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 お姉ちゃんとしばらく一緒に暮らすことになった。

 何度か家から連絡が来てたけど、お父さんの事は無視。お母さんにだけ『お姉ちゃんの家に泊まってます』ってメールしたしいいよね。


 月曜日は定時ギリギリに来た。先輩と二人きりだと喧嘩の続きになりそうで怖い。

 二人とも先に来てたのでほっとした。私が話しかければ、先輩も狩野さんも普通に答えてくれる。でも二人の間に話はない。とても静かに仕事は進んだ。


「昼飯に行こう」


 先輩にそう誘われて迷う。いつもの事なのだけど、昨日の喧嘩の続きかと思うと気が滅入って、つい助けを求める様に狩野さんを見てしまった。

 私の視線に気づいて、先輩が不機嫌そうな顔をしたので、仕方なく一緒に会社を出た。

 楽しくランチという気分でもなかったのでデニーズに。先輩が甘い物を頼まないのは重症だ。


「狩野さんから話は聞いた。大変だったな」

「はい……ありがとうございます」

「しばらくお姉さんの家に泊まるんだって」

「はい」


 先輩の声も表情も硬いままで、怒ってるのか悲しんでるのかよくわからない。


「昨日は怒って悪かった。篠原と飲みに行った事も」

「いえ……大丈夫です。篠原さんの事は信用してますし。私こそすみません。昨日はキツい事言ってしまって」


 そこで先輩は溜息をついて、手で顔を覆った。


「俺がメールに気づかなかったのがいけないんだし、昨日狩野さんと飲んだ事は仕方がない……と、思う事にする。でも……なんでお姉さんが家出して喧嘩してたって事言ってくれなかったんだ」


 どきり……とした。いずれ言わなきゃいけないかな……と思いつつ先延ばしにしていたツケが、ここにきてまわってきた。


「す、すみません。なかなか言い出しづらくて。狩野さんには4月くらいに、お姉ちゃんの話をする機会があって。7月にお姉ちゃんと再会した時、狩野さんも一緒で色々フォローしてもらって……それで知ってただけで。隠してたわけじゃないんです」

「そんな前から知ってたのか……」


 また溜息。どんどん先輩が凹んで行くのがわかる。


「俺ってそんなに頼りない? 狩野さんの方が頼りになる?」

「そ、そんな事ないです。本当にたまたま機会がなかっただけで。先輩に告白される前に、お姉ちゃんと仲直りしたし」


 その後も気まずい空気で食事をした。土曜日の凄い怖い表情に比べたら、落ち着いてて冷静に見えた。でも悲しそうに見えて心配だ。

 手を繋いで会社に帰る途中、先輩は足を止めた。私が見上げると先輩の目の奥に不安の気配を感じる。


「狩野さん……古谷の事好きなんだと思う」

「まさか……そんな事。だって、狩野さん奥さんいますし……」


 唇を塞がれその先が言えなかった。そこまではまだわかる。でも唇を離した後、先輩が私を抱きしめて、首にキスを落とした。ぴりっと痛みが走る。

 今の何? こんな事されるの初めて。戸惑っていると先輩の体が離れて「ん……これでいい」と呟いた。


「えっと……今のは?」

「宣戦布告。『まだ』渡せないから」


 まだ、の所を強調して先輩は言った。宣戦布告というぶっそうな言葉の響きに、嫌な予感がする。


「お帰り」


 そう言いながら狩野さんが笑顔で振り返って、すぐにその笑顔が消えた。私を一瞬凝視して、それから先輩を睨んでテーブルをどんっと叩いた。


「伊勢崎。私に変な意地をはるのはかまわないが、古谷さんをもっと大切しろ」


 私の事を気まずそうにチラ見して、口元に手を当てて小さく溜息をつく。


「自分の物だって、私に見せつけたいのか……そんな事の為に、可哀想だろう」


 なん……だろう? 狩野さんの反応がおかしい。先輩は何も言い返さずに仕事に戻るし、狩野さんも私に背を向けた。嫌な予感がして、私はトイレに行って鏡を見た。

 ぎょっとした。首筋に歯形の様な跡。これってキスマーク? これ狩野さんに見られたわけ? 恥ずかしくてかーっと赤くなった。

 やっぱり先輩はまだ狩野さんに私をとられるって心配なんだ。こんな風に見せつけないと、気がすまないくらいに。


 恥ずかしかったからハンカチをスカーフ風に首に巻き、キスマークを隠した。

 狩野さんが怒ってる感じで話しかけづらいし気まずい。仕事が手につかなくて捗らない。


「古谷さん。この原稿、篠崎さんの所に届けてもらえない? ついでに土曜日のお詫びに何か差し入れも買って行って」


 そう行って原稿とお金を渡された。正直ありがたい。今職場にいるのがいたたまれないから、外の空気を吸いたい。

 土曜日の事なんて気にしてない雰囲気で、篠原さんは出迎えてくれた。


「お詫びなんていらないのに。狩野さんも律儀ね。……ま、口実なんでしょうけど」

「私が会社をでる……口実、ですか?」

「そう。この原稿も特に急いでないし、今日届ける必要もない。ちょっとゆっくりしてきなさいって事だと思うわ。珈琲淹れるから飲んで行って」


 篠原さんのお言葉に甘えて珈琲をいただく。篠崎さんが私の首をちらりと見て笑った。


「珍しいわね。スカーフを巻いてる所、初めて見たわ」

「え、ええ……まあ。ちょっと気分転換に」

「伊勢崎君にキスマークでもつけられた?」


 思わず珈琲を吹きそうになる。篠崎さんが明るく笑ってるのが救いだ。


「そう……なんです。それで狩野さんも怒っちゃって。会社に居づらくて……」

「伊勢崎君、色々悩んでたものね。土曜日も相談されたのよ。狩野さんや古谷さん、会社の事も含めて今後どうしたら良いんだろうって。自分が悪いって事は自覚してるみたいだけど、つい感情的になって押さえられなくなるって」


 それで二人で会ってたのか。先輩もどうにかしなきゃって思ってくれてるのが嬉しかった。

 篠崎さんが明るい笑顔を消して、困った様な微笑を浮かべた。


「ねえ……本当に伊勢崎君の事、好きなの?」

「え……どうして、そんな事」

「前に先輩として尊敬してる。でも恋愛感情はないって、きっぱり言ったでしょう? その割にずいぶん早く仲良くなったな……と思って」

「それは……その……あの時は私も意識してなかったし、先輩が私を好きになるとも思ってなくて、篠崎さんに指摘されてびっくりしたくらいで」


 篠崎さんは珈琲を一口飲んで、その水面を見つめていた。いつも明るい篠原さんにしては、珍しく暗い表情。


「私……余計な事言っちゃったかしら。私が伊勢崎君が古谷さんの事、好きなんじゃないって言ったから意識しちゃったんでしょう?」

「……確かに驚いたし、それで気になりました。でも……その後色々あって、好きだなって思ったし……。だから篠崎さんが余計な事言ったなんて、気にしなくていいです」

「ありがとう……そう言ってもらえると救われるわ。古谷さんは本当に気遣い上手ね」


 優しい微笑を浮かべ、それがとても綺麗だったので思わず見蕩れて、それから慌てて首を振った。


「そ、そんな事ないです。狩野さんや篠崎さんの方がずっと……」

「それは……経験値の差よ。古谷さんの若さで、自分の事より周りの事を優先して気を配れるのが凄いと思うわ。伊勢崎君の方がずっと子供っぽいわよ」


 くすりと笑われて私も笑ってしまった。否定できない。確かに先輩は子供っぽい所がある。


「狩野さんは古谷さんの事、本気で好きなんだって……伊瀬谷君が言ってたわね」

「まさか!」

「私も正直信じられないけど……伊瀬谷君の勘って鋭いから。もしかしたら……」

「先輩の勘違いですよ」


 そうだ。きっと。狩野さんが私を好きなんて、ありえない。

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