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悩ましいプレゼント

 目が覚めて思わず跳ね起きた。じっとり汗ばむ肌と粗い呼吸。嫌な夢を見た。何の夢だったのかもう忘れてる。でも……たぶん愛の夢。罪悪感とか後悔とか、そんな想いだけが心を締め付けて息が詰まる。

 ちらりと時計を見ればいつも起きる時間より1時間早い。でも……二度寝する勇気がない。夢の続きを見るのが怖いから。こんな重苦しい気持ちを抱えて、この家に居続けるのも気が滅入る。この家には愛との想い出の残滓が残ってて、自分は今一人なんだって思い知らされて……。早くこの家から出たい。今日は早めに仕事に行こう。


 いつもの通勤電車。いつもはスマホでネットニュースをチェックしたり、仕事の進行を頭の中で確認したりしてたが……。どうにも重苦しい気分が体に纏い付いたままで、何も考える気になれない。嫌な一日になりそうだ。溜息一つ零し、会社の最寄り駅について改札をくぐった。

 ふいに眠気が襲ってきて、視界が揺れる。昨日も終電帰りで寝るのが遅かったのに、朝早く目が覚めて睡眠不足だったからかもしれない。壁に寄りかかって深呼吸。この程度の睡眠不足でへこたれるなんて年をとったな……と自嘲の笑みを浮かべた、その時。


「狩野さん! 大丈夫ですか!」


 気づけば真っ青な顔をした古谷さんがいた。小柄な体で精一杯背伸びをして、私の額に手を当てる。「熱はないですね。どこが具合悪いんですか?」と凄く慌ててた姿が、とても必死で真剣で。

 ああ……こんなに一生懸命、私の体調を心配してくれてる人がいるんだって思ったら、その優しさが嬉しくて、さっきまで体にまとわりついていた重苦しい空気が突然消えた。


「大丈夫だよ、古谷さん。心配してくれてありがとう。ちょっと睡眠不足なだけだから」


 いつもの笑顔で答えたのに、じとっと睨まれた。ああ……嘘をついて体調不良を隠してると思われてる。本当にただの睡眠不足なんだが……自分の日頃の行いが悪いから自業自得だな。


「本当にただの睡眠不足だから。会社に行こう」


 そう言ってからさっさと歩き出す。疑われても受け流していつも通りの振りをしてれば誤摩化せるだろう。そう思ったのだが……。ふいに腕を掴まれて驚く。


「狩野さんが倒れるといけませんから、会社まで支えます」


 凄く真剣な顔でそう君が言ってくれた。それが本当に嬉しくて、思わず作り物じゃない笑みがこぼれる。そのせいだろう。やっと君の怖い顔が緩んだね。

 そのまま腕を掴まれて会社まで歩く。身長差のせいで、あまり支えになってないというのに、そんな事ちっとも気づかず、一生懸命な君の姿を見てると微笑ましい。

 いつでも一生懸命で必死でお節介な君を見てると、私は今一人じゃないんだって思い知らされて、それだけでとても幸せな気持ちになるから。


「そういえば……古谷さん今日はいつもより早いよね? どうしたの?」

「あ……えっと……。本当は、狩野さんより早く来て、驚かせるつもりだったんですけど……」


 会社についてから君が妙な笑みを浮かべた。なんだか嫌な予感がする。


「はい、狩野さん。プレゼントです」


 さしだされた袋に驚く。今日は誕生日でもなんでもない、ごく普通の日で何かをもらう理由が思いつかない。そもそも古谷さんにプレゼントをもらうのは初めてだ。不意打ちで驚いたけど、とても嬉しくて中身を確認する。

 …………思わず袋を閉じて顔をそらした。古谷さんの顔をチラ見したら、ニヤニヤ笑顔でこちらを見てる。


「狩野さん、トトロ好きですよね」


 凄く良い笑顔でそう言われて否定できない。そう……プレゼントはトトロのマグカップだった。嬉しい。とても嬉しい。トトロが好きなのは事実だし、好きな物を君が覚えていてくれて、こうしてプレゼントまでしてくれた。非常に嬉しいけれど……そのニヤニヤ笑顔は辞めて欲しい。恥ずかしくていたたまれない。

 思わず無言で背を向けた。我ながら馬鹿だと思うけど、揶揄われてニヤニヤ笑われるのは、男として、12歳も年上として、上司として、プライドが許さない。

 その時小さな溜息が聞こえて振り向いた。君がしょんぼり落ち込んで悲しい目をしている。


「……あの……迷惑でしたか? 揶揄うみたいですみません。でも……狩野さんに喜んでもらいたいな……って。そういう気持ちもあるんですよ」


 本当に馬鹿だな。好きな女の子にプレゼントをもらったのに、お礼も言わずに無言で背を向けるなんて。君は私のつまらないプライドをいつも壊してくれるね。自然と頬が緩んで笑う。


「ごめんね、古谷さん。ちょっとびっくりしてしまって。でもとても嬉しいよ。ありがとう」


 ぱーっと君が笑顔になってほっとした。何食わぬ顔でそのまま自分のデスクに座ってマグカップを眺める。これ……どうしよう。会社で使うの期待されてるのかもしれないが、今後ずっとあのニヤニヤ笑顔で笑われるのは正直勘弁して欲しい。

 デスクの上に置いたマグカップ。改めて眺めて見るとトトロだけでなく、ネコバスも書かれてて、ああ……私が好きな物をと君が考えてくれたんだな……。そんなささやかな気持ちが、嬉しくて思わず笑みがこぼれた。その時ふと視線を感じて振り向く。

 伊瀬谷君のデスクを掃除しながら、君がニヤニヤ笑いでこちらを見ている。思わずさっとマグカップを鞄の中にしまった。うん、これは家に持ち帰って大切に使おう。会社で使うのはやっぱり無理だ。


 その後しれっと仕事を始めて伊瀬谷君が出勤した。伊瀬谷君が古谷さんからプレゼントをもらったって、聞いた事ないし、もしマグカップの事知ったら拗ねるだろうか? 彼も以前より大人になったし、仕事に支障が出る事はないだろうけど……。面倒な事になりそうだし隠しておこう。

 私だけならバレない自信はある。私だけなら……仕事を開始して少したった頃、伊瀬谷君が首を傾げて言った。


「古谷。何かあったか? 機嫌良さそうにみえたんだが……」


 古谷さんは本当にわかりやすいから。非常に鈍い伊瀬谷君でも簡単に気づいてしまう。君はちょっと慌てたね。今更私にだけプレゼントをした事、伊瀬谷君にバレたら不味いって気がついたのかな?


「古谷さん、そのTシャツ初めて見るけど、新しく買ったのかな? 可愛いデザインだね」

「あ……そうなんです。昨日見つけて、可愛くて思わず買って、嬉しくて嬉しくて……」


 私の助け舟に飛びついて君は誤摩化した。そのTシャツ前にも見かけたし、買ったばかりというのは嘘なはずだけど、伊瀬谷君は気づかずに、簡単に納得して仕事に戻った。ああ……本当に、伊瀬谷君のこういう鈍さは助かる。そういうところがとても可愛げがあるな。


 ふっと思い出す。愛が家を出て行った時、死んだと知った時、確実にあの頃の自分はおかしくなっていたと思う。必死に取り繕った所で、伊瀬谷君以外の人なら一緒に仕事してたら絶対に気づく。伊瀬谷君だってきっと気づいてたかもしれないけど、何も変わらず接して仕事をしてくれた。

 プライベートの時間が狂っていっても、職場では変わらない「日常」が護られてた。それがどれだけ救いだったか、最近しみじみわかってきた。


 そういう恩人でもある伊瀬谷君に、嘘言って騙して、罪悪感の欠片もない自分が、我ながら性格悪いなと思いつつ仕事に戻った。


「あ、篠原さん、お疲れさまです。お久しぶりですね」

「久しぶりね。古谷さん。元気そうで……何か機嫌が良さそう」


 忘れてた。今日篠原さんと打ち合わせだった事。不味い。鋭い彼女には確実にバレるだろう。なぜだか知らないが、昔から彼女は私の事を嫌っている感じがする。あまり弱みを見せたくない。


「古谷さん、ちょっと頼みたい仕事があるんだけど……」


 そう言って呼び出して篠原さんと引き離す。打ち合わせは伊瀬谷君とするんだし、仕事を頼んでおいたら、古谷さんもそちらに集中して挙動不審にはならないだろう。本当は頼みたい仕事なんてなかったけど、私がやるつもりだったデザインを頼んだ。ちょっと古谷さんには難易度高めかな……と思ったけど、本人は凄いやる気だ。


「こんな仕事任せてもらえる程、私成長しましたか? 凄い嬉しいです」


 喜ばせて悪いけど、ただ単に自分の弱みを見せるのが厭で、仕事押し付けただけなんだよね。まあ……本人が喜んでるならいいか。

 そのまま何事も無く打ち合わせが終わって、篠原さんが帰ろうとした……その時。


「いけない……忘れてたわ。差し入れがあるの」

「わあ……美味しそうなチョコレート」

「これ、最近話題の奴だな。高くないか? 篠原、そんなに無理しなくても……」

「大丈夫。私ももらったんだけど、今ダイエット中で食べたくなくて」


 チョコレートの話題で盛り上がってる三人が少しだけ羨ましい。一人だけ取り残された様な疎外感があって。ちらっと篠原さんがこちらを見て言った。


「すみません。いつも狩野さんにだけ差し入れなくて」

「いえ……気にしないでください。差し入れを頂くだけでも申し訳ないのに。今度こちらからも何か差し入れしますね」


 たぶん……私にだけ差し入れ無しなのはわざとだと思う。彼女なら別で差し入れを用意する程度の気遣いは簡単なはずだ。やっぱり理由はわからないけど嫌われてるな。まあ……仕事に支障はないし、別にいいのだけど。

 チョコレートの話題で盛り上がってる、古谷さんと伊瀬谷君が気づかない程度に、ぼそりと篠原さんが言った。


「何か伊瀬谷君に後ろめたい事でもあるんですか? 古谷さんも狩野さんも様子がおかしいけれど……まさか二人で何かあったとか……」


 やっぱり鋭いな。バレたか。ちょっと睨まれてるのは、伊瀬谷君びいきの篠原さんだから。嘘を言っても通用しなさそうだ。ここは正直に話した方がかえっていいだろう。


「古谷さんにちょっとしたプレゼントをもらっただけですよ。でも……私にだけってなるとね」


 それだけで篠原さんには通じた。少しだけじっと私を見て、たぶん……嘘じゃないかと疑ったんだろう。その後にこっと笑った。


「そろそろ帰るわね。お疲れさま」

「お疲れさまでした。差し入れありがとうございます。篠原さん」


 彼女の後ろ姿が「伊瀬谷君を困らせたら許さないわよ」と、言ってる気がした。プレゼントをもらっただけで、悪い事をしたわけでもないのに、なんでこんなに怒られないといけないんだか。理不尽だけど仕方が無い。ふっと溜息を零して気持ちを切り替えた。


 昨日残業して仕事を終わらせた分、今日は余裕があるし定時で帰れるだろう。このままいつも通りに仕事して、いつも通りに終わる……そう思ってたけど、また忘れてた。

 チャイムの音がなって気がつく。今日は入稿だった。古谷さんが出迎えようと椅子を立ち上がりかけて、その前に先回りした。


「今日は私が出るよ。たまには私も米沢君に顔あわせないとね」


 原稿をさっと取り上げて玄関に向かう。うっかり古谷さんから米沢君にプレゼントの件がもれたら……情報通な彼の事だ。業界内全域に広まって噂を流されそうだ。それは避けたい。


「日鈴印刷の営業の米沢です。原稿を受け取りにきました……って、あれ? 狩野さん? 珍しいですね。僕に会いたくてたまらなくなった感じですか? ダメですよ……僕、伊瀬谷君一筋なんで」


 相変わらず調子の良い軽口を叩く。笑ってるけど、内心疑ってかかってるだろうな。こっちから切り込んで誤摩化すか。


「伊瀬谷君一筋? あれ……古谷さんのお姉さんと仲が良いって聞いてるけど?」


 動揺して誤摩化されてくれないかと思ったが、けろっと笑って惚気られた。


「仲良いですよ。最近よくメールくれるんですよね。昨日もメールくれて……」


 そこで二人に聞こえないくらいの小声で言った。


「この前の日曜日に、狩野さんにあげるプレゼントを買いに行くから、付合ってくれって頼まれたって。狩野さんがどんな反応をするのか、面白そうだから反応探って教えてって言われました」


 古谷姉妹は本当に仲が良いな。良過ぎだ。私のプレゼント選びにわざわざ姉妹で出かけるなんて。思わず笑顔が引きつる。米沢君が悪魔の様な笑みを浮かべた。お姉さんも面白そうだからって……古谷さんのお姉さんと米沢君。本当に似た者同士だよね。

 既に米沢君にバレてるなら、今更誤摩化す意味も無い。こちらも小声で答えた。


「嬉しいけど……伊瀬谷君にバレたら面倒だから……」


 それだけで米沢君にも通じたようだ。「内緒にしておくんで……貸し1で」と小声で付け足された。本当に……こういう計算高さは困るな。たかがこの程度の貸しで何を要求されるのか……考えたくない。

 入稿が終わって少ししたら定時だ。結局最後まで伊瀬谷君は何も気づかずに一日が終わった。


 家に帰る電車の中で、改めてマグカップのパッケージを取り出して眺める。好きな女の子からのプレゼント。素直に喜びたいのだけど……これのせいで、仕事は忙しくなかったのに、凄い疲れる一日だったな。

 でも……私のプレゼントを買う為にって、わざわざ休日にでかけてくれたのか……と想像しただけでとても嬉しい。じっとマグカップを眺めていたら、頭の中でトトロのアニメが過ぎ、気づくと小声でトトロの歌を口ずさんでいた。

 視線を感じた気がして車内を見渡した。しまった……30過ぎた男が、トトロのマグカップを見て、嬉しそうに歌うなんてもの凄い恥だ。次の駅でそそくさと降りて隣の車両に移動するまでいたたまれなかった。


「ただいま……」


 誰もいない家なのに、つい言ってしまう。そして返事は永遠に帰って来ないんだって、毎回気づかされて気が滅入る。いつもの事だ。しかたがない。

 リビングテーブルにマグカップを取り出して、じっと眺めた。

 初めてテレビでトトロを見て感動した。あまりに感動しすぎて母親に我儘を言ってDVDを買ってもらって、何度も繰り返し見て、真似してイラストを書いて……そんなたわいもない子供の頃の記憶が、とても幸せだったな……と思い出す。

 その後もう一つ思い出した。そうだ……愛と付き合い始めた頃、同じ様にトトロの事で揶揄われて、ネコバスのぬいぐるみをプレゼントされたな。男がぬいぐるみなんて……って私が文句言って拗ねて、それを愛に笑われて……。

 ああ……ずっと愛への罪悪感で、愛の事を思い出すだけで憂鬱だったけど、こんなに幸せな記憶があった事忘れてた。あのぬいぐるみは愛が家を出て行く時に処分されてしまって、もう残ってないけど、私の記憶の中に残ってたじゃないか。

 罪悪感で愛の記憶を見て見ぬ振りするのは、愛に対して本当に悪い事をしてるな。こんなに幸せだった記憶もあるのに。


 たった一人の家。ずっと冷えきって嫌な空気だったけど、マグカップ一つがまるで灯りのように、輝いて見える。それが無性に嬉しい。


「……」


 思わずトトロの歌を口ずさんだけど、ここには誰もいないし、恥だと思う必要もない。

 古谷さん。とても大切な宝物をありがとう。

 狩野さんを困らせてみたくなったので書きました。余裕のある大人の男が困る姿が結構好きです。

 それに……完璧すぎる狩野さんって可愛げが無いので、少しだけ可愛げを見せて欲しいな……と、思って。


 狩野さんが伴奏無しで歌える唯一の歌はトトロの歌だけ。

 そもそも音痴がコンプレックスなので、自分から歌を歌う事はほぼないので、マイフェイバリットなトトロは例外。

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