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悪い冗談

 篠原さんと話して落ち着いたけど、遅れた仕事はなかなか終わらない。これは八時じゃ終わりそうもないな。

 先輩は今日予定があるらしく、早めに仕事を終わらせたいようだ。狩野さんをちらりと見る。昼間はイライラして怖かったけど、今は落ち着いたかな?


「すみません、今日はもう少し残業したいんですけど」

「体調は大丈夫かな?」

「体調は大丈夫です。昨日はゆっくり休みましたし」

「あまり遅くならない程度にね。もう少し残るなら悪いけど夕食の買い出しに行ってくれる?」

「はい」


 お金を受け取ってコンビニに買い物に行く。今日は私もお菓子を買おう。ちょっと疲れたからエネルギー補給がしたい。

 戻ったら一階の喫煙所で狩野さんが煙草を吸っていた。また携帯を眺めてる。奥さんからかな? そっと立ち去ろうとして気づかれた。


「待って!」


 慌てた様に小走りでやってくる。あまりに慌てたからだろう、携帯を落とした。私はすぐにそれを拾う。ちらっと画面が見えてしまった。

 狩野愛って……書いてある。女性の名前で同じ名字なんだから奥さんなんだろうけど……それより気になったのが、メールの日付が3年前のものだった。なんで今更3年前のメールを見てるの?

 疑問に思ったけど、携帯を勝手に見るなんてマナー違反だ。私は見なかった振りをして渡した。


「ありがとう。話がしたくて待ってた。大丈夫? 古谷さん。伊勢崎がバカだから」


 そういって首のハンカチにそっと触れた。思い出して顔が赤くなる。俯いて赤くなった顔を隠した。


「私はこれくらい大丈夫です。狩野さんの方が大丈夫じゃないように見えますよ。ずっと怒ってて、仕事大丈夫ですか?」


 上からほう……という溜息が聞こえる。見上げると恥ずかしげに顔に手を当てて、珍しく狩野さんが落ち込んだ様な表情をしてた。


「また……古谷さんに心配をさせてしまったね。ごめん。私も大人げないな……伊勢崎君を怒る資格はないかもしれない」

「いえ……私の為に怒ってくださったのは嬉しかったです」


 顔から手を離して私を見る。目と目があって、狩野さんは唇を振るわせ囁いた。掠れた声に、色気を漂わせた視線にぞくっとする。


「恋愛は個人の自由だし、仕事に支障がなければ……目をつむった方がいいんだってわかってるんだけどね。気になって。あんまり古谷さんの扱いが悪いと、奪ってしまいたくなる」


 奪うって……それって私の事を? 口説かれてる? 驚きすぎて固まった。狩野さんもしまったと思ったのかもしれない。ごまかすように苦笑して「ごめん」と言った。


「冗談だよ。妻がいるし、そんな事はしないよ」

「……冗談にしても、たちが悪い……です」

「そうだね。本当にごめん」


 そう言って先に帰って行った。驚きすぎて心臓に悪い。少し外の空気を吸ってから帰ろう。

 お酒で酔って軽いノリで冗談で口説かれるのと分けが違う。こんな素面で、真面目に口説くなんて、たちが悪い冗談だ。


「うわ……束縛男の嫉妬って怖いわね」

「じろじろ見ないでよ。恥ずかしい」


 お姉ちゃんにキスマークを見せたら笑われた。職業柄この程度の男女のいざこざなんて、慣れてるのかもしれない。


「狩野さんが哀れね。それだけ煽られて怒っても無視されるし。かといってクビにしたら会社が傾く……でしょう。我慢するしかないものね」

「確かに……可哀想だと思うけど、冗談にしてもたちが悪いよ。奥さんと離婚しそうだからって……」

「離婚? 狩野さんが? そんな事言ったの?」


 お姉ちゃんは本気で驚いてた。こんなに驚いたお姉ちゃんを初めて見たというくらい。


「いや……まだわからないけど、今別居中だし、あんまり上手く行ってないみたいな事を聞いてて」


 4月に最初に話を聞いた時から今まで、狩野さんが言ってた事を全部話した。お姉ちゃんはちょっとせつなげな目をしてる。


「今日は3年前の奥さんからのメール見てたんだよね。なんでだろう?」

「仲が良かった頃のメールでも見て懐かしんでたんじゃない?」

「なるほど……」


 それは一理ある。そうだとしたら狩野さん、離婚すると言いつつも、まだ奥さんに未練があるのかな? そう思ったら少しほっとした。今日のはただの冗談だ。


「ねえ……萌は本当に伊勢崎さんの事好きなの?」

「え……どうして?」

「もし伊勢崎さんと狩野さんが喧嘩になったら、会社がダメになってしまうから。丸く収める為に伊勢崎さんと付合ってた方がいいなんて考えてない?」


 先輩が好きだと思ってた。でも仕事の事を気にする気持ちがないと言えば嘘になる。


「伊勢崎さんにきっぱり付合えませんって言ったら? まだ告白の返事もしてないんでしょう?」

「……」

「萌にとって仕事と恋愛のどっちが大切か。仕事を優先したいなら別れたらって事。萌が転職して恋愛を続けるって方法もあるわよ」


 別れるも、転職するも、私の意思を尊重しろって事か。でも意思って言われても……正直わからない。


「萌。自分の為に生きなさい。誰かの為にって我慢して決めたら、後で後悔するわよ」


 私の為に家出したお姉ちゃんの言葉が重く響く。やっぱりお姉ちゃんは、優しくて頼もしくて、自慢のお姉ちゃんだ。


「そういえば……今日、伊勢崎さんと米沢さんが飲みに行くって言ってたわね」

「米沢さんに聞いたの? お姉ちゃんも仲が良いね。先輩もあれだけ嫌ってるのに、よく米沢さんと飲みに行くな……」


 締め切り延ばしてもらったり……で、借りがあるから……なんだろうけど。先輩は律儀だな。お姉ちゃんが難しい顔をしながら額に手を当てて、ぽつりと呟いた。


「このタイミングでね……これもきっと、米沢さんのバランス感覚……なんでしょうけど」

「このタイミング? バランス感覚?」


 私の問いかけにお姉ちゃんは答えてくれなかった。米沢さんが何を考えてるのか、私には理解不能だ。

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