墓地で会いましょう
電話のない穏やかな休日出勤。今日は先輩と私だけ。
先輩は今日、デザイン案を考えてる様で、またヘッドフォンをつけて作業している。そういえば……何の曲を聞いてるのかまだ知らない。今度聞いてみよう。
今日は狩野さんどうしてるのかな……奥さんと仲直りできたかな、それとも離婚話でもしてるんだろうか……そんな事を考えながら、午前中の仕事をして、昼になった。
さてランチをどうしようかな……とちらりと先輩の顔を覗き見る。キットカットを口に加えて、集中して仕事してる。なんだか話しかけづらいな。
肩をとんとんと叩き、メモだけ見せた。
『ランチ先に行ってます』
春にビビンパを食べたあの洋食屋に行きましょう……そうメールしておいた。
今日は秋晴れの綺麗な青空。少し風が冷たい。そろそろ長袖Tシャツとパーカーだけだと寒くて、ショールでぐるぐる巻き。それでもまだ寒い。
墓地の近くをてくてく歩いていたら、視界に映った人影に驚く。
「狩野さん、今日休みなんじゃ……」
私の存在に気づいてないみたいで、とても悲しげに足下を見つめて歩いている。
黒の仕立ての良いスーツに、ネクタイをきっちり締めて。フォーマルな装いに、トレンチコートを羽織って。コートの裾が風ではためく姿も、とてもかっこよくて、絵になるほど似合ってる。狩野さんのスーツ姿って初めて見た。でも……スーツ姿にときめくよりも、なんだか胸騒ぎを感じる。
私が1歩づつ近づいて、やっと気配に気づいて顔をあげた。目を細めようと睫毛を振るわせ、口角をあげようとし……諦めた。笑顔のできそこない。そんな気がした。
「お疲れさま。ランチ休憩?」
「はい。あの……お休みでしたよね?」
「休みだよ。今日は知り合いの命日でね。お参りに来たんだ。この後用事があるから、ちょっと寄っただけなんだけど」
何でもない事のようにさらりと狩野さんは言った。ちょっと返事に困った。
私はあまり命日にお墓参りってした事がないから実感がわかない。なんて言ったらいいのか。
この後の用事って……こんなにきちっとスーツを着て、奥さんに会うのかな? デート……というには、空気が重いし、やっぱり別れ話? これも下手に聞けない。
俯いて困っていたらいつのまにか、すぐ側まで狩野さんが来ていた。
「この前はごめんね。急に抱きついて。古谷さんの泣き顔が可哀想で、慰めてあげたくなった」
「あ……えっと……そう、ですね。いきなり抱きしめられたら、びっくりしますし……」
「ごめん。冗談でも……口説く様な事を言った」
「ちょっと、たちの悪い冗談だな……と思いました」
そっと触れられた手。ぞっとする程冷たい。
「私は、君に、たくさんの嘘を、ついてきた。でも、これから言う事は、全部本当の事だ」
一言一言噛み締めるように紡ぐ狩野さんの声が、とても静かな悲鳴のようで、顔を上げたら、無理に笑顔を作ろうと苦しんでる表情が見える気がして。俯いたまま、狩野さんが次に何を言うのか怯えた。
「前に……妻に会いに行くのかって、聞かれた事があったよね」
「そんな事がありましたね」
「ずっと逃げてたけど、会いに行ったよ。会って良かったと思った。背中を押してくれてありがとう。古谷さん」
握られた手を振りほどかなきゃいけない……と思うんだけど、命綱に掴まっているかの様な必死さで、振りほどけなくて。
そのまま俯いて、声が落ちて来るのを待ってたら、ふと気がついた。また……左手の指輪がない。
「妻に別れを告げた」
どくん、どくん、と胸が強く鳴り響く。そんなそぶりをずっと見せてたけど、ついに離婚するのか。もしかして……米原さん情報って、離婚の話だったのかな? 離婚って、色々手続きあるし、この後そういう話し合いでもするのかな? だからこんなに空気が重いのかな?
「狩野さん」
声だけでもとても苦しそうだったから、なんて言っていいかわからないけど、何か励まさないといけない気がして、名前を呼んで見上げた。
気づいた時には手遅れだった。握られた手を引き寄せられて、あっという間に唇が重なった。狩野さんとのキスは煙草の香りがした。甘くないビターな口づけ。
そのまま力強くぎゅっと抱きしめられる。狩野さんの腕の中は、煙草とコロンが入り交じった危うい香りで、くらくらと目眩がする。嵐の中で吹き飛ばされる小枝の用に、力強い腕の中で溺れて流された。私の心臓は壊れそうな程、早鐘を打ち続け、息をするのも苦しい。
あまりに突然で、パニックになった頭の中で、気がついた。狩野さんはもう既婚者じゃない。そういう固定概念を取り払って考えたら、やっとわかった。狩野さん……私の事好きだった?
「君を愛してる」
かすれたバリトンが耳元で響く。狩野さんの気持ちがどれ程激しいのか、痛い程の抱擁から伝わってきて、この人はこんな激情を身の内に隠していたのか……と驚く。
奥さんと別れたとか、愛してるだとか、あまりに一度に色んな事を言われて、私の脳はキャパオーバーで、心が受け入れられなくて……何も言えずに震えた。
抱きしめられた腕が緩められ、ゆっくりと狩野さんの体が離れて行く。でも……まだ手を離してくれない。恐る恐る見上げながら思考を駆け巡らせる。
不意に春の桜の季節の事を思い出す。あの時、狩野さんと私の間に遠い距離を感じた。あれは気のせいじゃなくて、本当に違う世界の人なのかもしれない。
そう思ったら怖かった。狩野さんのその目が深く沈んだ海の底のようで、見知らぬ他人に見えて。
だから私は慌てて手を振り払って逃げ出した。狩野さんを一人置き去りにして。
今すぐには先輩と顔を合わせたくなくて、墓地の中を歩いた。
桜の季節には屋台があって賑やかだったけど、今は秋。さすがに人気はあまりなくて侘しい。灰色の墓石を、紅葉が彩って、道ばたには枯れ葉達が集ってる。木枯らしが肌寒くて、その侘しい空気を感じたら、少しだけ落ち着いた。
前に先輩に聞かれた。もしも狩野さんが離婚したらって。あの時はまだ実感がわかなかったし、離婚したからって私なんかを好きになるとも思えなくて、すぐに「関係ない」って言えたけど……どうしたらいいんだろう?
もし……仮に狩野さんと付合ったとしたら、先輩が傷つくだろうか? そう考えて溜息をつく。
きっと次に職場で会っても、狩野さんはいつもと変わらずに仕事をするだろう。私が今日の事を忘れてしまえば、なかった事にして流してしまえば。これからも三人で仲良く仕事して……。
そう……その方がきっと平和だ。
狩野さんの最後の声が耳に響いて、力強い抱擁がまだ体に深く刻まれてて、目眩がする程、魅惑的だったけど……首を大きく横に振って、その残滓を振り落とす。秋の冷たい風が、私の頬を撫でて、火照りを冷ましてくれた。
洋食屋に着いた時、すでに先輩が来ていて、店の前に立っていた。私の顔を見ただけで、不安そうに瞳をゆらす。
「先に出たのにどこに行ってたんだ。顔が真っ青だぞ。何かあったのか?」
先輩の手が私の頬に触れる。冷たい。こんなに冷えるまで待っててくれたんだ。心配そうに私の顔を覗き込む先輩に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「さっき……墓地の前で狩野さんに会ったんです。誰かの命日で、お参りに来たって」
先輩は驚いて固まった。まるで時が止まったようだ。綺麗な彫像のような先輩の顔を見たまま、その続きを言う勇気がなくて俯いた。
「奥さんと別れたって言って、それから……私が好きだって言われました」
ぽつりぽつりと言葉を絞り出す。恥ずかしくてキスされた事も、抱きしめられた事も言えない。俯いて返事を待ってたのに、沈黙が続く。長い沈黙に耐えきれずに見上げると、先輩が憂いを帯びた目で、どこか遠くを見ていた。
「お参りに行って、別れたって……言ってたのか」
「はい」
「狩野さんは独身で、古谷が好きで……それで古谷はどうしたい?」
「わかりません。正直、あまりに急すぎて、まだ信じられないんです」
「それはそうだな」
ぽんっと頭に手を置かれた後、先輩に優しく抱きしめられる。私を励ますような優しい抱擁。なのに後ろめたさのせいで安心できない。まだ狩野さんの残り香がある気がして。
狩野さんに告白されたなんて言ったら、怒るかと思ったのに、なぜか冷静だった。
今日は皆おかしい、狩野さんも、先輩も……私も。
そんなおかしな土曜が終わり、空けて月曜。狩野さんにどんな顔して会えば良いんだろう。きっと狩野さんはいつもと変わらず仕事ができちゃうんだろうな……。大人だし。
「おはよう」
「おはようございます」
先輩と2人で仕事を始める。始めてすぐに違和感を感じた。定時を10分以上過ぎてるけど、狩野さんが来ない。予告無く遅刻って、今までなかった。先輩もさすがに心配になったみたい。
「電話してみようか……」
先輩が携帯で電話をかけようとした時、会社の電話がなった。私が先に電話にでた。
「はい。狩野デザイン事務所です。いつもお世話になっています」
『……古谷さん?』
耳に響くバリトンを聞いただけで、胸に痛みが走った。胸の鼓動がうるさい。
「あれ……? 話し中か。……古谷? 電話誰からだ? 俺が変わるぞ」
電話の続きが気になりすぎて、先輩に答える余裕がない。狩野さんが何を言うのか、怯えながら待った。
『土曜日はごめんね。今日は休むって伊勢崎君に伝えてくれる?』
それだけ告げて電話を切られた。たったそれだけ。なのに土曜日の、墓地の近く、あの場所で……狩野さんに言われた言葉が、一瞬で頭を駆け巡る。目の前が暗くなる思いがした。
「どうしたんだ? 誰からだ? もしかして狩野さん?」
「はい……今日は休むそうです。理由はわかりませんが」
「やっぱりそうか……。日曜日も結局来なかったみたいなんだ」
先輩が真面目な顔で狩野さんのデスクを見る。チェックされるはずの原稿が手つかずのままだ。
休む理由は言わなかった。でも……私から逃げたんだろうか? 仕事に誰よりも責任感を持ってる人が。もううちの会社ダメかもしれない……。そう思うと目眩がした。




