其の胸に沁むは
※プロットなので設定的な記述・残念な体言止めも多いです。
※主人公の表記がまちまちです。
『善良な姉』『善良な娘』『彼女』『妻』など、
『宰相の息子』『夫』『男』『父』などは同一人物です。
それでも良ければどうぞ…
善良な姉と姉思いの妹
善良な姉の嫁ぎ先は侵略国の宰相の息子。
宰相の息子は血も涙もない戦略家。
国を広げ功を挙げ、とある野望を果たすためには手段を選ばない。
人を騙す事もなんとも思わない。勝者が栄えるのが理。
善良な姉は宰相の息子の行いに驚き戸惑い、やめるように諭す。
しかしその側から善良な姉自身、他の政敵から騙され狙われてしまう。危険な目にあって初めて、自分の身を守るためにも大切な人を守るためにも、策略を退け自分の意を通し時には相手を騙す事も必要な手段であったと知ってしまう。
善良な姉に降りかかる火の粉をはらい、策略を迎え撃つ宰相の息子は確かに頼もしく、彼がこうならざるを得ない背景を敏感に感じ取る善良な姉。
それと同時に、彼は「妻」として彼の所有する物、支配下の手駒を守っているに過ぎないと感じてしまう。
彼への恋心を自覚し始めた善良な姉にとってはとても辛い事であった。
一方で姉思いの妹は実家の兄を手伝いながら姉にせっせと手紙を書く。
たった一人侵略国の上層階級に取り込まれてしまった姉に、枝国となった母国の懐かしい光を届けるか細い光穴となる姉妹の文通。
宰相の息子の検閲が入っているとはつゆ知らず、善良な姉は彼への労りや自分の不甲斐なさ、殺伐とした世界への嘆きとそれを変えるための的外れな希望を書き綴る。
姉ほど夢見心地ではない妹は、ある事件をきっかけに母国の諜報機関に取り入られることとなる。
諜報機関が目をつけたのは姉妹の文通。
もちろん検閲が入っているであろうことは想定済みで、検閲があってもわからない方法で宰相の息子が持つ機密情報を横流しさせるよう姉思いの妹に嗾す。
愛する夫に愛されてもいない、たった一人的外れな奮闘をしては傷つく姉を救い出したい一心で、姉思いの妹は姉をも騙して母国に連れ帰るために諜報の片棒を担う。
しかしその頃、宰相の息子の心境にも変化が訪れていた。
侵略国内の高貴な夫人として当然身につけるべき牽制や諜報の振る舞いが出来ないばかりか、家に閉じ込めていても何かと問題を起こす夢見心地で使えない妻。
自分の身も守れない癖に当主である自分の決定に口出しをしては泣いている期待外れの女だ。
元々止むに止まれぬ政略で引き入れた女だが、軟弱な枝国を映したような軟弱な思想には反吐が出た。
しかしーーそれでも、彼女が自分や物事を気遣う様は自然とどこか深いところをほんのりと温めるようであったし、計略を挟まない真っ直ぐな眼差しは、たとえ悲しみの涙に濡れていようと美しかった。
柄でもなく、自分の妻は自分には合わないーー触れてはいけない純粋な小鳥のようだと、そして、もしかしたら計略とは無縁のーー彼にとってはこの世で最も得難い、裏切ることのない安らぎになり得るのではないかとーーそんな夢を抱かずにはいられなかったのだ。
折しも彼が「妻」に一歩歩み寄ろうとしたその頃。
姉思いの妹が加担した諜報組織の悪事ーー枝国の反乱の準備が明るみに出る。
芋づる式に洗い出した妹の加担は疑いようがなく、さらには重要な情報を善良な姉が漏洩させてしまっていたことが明らかになった。
姉思いの妹の処刑を命じる宰相の息子。
自分の命と引き換えに許しを請い咽び泣く善良な姉。
自分の罪を認め姉の無実を叫ぶ姉思いの妹。
宰相の息子はため息をついて二人を引き離した。
彼の野望の成就はすぐそこまで迫っていた。
その野望とはーー彼自身の母国の解放であった。
投獄された妹を侵略国に残し、善良な姉は急遽、別の被支配国に移されることになった。
程の良い追放であろうとハンカチを濡らす使用人。
たった一人で送られた先に待っていたのは、足腰の悪い老婆と、目つきの悪い無口な少年、まだ年若い下女2人と壮年の下男1人しかいない屋敷だった。
一向に心を開かない老婆と少年、よそよそしい従者。
自身がその世話を焼きながらなんとか暮らしている最中、騒ついた街に出た善良な姉の耳に恐るべき報せが飛び込んできた。
侵略国を舞台にした、報復。戦争が起きていていた。
それも想定出来なかったことに、敗走しているのは侵略国側らしいと言うのだ。
自分の力ではどうすることもできない善良な姉。自分の家族や友達、優しくしてくれた使用人、そして何より、どこか心の中に優しさを持っていた冷徹な夫。大切な人達の無事を祈り、敗走してきた人々を無差別に匿いながら、来ない夫からの報せを待つ。
侵略国に上がった火の手が鎮火したとの報せが街に着いた頃、一人の男性が屋敷を訪ねてきた。
「父上!」
少年が駆け寄り抱きついたのは、善良な姉の夫、侵略国の宰相の息子であった。
「母上と兄上の仇をとってくださったのですね!」
宰相の息子は、侵略国に妻子を弑された時からそのつもりであった。
善良な姉と姉思いの妹が互いを救おうと泣くまでは。
侵略国での地位を築き自国を買い戻そうとした下地を全て投げ打って、内部からの鋭い一撃を加える事を選んだのは、善良な姉の影響だ。
そこに賛同したものが想定以上に多かった為の勝利であり、実際には勝算はあまりなかった。
それでも今生きて実家に帰り息子を抱きしめることが出来た幸運を思わずにはいられない。
宰相の息子は世間から隠し守り通した息子をもう一度強く抱きしめた。
善良な姉は知る由もなかったが、妹と同じく処刑の命令が出ていた自分を隠したのもまた、宰相の息子の独断であった。
彼女は既に、彼の宝である息子、彼の愛した妻の母親に次ぐ、宝物になっていたのである。
ついに夢にまで見た父との暮らしが始まる。
そう信じて疑わない少年に告げるには酷な事だったろう。
彼は母国の指導者に祭り上げられようとしており、またそれをこなせる人物は実際に彼を置いて他になかった。
不安定な情勢の中母国を立て直し率いるには彼は忙しすぎ、宝である少年を表舞台に連れてくるには危険すぎた。
善良な姉は悲しむ少年を慰め慈しみ育てる。
懐かしい自国や大切な人々とは結局会うことは叶わないままに、ただひたすらに少年やその祖母、屋敷に居着いてしまった人々を癒していた。
幾度目かの春がやって来た。
久しぶりに夫に会った善良な姉はハッとした。
また出会う前の冷徹さで覆い隠された男に戻ってしまっていたからだ。
「帰ってきてください」
涙とともに溢れたのはそんな言葉だった。
貴方を必要とする人達から、貴方を大切にしたいあの子の元へ。どうぞ帰ってきてください。
男は善良な姉を見つめて懐かしく思い出した。
謀反を起こしてまで守りたかった物は何だったのかを。
自分が大切な人の側を離れて過ごした時の不甲斐なさに、彼は初めて善良な姉に弱気を漏らした。
善良な姉はただ、そんな男の背をそっと撫でるのであった。
男が帰ってきた時、目つきの悪かった少年は闊達な青年になっていた。
彼が善良な姉に抱く気持ちに、男は直ぐに気がついた。
善良な姉が18歳で男の所へ来てから10年が経とうとしていた。
男は45歳、青年は18歳。
「お前を自由にしてやろう」
男は善良な姉に言った。
隠しようもなく男の胸の奥がチクリと冷える。離れていても、善良な娘を心の支えにしていたことに今更ながら気づく。それと同時に、何故もっと早くそうしてやれなかったのだろうという後悔が押し寄せて、男は妻の顔を見ることができなかった。
「自由に?」
善良な姉は小さく繰り返した。
側で聞いていた青年は、父の意図を感じ取ってなお、迂闊には動けないでいた。
母のようであり、姉のようであり、友のようであった、父の後嫁。
そして心から恋しく思う女性である。
父との結婚が清いものであったことは、ここ8年一度も父が帰らなかったこと、一日たりとも離れて暮らさなかったことから明らかである。
「もし叶うなら…私の家族に会いたいわ」
善良な姉は小さな声で言った。
「連れて行こう。国に帰るがいい」
男は約束した。
善良な姉はパッと顔を上げて男を見つめた。
青年もハッとして二人を見ている。
善良な姉は8年前、男が妹を逃したと教えてくれた事を考えていた。
妹は、兄は、父母は。みんな生き延びているだろうか。
国へ帰る道はとても一人では辿れない。帰っても身を守る術がない。そんな中で生きているかもわからない家族を探すのはきっと容易ではないだろう。
「国へ…私はもう、不要になりましたか?」
善良な姉は自分の言葉に驚いたように瞬いた。その拍子に涙の雫が一筋流れ落ちた。
よく考えれば、男が自分を必要とした事など無かったと思い当たってしまったのだ。
「心配要らない。私が貴方を守る」
しっかりした声で請け合ったのは青年だった。若い決意は本物でも、この家を出たことがなければ実戦経験もない息子では二人とも無駄死にするだろうことが、男にはよく分かっていた。
「お前が一人前になったら、そうすればいい」
男は善良な姉を祖国の安全な場所まで送り届けるつもりであった。
「お待ちください」
今度は幾分しっかりした声で、善良な姉は意思を示そうとしていた。
「私に自由をくださると言うのなら…貴方様のお側に置いてくださいませんか」
青年は驚きに目を見張った。
今善良な姉が言った言葉は、夢に見るほどに欲しい言葉であった。
それが彼の目の前で、……彼の父に向けて放たれているのだ。
男は青年どころではなく動揺した。固まってしまった表情はいつもに増して険しく、根に染み付いた疑い深さが男の胸に警鐘を響かせていた。
張り詰めた空気が部屋に充満する。
沈黙を破ったのは、最初から調度品のようにそこにいた老婆だった。
「この娘が必要なのだろう?」
青年は祖母を振り返った。それ以上何も言わないで欲しいと、取り返しのつかない決定が降るのを恐れて。
老婆はそんな孫の気持ちが痛いほどに分かった。可愛い娘の忘れ形見の願いなら何だって聞いてやりたい。
それでも老婆もまた善良であった。
「幸せにしておやり。私の娘を幸せにしてくれたように。あなたは…よく、やったんだよ」
善良な姉は心のこもった礼をして感謝の気持ちを表した。
そして依然固まっている男に向き直った。
家事で荒れた手を男に差し出す。
その様はまるで、愛を請う紳士が淑女を舞踏に誘うかのようだった。
その指先を伝って、男はようやく娘の顔を見た。
自分に差し出されたものが信じられずにいるのだ。
男には彼女に好かれるような自信が一欠片もなかった。
時が経つのが遅く感じられる。
少しずつ、善良な娘の顔が不安に彩られていく。
同じような表情を付き合わせる2人を見て、青年は大袈裟なため息をついた。
2人が揃うところを8年ぶりに見たが、互いを想いあっている事など一目瞭然だった。
おまけに、お互いに相手の気持ちを信じられずにいる。
それが自分の好いた女性と実の父親なのだから、彼はもうやり切れなかった。
最初で最後だろう。
青年はずかずかと善良な姉に近づいて、無理矢理その頬に口付けた。
言葉もなく驚く善良な姉。
「父上とお幸せに、母上」
これ以上この場に居られるかと部屋を出て行った青年。老婆は笑いを抑えながらよろよろと立ち上がり、ごゆっくり、と部屋を後にした。
「…母と呼ばれたのは初めてなの」
頬に手を当て、善良な娘は男を見上げた。
「母として…あれの側にいてくれるか」
いつになく弱気な男の逃げだった。
息子にとって不本意であろうことは百も承知なのだから。
善良な娘はくすりと笑った。
「あの子は私の家族です。大切な家族。貴方がくださった…図々しくもそう思っております」
「私は…?」
男にそんな拙い問いを言わせたのは嫉妬心か憧情か。
「貴方は…貴方の妻でいさせてくださいますか?」
男はぎこちない動作で善良な姉を自分の胸に引き寄せた。
善良な姉もまた、おそるおそる男の背に両腕を回した。
かつて支配国にて交わったこともある2人の、なんとも初心な抱擁であった。
冷酷で策略家なのは母国を侵略され妻子を失ったから。彼の希望は妻の実家に隠した息子と、祖国の復活でした。
そのためには国や人を騙してでものし上がる必要があったのでしょう。
革命の引き金を引き祖国再生を主導する手腕はあれど、愛しい人に会いに行ってやることも出来ない不器用な愛情の持ち主でしたが、これからは善良な娘が彼を温め癒してくれることでしょう。