変わるもの、変わらないもの
本編「所有印」「悪い冗談」の日のお話。
古谷が会社を出る間際、首のハンカチを狩野が一瞬睨んた。それを見て伊瀬谷は溜息を零す。
二人きりの部屋に漂う沈黙。気まずい空気の中、そっと狩野が伊瀬谷に仕事の指示を書いたメモを差し出した。笑みを浮かべてはいたが、いつもより荒っぽく殴り書きされた文字に、本音が透けて見える。
「今……古谷いないし、口で言ってもらってもいいですよ」
伊瀬谷が声をかけても、何も返事が無い。また溜息が零れる。
古谷が貧血で倒れた日に喧嘩して、それで古谷が苦しんだ事にようやく二人は気がついた。ずいぶんと年下の女の子に気を使わせて、困らせて、お互い大人げなく情けない。だから今後感情的に怒りそうな時、こんな風にメモで渡す。そういう約束だった。言葉にしなければ、落ち着いて仕事ができそうだと。
伊瀬谷にとって首につけた所有印は、絶対に渡さないという、宣戦布告の印のつもりだった。だがかえって火に油を注ぐだけの結果に終わったようだ。
殴り書きのメモの隅に、一言書き加える。『俺ってバカだな』そう書いてから、ぐしゃぐしゃと上から書き加えて消す。また溜息が零れた。
その夜。伊瀬谷は米沢に呼び出され飲み屋の暖簾をくぐった。昼間の後悔を引きずってるかのように、肩を落とし、表情を曇らせ、溜息混じりに室内に入ると、その温かさに少しだけ力を抜いたようだ。地味ながらこ綺麗に整った店で、壁にはお品書きの紙が張り出されている。月曜だからか人も少なく、カウンター席には一人ぽつんと米原が佇んでいた。
「遅くなった、米沢」
「伊瀬谷君とのデートならいくらでも待つよ。待つのは慣れてるし、締め切りも無いし」
へらへらと軽口を叩く米沢を無視して、伊瀬谷は無言で隣に座った。米沢の前にはグラスがいくつも並んでいて、既にだいぶ飲んでいる事がわかる。つまみの枝豆を口に放り込んでは、酒を一口。ロックグラスが空になれば、すぐおかわり。そんな調子で米沢は飲み続けた。
「ピッチが早いな。明日も仕事だろ」
今日はまだ月曜日。週も始まったばかりだというのに、米沢の酔い方は不自然に見えた。伊瀬谷はすぐに自分の分の生ビールを頼む。冷えたビールを一気に喉に流し込むと、ジョッキの半分が消えた。米沢は赤ら顔でへらへらと笑う。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。二日酔いでも、仕事はきっちりやるからね」
「……で、月曜日に飲みに誘った理由はなんだ? 週末でもいいだろう」
本当は来たくなかったと伊瀬谷は零す。借りなんてなければ来ないのに……と愚痴を続けても、米沢は笑わない。その違和感に伊瀬谷に眉をひそめた。
米沢はロックグラスをことりと置いて、カウンターに肘をたて、ぽつりと呟いた。
「週末だと間に合わないんだ」
「間に合わないって?」
「大事な話があって」
米沢にしては珍しく、真面目な顔をして、グラスの縁を指でなぞっている。大事な話と自分で言っておきながら、なかなか口を開かない。グラスの縁をトントンと叩いて思い切ったように伊瀬谷の方に顔を向けた。
「古谷さんのお姉さんに聞いたんだけど……狩野さんと喧嘩してるんだって? 三角関係って怖いね」
「……そんな話まで聞いてたのか。古谷のお姉さんに遊びで変な手出しするなよ」
「遊びじゃなくて、本気ならいいの?」
その眼差しが真剣で、伊瀬谷は思わず目をそらし、無言でビールを一口飲む。伊瀬谷は人の色恋を理解できる程、器用な男ではない。聞かなかった振りをして、話題を前に戻す。
「狩野さんと……上手くいってないのは確かだな。俺が悪いんだよ」
「伊瀬谷君はさ……不倫が許せないんでしょう? 狩野さんの為にも、古谷さんの為にも。そういう真面目さ、僕は好きだけどね」
米沢の軽口に思わず伊瀬谷は息を飲んだ。図星をさされ胸をぎゅっと掴まれたように痛い。なぜここまで見抜くのかと驚きのあまり言葉を失った。伊瀬谷の困惑を横目に、米沢はロックグラスの中身を、ぐいと飲みほし、躊躇いがちに口を開く。
「不倫じゃなければ……狩野さんが独身なら、許せるの?」
とっさに返事を返せず、伊瀬谷は残りのビールを一気に飲み干し、机に叩き付けた。
「狩野さんが独身で、二人が互いに好きだっていうなら、俺は何も言う権利なんてないよ」
そう言いつつも、表情はこわばっている。2杯目のビールを頼んで俯いた。唇は悔し気に震えている。
米沢は「1本吸わせて」と断りの言葉を告げ、煙草を取り出して口に咥えた。ゆっくり煙草を吸いながら眉間に皺を作り、目に悲哀の色をにじませて、煙と一緒に絞り出すように言葉を吐き出した。
「狩野さん……独身だよ。奥さん2年前に亡くなってる。今度の土曜日が命日だってさ」
伊瀬谷は息を飲んで、米沢を凝視した。「冗談だろ……」と言葉を返すが、米沢は首を横に振った。
「冗談じゃないよ。酒に酔って、煙草吸って、勢いつけないと言う覚悟もできないくらい、本気」
長い沈黙が二人の間に横たわった。煙草の煙が二人を包むように空気へ消えて行く。1本と言っていたのに、吸い終わった煙草を灰皿でもみ消して、米沢はまた1本吸い始めた。視線はロックグラスに向けたまま、伊瀬谷の方を見る素振りも見せずに、返事を待っているように見えた。
煙草を2本吸い終わり、3本目になっても返事は無い。じれた米沢が伊瀬谷の顔を横目でうかがい、思わず目を見張った。伊瀬谷は不思議と笑っていた。
「やっと納得できた」
そう言って、伊瀬谷はまたビールを一気に飲み干す。お通しに箸もつけずに、ただ3杯目が運ばれてくるまでの間、ぽつりぽつりと続く言葉。
「ずっとおかしいと思ってた。狩野さん……あんなに奥さんが好きだったのに、古谷に浮気するとは思えなかったし。古谷が入社する、もっとずっと前から、狩野さんの様子がおかしいと思ってた。でもなんでかわからなくて、もやもやして……やっと理解できた」
先ほどまでの深く悩む姿から想像できない程、思いのほかすっきりした顔の伊瀬谷を見て、米沢は驚いたとばかりに煙草を口から落とす。慌てて拾って灰皿でもみ消した。
米沢の皿から枝豆を奪って一口。伊瀬谷のぼんやりした視線は宙を漂い、まるで夢の世界のような現実感のない笑みを浮かべて、独り言のように呟く。
「知らずに、誤解して……狩野さんを傷つけて、俺って最低だな」
「大事な事を言わない狩野さんが悪いんじゃない?」
「そうかもしれない……でも、俺は狩野さんと一緒に仕事するって決めた時に、狩野さんを信じてついて行くって覚悟したんだ。それなのに信じられずに疑った。狩野さんは何も変わってなかったのに」
そこまで言ってから、3杯目のビールを一口飲み、顔をしかめる。伊瀬谷の顔に自嘲の笑みが浮かんだ。
「俺は大事な事を話せる程、信用してもらえなかったんだ。仕方が無いよ。俺、頼りないし。もし奥さんの事、知ってたとしても何も出来なかった」
「出来なかった……過去系じゃない? 今の伊瀬谷君なら、きっと狩野さんも信頼してくれると思うよ」
米沢の言葉に、今度は伊瀬谷が目を見開く。先ほどまで別世界を漂っていたような、ピントの合ってなかった視線が、米沢をはっきり見据えた。米沢は目を細めてロックグラスを手で弄んだ。グラスの中で氷が踊る様な音をたてる。
「伊瀬谷君……変わったよね。後輩ができたからか、好きな子ができたからか……わからないけど、狩野さんと戦おうって思ったんでしょう? 今までなら戦う前に逃げ出してたのに」
米沢の言葉の優しさが、心に染みたのか、伊瀬谷の笑顔から、皮肉気な色が消え、柔らかな笑みへと変化して行く。
「そう……だな。古谷を護らなきゃって、必死になって……いつの間にか戦ってたな。狩野さんも……珍しく余裕も無くムキになって。いつの間に……並んでたんだろう。ずっと背中を追いかけるばかりだと思ってたのに」
伊瀬谷の笑顔を見て、釣られたように米原も笑う。重々しい空気が逃げて行き、米沢のこわばった肩から力が抜けた。
「で……? 狩野さんと喧嘩しちゃう? こう……男同士、河原で殴り合いとか。僕応援しに行っちゃうよ」
「バカか、お前は。古谷は物じゃないんだから、喧嘩して勝った奴の物って事にはならないだろ」
「伊瀬谷君がバカなんじゃない? 恋愛勝負なら、古谷さんが選ぶかどうかで、狩野さんと意地はって戦っても意味が無いって、やっと気づいたの?」
米沢にバカにされて、伊瀬谷は渋い顔をした。反論の言葉もでてこない。揶揄いたそうに笑う米沢の視線を無視して、伊瀬谷はしばらく黙って何か考えるように眉間に皺をよせる。そうして考えて何か閃いた……というように顔をあげた。
「2年前……で、思い出した。そういえば狩野さんが前に倒れたのって、奥さんの命日の後だな。もしかしてストレスで体調崩してたのか?」
「古谷さんが仕事辞めたらどうしようって、心配しすぎて風邪引いたって、前に伊瀬谷君言ってたよね」
「ああ……もしかして……今度の命日も……」
過去の出来事から、すぐに未来へと思考を飛ばし、思い悩む風の伊瀬谷を見て、米沢は呆れたように溜息をつく。
「伊瀬谷君って……思考がどんどん飛んでくよね。狩野さんの奥さんの話をしたら、もっとショックを受けるかと思ったのに、すんなり受け入れた上に、納得して、もう狩野さんの心配?」
「驚いたし、ショックも受けたけど、すっきり納得して、ああ……俺が悪かったんだなって気づいて……俺なりの答えがでたから、もういいかって」
伊瀬谷は上手く言葉で説明できない……という感じに首を傾げ、一生懸命考える素振りを見せた。
「なんていうんだろう……こう、ピースが足りてないのに気づかず、ジグソーパズルを続けて、出来ないって必死に悩んでたら、足りないピースがでてきて、一気に完成してすっきり納得。みたいな?」
「その伊瀬谷君独自の感性……何度聞いてもよくわからないんだけど」
米沢の呆れ顔に「俺も自分の事よくわからないんだよな」と真顔で返されて、さらに溜息が零れる。
「もういいって……そんな簡単に狩野さんを許して……ほんと伊瀬谷君って、お人好しだね。ま、そういう所を僕は愛してるんだけど」
「お前に愛されるくらいなら、爬虫類に好かれた方がマシだよ」
「お、伊瀬谷君がそんな気のきいた返しをするなんて、成長したね。やっと哺乳類になったの?」
「うるさい、黙れ!」
普段通りの軽口に、二人の空気が緩む。伊瀬谷は3杯目のビールを飲み干し、立ち上がって二人分の伝票を持ち上げて笑った。
「ありがとな。おかげで色々わかったよ。今俺がするべき事も」
「僕に惚れ直しちゃった?」
「惚れてない。でも……ちょっとは見なおしてもいいかもな。お前にこんな優しさがあるとは思わなかった」
「心外だな。僕はいつだって、伊瀬谷君に優しいよ」
「嘘つけ」
そう言い残し伊瀬谷は背を向けて歩き出す。
「僕も変われるかな……逃げ出さない男に」
そう米沢が呟く声が聞こえ、伊瀬谷は振り向く。米沢が携帯の画面を見て目を細めていた。




