新しい位置に移動するときにな、お湯なら冷めるための対流も分子運動も激しいので苦も無く移動できるのに、冷えた水では対流も分子運動も起こり難い。だから水全体への熱伝導も…」
「なるほど、悪くなりますね」
「そういうことじゃ」
「は?」
「だから凍りにくいのさ」
「は、はぁ… そういうことですか」
実は全然わからない。
「博士、論文出しましょう」
私が提案してみると
「ははは、ばかな… ワシがこんなに幼稚なことで論文書けると思うか… 第1面倒だろ。第2に紙がもったいない。第3に時間がの… ワシがこう見えて意外と忙しいしな…」
「はい、そうは見えませんが…」とは返事はできない。
「もうわかってしまったことには興味が湧かんタイプなのさ」
「え… 博士、まさか正確な計算が…」
「そ、そんなことはない」
「では…」
「ただちょっと面倒なだけじゃ」
「はぁ…」
ちょっと頼りない気もするが、直感力と実験の正確さには絶対の信頼を置いても良いことは数々の実績が証明していた。
「そもそもな…」
ヤバい、またアレが始まってしまう。今までの経験がそう教えてくれる。早急に話を変えなければ…
「は、博士。今日は天気が良いですね」
「ははは、前に言っただろ、天気の良し悪しは、その場のヒトがどう捉えるかで決まって来る。当然立場や状況も関係する。傘屋にとっては雨の方が良い天気だろ?」
「は、そうですが、しかし…」
「それよりもな、そもそもライデンフロスト現象はワシが発見していたのじゃ、たった6歳のころにな」
あああ、始まってしまった。これであと15分はこの話が続くのは確実だ。仕方ない、ちょっと端折って概要だけ書いておこう。
ライデンフロスト現象とは1756年にドイツの医師ライデンフロストが論文で発表したためにこの名がついているが、元はと言えば1732年にオランダのブールハーフェが観察し記録した現象である。
よく熱したフライパンに少量の水を落とすと、水滴の塊は鉄にあたかも接していないかのように底の金属上に浮き、滑るがごとくユラユラと移動する現象をライデンフロスト現象と呼ぶ。フライパンに水滴が接する部分がはずの部分において、過熱したフライパンの表面で水が瞬間的に気化・蒸発して薄い蒸気の膜を作るために、それ以上フライパンと直接接するのが阻まれる… つまり水みずからが蒸発して生じた水蒸気の上に乗って浮いている状態になる。フライパンと水滴は水蒸気に阻まれてほぼ接触していないので、水蒸気という「気体」を通しての熱伝導が極端に遅くなり、水滴の蒸発に想像以上の時間がかかるため、過熱したフライパン上でも意外に長くこの現象を観察することができるのだ。
博士はこれを6歳のころに発見し理屈を解明していた、と主張するのである。
そして今この齢になっても、
「ああ、ブールハーフェとライデンフロストさえ居なければ、【沫土現象】の名を冠してゴッドファーザーを名乗ることができたのに…」
と残念がるのである。その気持ちはわからないでもないが、はっきり言って、くどい。あまりにも聞かされすぎたために、私もこの程度の講釈ができる蘊蓄を身に着けてしまったではないか。
それに… それを言うなら、この私だってこんな現象を発見している。
山に登れば登るだけ太陽に近づく。しかし気温が下がるのはなぜなんだ。暖かい太陽に近付くのに寒くなるなんておかしいじゃないか…
不思議に思って父親に訊ねてみたら…
「気のせいさ」
と言われてがっかりした記憶がある。
ただし今はわかる。
父は恐らく
「気圧のせいさ」
と言い、私がそれを聞き取りそびれたに違いない。
しかし… 気圧が低くなって気温が下がるのが真実であるとするなら、強大な気圧がかかった深海の底が4℃なのはおかしいじゃないか? こんな疑問が生じてもだいたいはそのまま放っておく人間だから営業職に就いたのだろう。しっかり解明する性格と能力があれば、学者を目指したはずだ、たぶん。
「これ、これラクどん、ラクどんよ… 大丈夫か」
ふと気付くと話は終わっていた。まだ9分くらいしか経っていないはずだ。
「あ、はい… ちょっと今朝早くからお腹が痛くて目が醒めてしまって… ちょっと眠いんです」
「眠いじゃ困るな… ワシのとっておきの大発見を語ろうと思うが、ラクどんの感想を聞いてみたいんじゃ。今度にするか… いや今日の方が良いだろうな、善は急げというからな」
なにが「善」なのかわからないが、よほど語りたいらしい。私としては今日の営業もあるし依頼したいことも抱えていて、イヤだとは言えない状況だった。
「無論ダイジョブです、お願いします、でも私でもわかるようにお願いしますね」
「もりろんじゃ」
興奮のせいか、すでに舌がもつれている。これは長くなりそうだ。
「ラクどんはダークマターというものは知っておるな? 」
「またまたぁ… さすがに名前くらいは… 理系の端くれですからね」
「そりゃ都合が良い… ワシはその正体をついに突き止めたぞ」
「えっ、まさか…」
私は本当に絶句した。もし本気でそう思っているなら… 世界的大発見か、通院を勧めるかのどちらかであろう。
あやふやな知識で申し訳ないが、念のためお読みいただく方のために一言書いておくことにしよう。
ダークマターとは理論物理学で論じられる用語である。確か宇宙の年齢や質量、大きさや広がり、そして未来の姿までを占う重要な要素なのだ。
約140億年前と言われるビッグバン以降、宇宙は拡大し続けている。そもそもビッグバンとは「爆発」という意味というよりも「負のエネルギーが突如として巨大な正のエネルギーと膨大な物質に転換した」という現象を象徴的に指すはずのコトバだった。
この時点ですでに
「負のエネルギーって何だ?」
と思考が停止してしまいそうになるが、強引に続けてみる。
では拡大しているのは本当なのか?
ハッブル宇宙望遠鏡などによる光や電磁波の観測によれば、遠くの銀河ほど速く中心部から遠ざかっており、現在も拡大は続いている。これは電磁波や光のドップラー効果(赤方偏移という)などから証明されていることだ。
しかし同時にビッグバンの中心部には巨大なブラックホールがあり、その巨大な重力で宇宙全てのものを飲み込もうとしている… つまり宇宙を収縮させる力も同時に働いている、というのだ。
どのみち我々の寿命があるうちになにかが起こることは有り得ない。拡大しようが収縮しようが、はっきり言ってどうでも良いことであるが、その方面の学者にとってはとても大事なことなのである。
さて… 将来宇宙は拡大を続けるのか、はたまたいつか収縮に転じるのか?
それを知るためには宇宙全体の質量を知る必要がある、という。そこであらゆる手段と知見を用いて宇宙の質量が推定された。
が… 足りないのだ。観測できる、すなわち見えている物質の質量合計は銀河等の運動から推測した質量合計に対して遥かに少ないのである。
この事実は… 宇宙には言うなれば「質量を持つが見えない物質」があることを意味している。それをこの世界では「暗黒物質」と呼ぶのである。「暗黒物質」の質量は「見える物質」の数倍~十倍程度だと見積もられており、えっ!ずっと多いじゃん、素人にはもうなにがなんだかわからない。
ダークマターの正体は高名な学者の間で広く論じられてはいるものの、未だに定説がない。ニュートリノと呼ばれる素粒子の他に、ニュートラリーノ、アキシオン、ミラーマター、LKPといった仮想的な素粒子やブラックホール、中性子星、白色矮星、褐色矮星、惑星まで含めて議論されているものの、いずれも帯に短し襷に長しといったところで決定打はない。
それを在野のマッドサイエンティストが解明したとなれば… これはスゴイ!
しかし… 本当だろうか? 研究のし過ぎで何かがイッチャッタのではないだろうか?
私は博士の顔をまじまじと見つめた。
「ん、どうしたラクどん… ワシに惚れたかね」
「あ、いや… その。ダイジョウブですか」
「ん、なにが大丈夫だ?」
「ああ、なに、その、時間ですよ。ほら、貴重なお時間ですから」
まさか博士の精神が大丈夫かなんて聞けはしない。
「ああ? ワシは元気そのものじゃ。昨日も梅子と第3ラウンドまで、な。ひひひ」
なにかを勘違いしたのか、なんともとんちんかんな答えが返ってきた。
「では伺わせていただきましょう、その大発見を」
「そうだよ、大発見だと価値が判るヒトに聞いてほしいからのぉ。昨日の梅子はの、ダークマターより私の暗黒局部はいかが、などと、な。ふふふ… それでつい3回戦まで… 今日はもう腰が…」
「はいはいそこまでそこまで、ごちそうさまです。」
こんなところで惚気られては堪らない。
「で、その… ダークマターの正体は?」
「それが梅子と交わるときにな…」
「交わる… と言いますと」
「交尾じゃ、交尾」
「ああ、3発ですね」
「そう… 電気が走ったぞ。精子の膨大な流れじゃ」
「電子が流れた方向がマイナス→プラス、つまり電流の逆方向ですね」
「馬鹿モン、局部→局部の方向じゃ」
「あのぉ… 博士、交尾ではなくダークマターの話なのですが…」
「おお、げにげに(そうだそうだの意味)、そうじゃった、興奮しすぎた… 許せ」
「いえいえ、それはお盛んで裏山です」
「で、閃いたのだ」
「おっと?」
「ダークマターとは電子のエネルギーそのものなのではないか、とな」
博士はヤバい領域まで来てしまったのではないか? そういう私の思いを察したらしく、
「いや、大丈夫だ。ただみんなが忘れていることがある気がしたのだよ」
「忘れていること?」
「そうだ…、見逃していたこと、といっても良い」
「なんですか、それは」
「おい、まだ秘密だぞ… 誰にも漏らすなよ」
「もちろん… 誓いますよ、神に懸けて」
「ほぉ… でもワシはな、あれが良いんだ。さぁ、手を、小指を出せ… ここにこうやって」
「えっ、あの…」
おい、まさか指を詰めるってことか? 私は博士も893じゃないぞ。
「そうだ… さ、一緒に歌うのだ」
「えっ、そんな歌ありました?」
指を詰める歌なんぞ、聞いたことが無い。
「日本人なら知っとるだろ、さぁん、にぃ、いち、はい」
♪ ゆびきりげんまん ウソついたら はりせんぼん のます 指切った♪
なんだ、その歌かい…
この歌詞の最大の疑問は、「はりせんぼん」の解釈だ。針を千本なのか、フグの仲間のハリセンボンなのか。どっちみち呑めはしないが…
仕方なく私も腕を振りながら唱和するほかなかった。
「さてと… 誓いの儀式も終わったし、そろそろ語って聞かせようかの…」
短編の読み切りで終わらせるつもりが、意外にも長く… すでに6600字を越えてしまいました。サティが日頃思っていた科学上の疑問を突然の思い付きで小説風に描いてみたのですが…
・ダークマターなんて本当にあるものなのか?
・世界中の学者が考え続けても正体がわからないモノって何だろう?
そんなワケで、感動を呼ぶとか素晴らしい人間ドラマとか、そういうストーリーにはなりませんでした。
ひととき科学の世界に浸っていただくことができれば幸いです。
みなさまのブクマ、感想、評価、誤字指摘などををお待ち申し上げております。
よろしくお願い申し上げます。