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狩野デザイン事務所、存亡の危機

 不安で、いたたまれなくて、仕事する気分じゃなかったけど、狩野さんがいないのだから、その分仕事の手を休めるなんてできない。幸い、先週のうちに前倒しで仕事を片付けていたので、今週は少し余裕がある。

 狩野さんが行くはずだった打ち合わせの約束は、先輩が連絡して延期してもらった。一応取引先には「病気静養」と説明している。数日ならごまかせるけど……これが長期化したら、会社は終わりだ。


「古谷」


 急に名前を呼ばれてびくっとする。気づけばいつの間にかすぐ隣に先輩がいた。


「落ち着け。どうせ古谷の事だから、自分のせいで狩野さんが……なんて考えてるんだろう」


 図星だったから頷く。先輩はぽんと頭に手を置いて、優しい笑顔を浮かべて言った。


「古谷のせいじゃない。それは俺が保証する。理由は夜に話すから、今は仕事に集中してくれ」


 私のせいじゃない……保証する……? 何故そこまで断言できるのかわからないけど、少しだけ安心した。

 少し落ち着いたら気づいた。先週先輩が前倒しで仕事を片付けようって言ったの、もしかして……この予測ができていたから?

 慌てずに、ミスしないように、慎重に慎重に仕事して、一日がとても長く感じて、苦しくても頑張って、やっと夜8時になった。でもまだ帰れない。


「夕食の休憩。外に食べに行こう」


 ああ……理由を説明してもらえるんですね。やっと不安から解放される……と思うのだけど、どうして狩野さんが休みなのか、その理由を聞くのが怖くもあった。

 食べる事より話に集中したかったし、2人でデニーズに行った。一応料理は頼んだけど、まったく手つかずで話を始める。


「土曜日……狩野さんの様子、おかしかったんだろう?」

「はい……今までたくさん嘘をついてきた……って言ってて。今までの狩野さんの話、どこからどこまで信じていいのか……」

「俺も狩野さんに聞いてないから、本当の所はわからない。でも……古谷が告白を拒否したせいじゃない事は確かだから」

「じゃあ……どうして!」


 先輩は難しそうな顔をして、慎重に単語を選び、ゆっくりと言葉を重ねる。


「いきなり奥さんと別れたとか、好きだとか言われてびっくりしただろう」

「はい」

「そんな事を唐突に言われて、はいそうですかって頷ける奴はいないよ。あの気遣い上手な狩野さんが、そんな事も気づかないと思うか?」

「そういえば……そうですね」

「狩野さんは始めから受け入れられると、思ってなかったんだと思う。ただ……言いたかっただけだろ。だから古谷が拒否してもショックは受けないよ。今日休んだのはまた別の話」


 先輩の話は、一つ一つ私の心に落ちて行って、自分のせいじゃないって事は理解できた。それではどうして狩野さんは今日休んだのか。

 先輩はとても言いづらそうに、何度も無言で口を開いて閉じて、水を一口飲んでやっと語り始めた。


「土曜日……命日だからお参りに来たって言ってたんだよな」

「……はい」

「米原に聞いただけだから詳しくは知らない。ただ……土曜日は、奥さんの命日だそうだ。2年前に亡くなってる。今思い返して見ると、狩野さんが以前倒れたのは2年前。奥さんが亡くなった後だな」


 頭が真っ白になるというのはこういう事かと、身を持って体験した。その後、食事をしたのかもわからないし、いつのまに職場に戻ったのかもわからない。先輩は仕事に戻ってたけど、私は仕事なんてできる状態じゃなくて、ソファに座ってひたすら狩野さんの事を思い出していた。


 狩野さんが奥さんについて語った言葉、一つ一つ思い返す。

 別居中とか、メールが来たとか、離婚するかもとか、それは嘘だ。でも三年使われてなかったあの部屋。人の気配はまったくなくて、だから三年前に奥さんがでていったのは本当なんだと思う。


『ずっと会わずにメールだけ見てるうちに、メールの向こうに人がいる事を忘れてしまうね』


 狩野さんはそう言った。それがやっと腑に落ちた。昔のメールを見て、まだその向こうに奥さんがいる様な気分になって、奥さんの死という事実から逃げてたのかもしれない。

 全部私の推測。真実は本人に聞かないとわからない。

 自分の言動を振り返って、奥さんについて、随分無神経に色々言ってたな……と自分が嫌になる。


「先輩……狩野さん、戻ってくるでしょうか?」

「戻ってくる……と、信じて待つしかない。職場が無くなったら、狩野さんの居場所が何処にもなくなるから、俺達が帰る場所を守るしかないよ」


 先輩の言葉がじわじわ心に染みていく。ああ……そうだ。もう会社しか居場所がないなら、私達が守らなきゃ。いつの間にか濡れていた頬を拭って、両手でばしっと頬を叩く。

 悩んでる暇があったら、仕事しろ、自分。今の自分にできる事はそれだけなんだから。

 胸の奥に痛みを抱えながら、それに耐えて仕事した。たぶんきっと、先輩も同じだから。


 火曜日も狩野さんが来なかったので、不安で不安でしかたがなかったけど、それでも仕事の事だけを考えようと、頑張って集中する。だから水曜日に狩野さんが出勤してきた時、思わず泣いてしまった。


「2人ともすまなかった。心配かけて。ちょっと体調崩しちゃってね。治るのに時間がかかった」


 狩野さんの笑顔は力がなくて、まだ無理してると思ったけど、いつも通りの仕事。私も先輩も、何も知らないかのように、狩野さんと接していた……つもり。

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