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君を想う

本編中の狩野さんの心境を徒然と。

時系列通りに並んでいますが、解りにくいので本編とあわせてお楽しみいただくのをお勧め致します。

狩野さん株の急上昇か、急降下か。

とても長い話なので、時間がある時にゆっくりご覧ください。

『春になったけど、まだちょっと肌寒いわね。また風邪を引いてたりしてない?』


 煙草を吸いながら、妻からのメールを見る。それはいつもの癖だった。


『元気だよ。愛は大丈夫? もうじき新入社員が入って来るんだ。無事長続きするといいんだけど』


 そう心の中でメールを打って送信した。なぜか、携帯に打ち込んでも戻って来てしまうから。だからいつも返事は心の中だけで。




 始めは少し迷った。女の子じゃあ、体力的にも精神的にも、この仕事は持たないんじゃないかって。それに伊勢崎君の事もあるし。

 でもこんな悪い待遇の職場に来るという、奇特な子はそうそういないし、ポートフォリオの出来もよかった。私の試す言葉にも、焦りつつも頼もしく返答するのは根性がある。雇ってみよう。そう決めた。


 長続きして欲しい……そう思ってたのに、伊勢崎の馬鹿が。

 いきなり怒鳴りつけてくれて、これでギスギスして辞められたらどうする。一応謝れって注意して、謝罪の機会を作ったけれど、20歳の女の子だし、一度苦手意識を持ったら難しいかな。

 だから2人があっさり仲直りして戻って来た時はほっとした。年の割にしっかりした子だと、感心したよ。大変だろうに、弱音も吐かずに仕事に食らいついてくるし。




 いつもの様に煙草休憩に行ってメールを見る。


『今日は良い天気ね。桜も綺麗よ。貴方は忙しくて見てる暇なんてないでしょうけど』

『今日は私も桜を見たよ。新入社員の女の子に見せてあげたんだ。びっくりしてて面白かった。来年は愛と一緒に見に行きたいね』


 今日の桜を見ていたら、愛を想いだした。まるで一緒に見ていた様な……そんな気がして、首を横に振ってその妄想を振り落とした。代わりに、新入社員が女の子って知ったら、君は少しでも慌ててくれないかな? そんな事を想った。




 目覚めは最悪だった。またやらかした。二日酔いで体が辛い。財布の中身を確認したら、領収書の金額が予想以上に高くて溜息が出る。

 これは……古谷さんにもだいぶ飲ませたな。アルハラ上司なんてやってられるかって……辞められたらどうしようか。何気なく携帯を手にとってメールを見る。


『ちゃんと食べてるの? お酒飲みすぎてない? いつまでも若くないんだから、気をつけてね』


 君はよく私を見てるね。他の人間なら体調不良だってごまかせるのに、君だけはすぐに気がつく。


『食べてるよ。そろそろ無理が効かなくなってきたし、体調管理には注意してる』


 さて……古谷さんにはどうやって謝れば良いか。何かご機嫌を取って、汚名返上しないとな。




 仕事の物覚えが良いし、ハードワークについてくるし、なかなか見所のある新人だ。ただ……やっぱり20歳の女の子だな。篠原さんの事でモヤモヤしたり、ちょっと肩を抱いただけで、真っ赤になってデート気分で浮かれたり。見てて非常に解りやすい。

 ただ……古谷さん、浮かれすぎだよ。辞められたら困るから、多少のサービスはするけど、私のプライバシーにずけずけと入り込まないで欲しいな。私が嫌がってる事に君は気づいてもいないんだろう。


「そういえば……古谷さん実家暮らしだったよね? ご両親と……ご兄弟とかいるのかな?」


 愛の話をしたくなくて、話題をそらすつもりで、世間話をしただけなのに、解りやすく動揺していた。ああ……お姉さんの話は君にとっての地雷なのか。

 そこにつけ込んだ。他人のプライバシーを覗き込むと、しっぺ返しをくらうんだよ。

 嫌がってるのはわかってたけど、意地悪く質問を重ねる。どんどん青ざめて行く姿を見て、やり過ぎたかな……と思ったから、伊勢崎君の話題に乗った。

 ちょっと薬が効きすぎたかもしれないけど、勉強になったよね? もう……私のテリトリーに入って来ないでくれ。




 目が覚めて不味い……と思った。熱い、だるい、重い。完全に風邪を引いた。久しぶりだ。枕元の携帯を手に取ってメールを確認する。


『もしかして風邪を引いたの? だからちゃんと食べてって、言ったでしょう』

『ごめん。心配させて。すぐに治すから、大丈夫だよ』


 『貴方の大丈夫程、当てにならない物はないわ』そんな愛の声が聞こえる気がした。明日は閉め切りだし、休んでる余裕もない。大丈夫。あの2人に気づかせずに仕事くらいできるさ。

 そう……思ってたのに。


「狩野さん、失礼します」


 額に触れられてびっくりした。まさか出会って1ヶ月にも満たない子に、バレるとは思わなかった。まいったな……。今まで愛以外の人間に体調不良がバレた事なんてなかったのに。その上叱られた。完全にお手上げだ。

 病院に行って、薬を飲んで、ベットに横になる。具合が悪い時、一人だと急に心細くなる。愛は今日も仕事で遅いかな……。

 なかなか寝付けない中、ふと気がついた。そういえば……愛以外の女性に叱られるのはどれくらいぶりだろう。しかも一回りも下の女の子に。私もまだまだだな。自嘲の笑みを浮かべた頃に薬が効いてきたのか、眠りの中へと落ちて行った。


 翌日。朝、まだ少しふらつくけど、熱もだいぶ冷めたし大丈夫だろう。愛はまだ寝てる時間だな。起こしたら悪い。


「行って来ます」


 扉に向かって小さく呟いて出かけた。

 出勤して軽く仕事に目を通したら、予想以上に仕事の進みが早い。全部チェックはできないが、随分頑張ったものだ。伊勢崎君も先輩としての意地を見せたんだろうが、古谷さんが予想外な程に仕事ができた事が大きい。これなら簡単には辞めないだろう。そう思ったらほっとした。




 古谷さんが予想以上に良い子で、頼もしくて、安心しすぎて油断した。たまにはご機嫌取りに……と、軽い気分で食事をごちそうしたら、またプライベートに踏み込まれた。

 この前痛い目みただろうに。懲りない子だな。もっとキツいお灸が必要だろうか。


「大丈夫。家に帰ってもいないから。別居中だし」


 嘘だ。今日は愛も家にいるはず。帰ったら「お帰り」って出迎えてくれる。別居中だなんて嘘を言えば怯んで、もうこれ以上何も言わないだろう。そう思ったのに……。

 煙草を勧められ、油断して吸っていたら、また踏み込まれた。


「最近はメールしかしてないね。たぶん……そのうち離婚するんじゃないかな」


 嘘だ。離婚する気なんてない。そんな話は余所の家の事さ。私達には関係ない。

 重い話にどんな反応を返すのかと様子を見たら、いきなり身の上話で驚く。でも聞いてるうちにわかってきた。私の境遇と自分の境遇を重ねて、同情したんだろう。

 気持ちはわからなくはないけど……君と私とでは、状況が全然違うんだよ。君は……まだやり直せるじゃないか。


「ずっと会わずにメールだけ見てるうちに、メールの向こうに人がいる事を忘れてしまうね」


 そうだ……メールの向こうに愛はいる。私は忘れていない。駅へと帰る途中、古谷さんに手を触れられて思わず握り返した。こうして誰かの手を握るだなんてどれくらいぶりだろう。この手は愛じゃないから、無駄なのに。

 別れ際、古谷さんはまた余計な事を言った。会うのかと問われて、嘘を重ねる。

 愛に会いたい。溜まらない程に。でも会えない。会いに行く勇気がない……と考えかけて思考を振り払う。そうか……別居中だったか。忘れてた。でも仕方がないじゃないか。住んでる場所すら教えてもらえないんだし。だから会えないんだ。




 それからしばらく、仕事は順調だった。初めての修羅場に文句も言わずについてきた古谷さんも凄い。これは掘り出し物をみつけたもんだと喜ぶ。

 ただ……あまりに良い子すぎて、篠原さんの懸念が痛い。確かに……既に伊瀬谷君は古谷さんを気に入っている。多分本人はまだ無意識だと思うけど。あの人見知りが随分気を許したものだ。もし……2人が付合い始めたら……そう考えると頭が痛い。


 古谷さんが伯母さん経由で仕事を持ってきたのは予想外で。手強い相手だったが満足してもらえ、新しい取引先が増えて助かる。少しはうちの会社の未来も明るくなったかもしれない。


『最近のメール。機嫌がよさそうね。何かあったの?』

『新入社員が有望でね。仕事も順調なんだ。もう少し余裕ができたら、愛に会いたい。時間が欲しい』


 会いたいってメールをしたのは初めてだ。でも返事はない。わかってた。だから会いたいなんて言うのが怖かった。なんでこんなメールをしてしまったんだろう。煙と一緒に溜息を吐き出した。




 古谷さんには何かお礼をしないといけないな。好きな物を奢るって言ってるのに、私に気をつかってか、野菜レストランだなんて。愛と同じ事を言う。辞めてくれ、君と愛は全然違うんだから。

 慌てて飲み過ぎて、少し酔ったかもしれない。余計な事を言ってしまった。古谷さんの事情に踏み込んだら……自分もしっぺ返しをくらうって、わかってたはずなのに。気になって。

 案の定……踏み込まれて……つい本音を口にする。ああ……こんな一回りも下の女の子に弱みを見せるだなんてどうかしてる。

 休日一緒に……って呆れた。一人で寂しいのが可哀想って……同情のつもりか? とても寂しい。愛に会えなくて、たった一人で過ごす休日なんていらないとも思う。でもね、古谷さん。君は愛の代用にはならないんだ。君の優しさは酷く残酷だね。

 そんな話をした直後に、お姉さんと出会った時には驚いた。初対面からだいぶ嫌われた物だ。私のせいで二人が喧嘩をしてるのを見て焦った。

 だから……月曜日、姉と仲直りしたと聞いて、ほっとした。私のおかげだと言われてとても嬉しい。私の心の奥底にあった罪悪感が、ほんのわずかに軽くなった……気がした。

 古谷さん達が上手く行ったなら……私と愛も……。そう思いかけて辞めた。古谷さん、応援する……と言ってくれたその気持ち。嬉しいけど……もう、手遅れなんだ。




 三連休明け。2人の様子が違うのはすぐにわかった。恋が始まる空気がする。嬉しそうに2人してミュールをチラ見して……祝福しなきゃいけないんだろうけど、仕事に支障がでたら困るな。少しだけイライラして、なぜイライラするのかわからなかった。


『なんだか不機嫌ね。仕事が上手く行ってないの?』

『大丈夫だよ。仕事も順調だし、私も元気だ』


 そう……心の中でメールを打って、送信しようとして躊躇った。なぜ躊躇うのか……わからない。携帯をしまって煙草を灰皿にねじ込んだ。もう1本吸いたくなったけど我慢して会社に戻る。

 エレベーターの中で愛の事を考えるのを辞め、代わりに古谷さん達の事を考えた。そうだ。何も変わらない。2人が例え付合ったとしても、私が大人な対応をすればいいだけなんだから。




 そう……大人の対応しなきゃいけないって、思ったはずなのに。自分の弱さに情けなくなる。

 決して酔っぱらってはいけない取引先との接待は気を使ったし、慌てた古谷さんが目の前で怪我をするし、終電を無くして怪我をした女の子を放って帰れないし、ホテルに泊まれって言ってもいう事聞かないし。

 しかも……お金の事を繰り返し突っ込まれるとかなり痛い。まともに給料を払ってない身としては、後ろめたくて仕方がない。だいぶ酔って、いつもより感情的になってたし、自棄になってた。冗談を言って、怯ませて、追い返せ……そう思ったのに。

 自分の心配より、妻が帰ってきたら……と、私の心配をして。まったく君ってつくづくお人好しだね。

 「帰ってくる事はあり得ない」そう断言して「もう死んでしまったから」……そう心の中で付け足した。見て見ぬ振りをし続けた現実を目の前に突きつけられて、激しく心が乱れる。そうだ……愛は死んでしまったのだ。どうしてこんな大切な事を忘れていたんだろう。

 気づいてしまったら苦しくて、一刻も早く一人になりたくて、背を向けて立ち去ろうとしたのに、袖を引かれてうっかり振り向いてしまった。


「私……狩野さんを信用してるので大丈夫です」


 本気で私を信頼している目に目眩がした。君はどれだけ私が嘘つきかも知らないのに、どうしてそこまで信用できるのか。呆れるな。でも……そのまっすぐな目に、わずかに救われた。愛はもうこの世界にいないんだって気づいたら、無性に人恋しくて、もう少し一緒にいたいと思ってしまった。

 愛の事を思い出して動揺しすぎて、取り繕うのを忘れてしまったかもしれない。帰りのタクシーで、余計な事をぺらぺらとしゃべった。久しぶりに愛の話を誰かにして、少しだけ心が軽くなって、そしてそんな自分が嫌になる。いつのまに愛の事を重荷に感じるようになったのか。

 自分で部屋に連れ込んだのに、すぐに後悔する。

 なんでこんなに古谷さんの危機管理能力が低いのか。呆れる物がある。私を信用しているからって油断し過ぎだ。

 一人暮らしの男の家に来て、自分から抱き付くとか……。君、私も男だって忘れてないかな? 君は知らない。愛が死んでる事を。私が既婚者だと思って油断してる君の隙につけ込む。そんな卑怯な誘惑に一瞬心を奪われた。

 でも上司で12歳も年上で、これで下手に手出ししたらセクハラでこっちが完璧加害者だ。そんな事できるわけがない……そう思って耐えた。古谷さんのお姉さんに初対面から敵意をむき出しにされた事を思い出したら……手を出せないな……と、自制ができた。


 だけど……愛が出て行ってから、初めて家に人が来た。この部屋で、誰かと話して、普通に食事して、一緒に皿を洗って。そんな当たり前の日常を思い出したら、涙が出そうな程せつない。

 一緒に食事に来たら……なんて言われたのが、とても嬉しい。愛のメールを見るのが後ろめたくなる程に。

 私の為に愛が出て行った……そう言われた時、何も知らない癖に、どうしてこんなに君の言葉は私の心を揺さぶるのか……思わず言葉を失った。




 だからかもしれない。野菜を食べろって言われて素直に従った、愛が好きだったアメリカンドックを食べる事を辞めた。少しづつ……愛との距離が離れて行って、その心の隙間に古谷さんが入ってくる。

 ダメだ。馬鹿な事を考えるな。一回りも年下の女の子に振り回されてどうする。それにもう手遅れだ。伊勢崎君と古谷さんは付合うだろう。そこに割り込むなんてできるわけがない。私は……愛の想い出を抱えて生きていけばいい。それでいいんだ。




 米原君も困った人だね。勝手に人のプライベートを調べ上げて、古谷さんのお姉さんに余計な事を言って。

 初めに呼び出された時は、古谷さんを家に泊めた事、怒られるんじゃないかって、緊張したんだけど。まさか……愛の事を言われるとは思わなかった。不意打ちで、取り繕う余裕も無くて、一言だけ本音を漏らした。


「私達みたいに、手遅れになる前に、2人が仲直りしてよかった。とても嬉しいです」


 初対面ではあんなに敵意丸出しだったのに、かなり好意的に扱われて……心のリミットが一つはずれた。

 指輪が歯止めかと聞かれて嘘を重ねる。もう……これはただの結婚指輪とは言えないな。私が愛を忘れたくないという未練の残骸だ。

 でも……確かにこれをつけていると、古谷さんを見つめる事に罪悪感を持つ事もある。



 予想通り、最悪の展開になった。伊勢崎の嫉妬がここまで酷いとは。仕事人間が、仕事に支障をきたす程なんて……重症だ。見ていると古谷さんも振り回されて、腹を立ててる事が解る。

 年下の女の子に気を使わせて、困らせて何やってるんだ伊勢崎。と、怒りたくもなるが、そんな事を言っても喧嘩になるだけだし、伊勢崎君に辞められたら困るし。言えない。

 言えないけど苛立つ気持ちが、どんどんエスカレートしていく。なんでこんなに腹が立つのか……。その答えがわかっていたのに、目をそらして気づかない振りをした。




 電車の中で古谷さんの肩を抱いた時、このまま離したくないな……なんてバカな事を考えた。愛のメールを見る事も減った。今までだったら絶対にしなかったのに、なぜだか指輪の存在を重く感じて指輪を外した。私の目の前でペンダントをプレゼントして「自分の物だ」と主張する伊勢崎に、思わず隠してた苛立ちを表に出した。

 ああ……本当に、最近の自分はどうかしてる。




 目の前で古谷さんが倒れた時、本気で血の気が引いた。また……大切な人を失う気がして。ただの貧血と解っても安心できなくて。そんな状況なのに私に嫉妬する伊勢崎に腹が立って腹が立って……だから我慢できなかった。

 イライラして大人げなく喧嘩した。

 翌朝。無事に古谷さんが元気になって、私達の事を深く心配してくれる、彼女の優しさが心に染みて……思わず理性が飛んだ。

 愛……君以外の女を抱きしめる日が来るなんて、思いもしなかったよ。

 目をそらし、逃げて、自分を騙してきたけど……もう観念するしかないんだね。君は死んで、私は生きて、もう永遠に会う事はできなくて。そうして君との距離が広がって行くうちに、私は新しい出会いを見つけてしまったようだ。

 愛に謝罪をしなきゃいけない。次の命日に会いに行こうか……そう思いつつ、まだ躊躇う自分がいた。




 土曜日。今日、伊瀬谷君と篠原さんが飲みに行くらしい。だから一人で気楽に仕事ができる。2人がよりを戻してくれたら一番楽なのに、そんな事もうありえないだろう。

 煙草を吸いに行って、のんびりしていたら、古谷さんがやってきて驚いた。一目見て何かあったのはわかった。大きな荷物と腫れた頬。親と喧嘩してきたのか……。私は古谷さんの泣き顔に弱い。散々に甘やかして慰めて……それで伊瀬谷なんか振って、私の所に来てくれたりしないかな……なんて思ったり。


 そんな都合良くいくわけはないけれど、伊瀬谷君と鉢会わせるとはね……面倒な事になったもんだ。そういえば……2人で飲むのもひさしぶりだ。最近喧嘩してばかりだし。

 酒が入って口が軽くなったのか、伊勢崎君が本気で怒っていた。この4年2人で上手くやってきたが、ここまで衝突するのは初めてだ。弟の反抗期を見てる気分だ。


「狩野さん。貴方が古谷を好きなのはわかっています。奥さんがいるのに、古谷に手を出す気ですか? 俺は古谷に不倫なんかさせません。だから渡しません」


 ああ……嫉妬だけじゃなくて、そんな想いでいたのか……と、腑に落ちた。仕方がない。伊瀬谷君には愛が死んでいる事を言ってないし。私が悪いんだ。




 だからって……私に見せつける為だけにキスマークをつけるなんて。本気でキレるよ。私だって我慢の限界があるんだ。古谷さんを大切にしていないと憤る気持ちと、伊瀬谷への嫉妬が入り交じって、また理性が飛んだ。


 煙草休憩をしながら古谷さんを待ち伏せして、久しぶりに愛のメールを見た。日付をやっと確認できるようになった。もう……君が死んでからずいぶんたってたんだね。

 愛のメールを見て、最後まで君は何を思っていたのだろうと想像して。でもわからなかった。永遠に答えのでない問だけど、気づいてしまったら、もう逃げ続ける事も苦しい。


「待って!」


 思わず取り落とした携帯。見られただろうか? 不審に思われただろうか? 不安になって心が揺れて油断した。

 2人になって首に巻かれたスカーフを見て、チリチリと燃えるような胸の痛みを感じ。だからってあんな本音を口にするなんて……。冗談と言ってごまかしたけど、やり過ぎだ。




 指輪も外さず、秘密を隠したまま、古谷さんを口説くなんてできるわけがないね。愛に会って別れを告げないといけない。今度の土曜日は君の命日だ。やっと会いに行く決心がついたよ。

 急に伊瀬谷君が優しくなって、どうしたんだと思ったけれど。それを気にするより愛に会ったら何を話そうか……そればかり考えて、仕事に身が入らない。

 生きてる間も何もできず、死んだ事さえ認めず、ずっと逃げてた。だけど、もう逃げずに愛に向き合って謝らなきゃいけない。これからは何度でも、何度でも、愛の元に通って謝り続けるよ。だから……古谷さんを好きになった事、許してもらえないかな?


 古谷さんにも不審に思われて、上手くごまかす事さえできない。


「土曜日の予定って、奥さんですか」


 君の言葉はいつもストレートでキツいね。私がどれだけ心の壁を作ろうと、若さ故の勢いで無理矢理こじ開ける。何度拒絶しても諦めない。呆れる程の図々しさと優しさ。

 最初は辞めてくれって思ってたけど、君がこじ開けた心の壁は、私の弱さと醜さで、そんなつまらないプライドを脱ぎ捨てたら、ずっと楽に生きられそうだ。

 もう君には負けたよ。嘘をつく余裕もない。


「……うん、そうだよ」


 そうだ。愛に別れを告げて……そして古谷さん、君に告白するよ。受け入れられるとは、欠片も思わないけど、ただ言いたかった。


 君を愛していると。愛ではなく、古谷さんを愛していると。


 今、君を想う。

平気で、故意に他人に嘘をつく、狩野さん。

同時に、無意識に自分に嘘をつく、狩野さん。


自分に自信がある人程、案外自分の事がわかってなかったり、するんじゃないかな……というお話。

狩野さんの脳内はファンタジー。


ちなみに、この話を書いてる最中、ずっと頭の中に流れていた曲は、ジェーン・バーキンの「無造作紳士」

歌詞がフランス語で、人によってだいぶ訳し方が変わるので、歌詞が小説にあってるか謎ですが……(汗)

曲と歌声が美しくて怪しくて儚い。この曲大好き。



ここまでの外伝5本含め、本編は完結です。

この後も引き続き、外伝をお楽しみください。

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