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泊まり込み

 私は今、狩野さんの靴を履いている。くじいた足でヒールは危ない、自分は靴下だけで良い。そう言って貸してくれた。私には大きすぎるその靴に、ほんのり残る温もり。気恥ずかしくて私の体温まであがりそうだ。

 タクシー乗り場につくまでの間、私は狩野さんの腕に掴まって歩く。それもまるで恋人みたいでドキドキ。でも……私が見上げても、狩野さんは笑わないし、目も合わせない。怒らせちゃったかな?

 狩野さんと2人でタクシーに乗って家へ向かった。並んで座り、横目でちらり。狩野さんはまだちょっと機嫌が悪そう。私があんまりにも頑固だからかな……。でもお金に余裕があったら、狩野さんもはっきり断っただろうし、私の意見も痛い所を突いていたのだと思う。

 私と目もあわさずに、ちょっと投げやりにぼそぼそと言葉を紡ぐ。


「忙しくて掃除してないから汚いけど勘弁してね」

「それはかまわないんですけど……本当に奥さん帰って来ないんですか?」

「3年前、家を出ていったきり一度も会ってない。メールの返事は来るけど、電話をかけても繋がらないし、どこに住んでるかも教えてもらえない」


 うわ……それはキツい。会えなかったってそういう事だったのか。狩野さんが車の外を眺めながら、悲しそうな顔をしてたから、それ以上追求できなくて黙ってしまう。

 私が黙ったら、まるで独り言のように、ぽつぽつと語りだす。その当時狩野さんは1週間泊まり込みで、久しぶりに帰ったら奥さんの荷物が一切なくなってた。衣服や雑貨だけでなく、奥さんの分の食器や想い出の写真まで、全て処分されてたと。


「家具以外、本当に徹底的に痕跡がなくなってて、携帯の画像とメールを見ないと、妻がいた……なんて私の妄想だったんだろうか……と思う程だった」


 聞いてて私まで胸が痛い。そこまでして家を出たなら帰ってくる気はないだろう。会ってもらえないから、離婚の話すらできないのかな?

 でも……今もメールで連絡が取りあってるなら、まだ奥さんとの関係は終わってない。やり直す機会はあるんじゃないかな……と思ってしまう。だって本気で愛想を尽かしたなら、メールだとしても連絡なんてしたくないだろう。そう考えてしまう私は甘いのかな?

 今まで私に深入りさせない、どこか壁を作ってた狩野さんだったのに、今日はずいぶん色々話してくれるな。少しでも私を信用してもらえたのかな? ぐっと近づいた心の距離が嬉しい。ちょっとでも……狩野さんの心を楽にできる手伝いができるといいのになと願う。

 そんな事を想いながら、そのまま2人、無言で家まで向かった。


 狩野さんの家は2DKの古い賃貸マンション。入ると少し空気が淀んでたので、家中の窓を開けて換気した。


「げ、げほっ」

「だ、大丈夫ですか?」


 一つの扉を開けて部屋の中に入った狩野さんから、大きな咳払いが聞こえた。


「大丈夫……3年間ドアも空けずに放置してたから、埃が凄くて……」


 奥さんの家は開かずの部屋だったんですね。私もそっと覗いてみたけど、カビ臭いし、ベットや家具以外カーテンすらない、殺風景な景色。まるで死んだように時が止まった部屋。窓を開けて3年ぶりに空気を入れても、まだ生き返る気配がない。帰ってくる人がいないなら、部屋は空っぽのままなのだ。

 私はダイニングの椅子に座らされ、狩野さんは近くのドラッグストアに湿布類を買いに行った。

 一人になってゆっくり部屋を見る。汚い……と、言ってたけど、雑然とした感じはなかった。あまり使わない所の埃や汚れは凄いけど、忙しすぎてそこまで手が回らないよね。

 本棚にはぎっしり雑誌が詰まってて、仕事関係の物だな……と思ったけど、それ以外がらんとしている。

 冷蔵庫の中身は缶ビールと栄養ドリンクのみ。食器や調理器具には埃が溜まっていて、まったく使ってる形跡がない。調味料どころか食器洗い用の洗剤もなく、シンクの下の収納にあるのはカップラーメンの備蓄と、インスタント珈琲の瓶と紙コップのみ。

 唯一生活感があるのは、蓋付きの大きなゴミ箱に、コンビニで買ってるんだろうな……という食事の容器と缶ビール。

 一人で住むには広すぎて、奥さんとの想い出もきっとどこかに残ってて……そんな場所でこんな寂しく暮らしてるなんて……本気で狩野さんの生活が心配だ。

 

「ただいま……って、何見てるの」

「あはは……ちょっと狩野さんの生活って、どんなかな……って。心配になるレベルで自炊してないですね」

「一人暮らしで自炊って、時間と手間の割にそれほど安上がりにもならないし、買ってくるか外で食べるかの方がいいよ。手当するから座って」


 大人しく椅子に座ると、擦りむいた膝を消毒して絆創膏を貼ってくれたり、ひねった足首に湿布を貼ってテーピングしてくれたり。真顔の狩野さんの顔を思わず凝視してしまう。でも……私と目も合わせない。


「どう? 歩けそう?」

「そう……ですね、痛みはあまりないです。テーピングのおかげかな?」

「念のため一晩安静にした方がよさそうだね。ちょっと待ってて、着替えを用意するから」


 私ので悪いけど……と行って用意してくれたのは、半袖のTシャツとショートパンツ。身長差から考えて、裾や丈があまりすぎるもんね。


「シャワーは……湿布を貼ったばかりだし、明日の朝の方がいいだろうね。部屋そっち使ってもらっていいから」


 そう言って指差すのは、狩野さんの部屋の方。


「あれ? 奥さんの部屋の方じゃないんですか?」

「3年分の埃とかび臭さに溢れた部屋で寝たい? 夜中で掃除機もかけられないけど」


 うわーお。狩野さん流石紳士、譲ってくれるんだ。さすがにそんな埃まみれの死んだ部屋で寝たくない。ダイニングは椅子だけでソファもないし、とても眠れないよね。


「おやすみ。古谷さん」


 そう言って、狩野さんが奥さんの部屋の扉を開けようとして……躊躇ってる気がした。ああ……今夜一晩その部屋で過ごすのって辛いんじゃないかって、やっと気づいた。例え何も無くなっていたとしても、奥さんのいた部屋だから。

 躊躇う狩野さんに私は思わず抱き付いて引き止めた。無理しないで欲しい……そう思いながら。


「やっぱり……私そっちの部屋で良いです。汚くても……一晩くらい平気だし」


 見上げて見ると、狩野さんは苦しそうに顔を歪めた。狩野さんの戸惑う手は宙をさまよい、自分の額に手を置いて顔をそらす。


「困るよ。……君の優しさは残酷だ」


 そう言って溜息を零す。私から目を逸らす狩野さんの表情が、艶っぽくてドキドキした。困ると言われて気がつく。引き止めるため……とはいえ、狩野さんに抱き付くなんて、随分大胆な事をしてしまった。慌てて離れようとして、そっと両肩に手を置かれる。


「ありがとう」


 そう耳元で囁いて、私から離れていく。今度こそ狩野さんは、躊躇いを捨てて奥さんの部屋に一人で入っていき、扉は閉まった。耳に響く狩野さんの声の魔力は、くらくらする程、魅惑的だ。

 狩野さんの事が気になりつつ、お言葉に甘えて私は狩野さんの部屋にお邪魔した。ダイニングに比べると、ずっと生活感に溢れている。パソコンが置かれたデスクの上は雑然としていて、本棚から本も溢れてるし、ベットサイドのテーブルには雑貨類が置かれてた。やっと生きた人の部屋だなと実感する。ダイニングがあまりに殺風景過ぎたから。

 借りた服に着替えてベットに入ってみるんだけど落ち着かない。煙草の匂いとコロンの香り、それに他の何か。狩野さんの匂い……なのかな。

 ドキドキしすぎて、気になりすぎてなかなか寝付けなかったけど、次第にうとうとして眠りについた。


 朝起きて一瞬ここ何処? と思って跳ね起きた。そうだ……狩野さんの家にお邪魔したんだった。昨日は酔ってたり、色々雰囲気に流されたけど、改めて考えると一人暮らしの男性の部屋に、お泊まりって初めてだ。狩野さんはまだ奥さんと離婚してないし、私みたいな子供、相手にしないと思うけど……ドキドキして顔が火照る。

 なかなか寝付けなくて、睡眠不足で、寝ぼけた顔のまま部屋をでて、あくびをする。


「おはようございます……」


 狩野さんはすでに起きてダイニングで珈琲を飲んでいた。家だからかとてもリラックスしてて、Tシャツとハーフパンツ。こんなカジュアルな、飾り気のない服を着た狩野さんを初めて見た。私の姿を見て目を見開き、すっと背を向ける。


「シャワーを浴びて元の服に着替えた方がいい。Tシャツは脱衣籠に放り込んでおいて。ドライヤーはないけど脱衣所の棚にあるタオルは自由に使っていいから。買い置きの新品の歯ブラシもあるはずだよ」


 背を向けたまま淡々と説明してくれる。男の人のいる所でシャワーを浴びるのか……とちょっと躊躇うと「朝ご飯買ってくるね」と言って家を出て行った。これもさりげない気遣いかな。流石だ。

 お言葉に甘えて歯を磨き、シャワーを浴びて元の服に着替える。ドライヤーなしはなかなかキツいな。タオルを何枚も使ってやっと水気が切れた。

 ダイニングに戻ると、美味しそうな香りが漂ってる。


「朝食、今作ってるから、ちょっと待っててね」

「作ってるって……自炊しないんじゃ……」

「一人だと作る気になれないけど、簡単な物なら作れるよ」


 そう言って出してくれたのは、スクランブルエッグと炒めたソーセージ。カップの春雨スープとハムチーズトーストに、大きなサラダ。そしてインスタント珈琲。全部コンビニで揃いそうな物だけど、それでもちょっと手を加えただけでぐっと違う。十分なボリュームの朝食だ。

 ちらっとキッチンを見ると、昨日はなかった油や洗剤がある。わざわざ買って来たのかな?


「いただきます」


 テーブルに向かい合わせに座って2人で食事をする。

 会社で泊まり込みはいつもの事で、徹夜明けのコンビニ飯は何度も食べてるのに、こんな優雅な朝食を狩野さんと一緒に過ごすのがとても不思議だ。狩野さんも朝からガツガツ食べている。昨日は寂しそうに見えたのに、今日はなんだか嬉しそう。それを見てたら自然と笑みがこぼれた。


「どうしたの?」

「いえ……狩野さんが健康的な食生活を送っててよかったな……と思って。これからもたまには、自炊したらどうですか? アメリカンドックばかりじゃダメですよ。野菜も食べないと」

「……一人で食べるなら、何を食べても変わらないよ」

「それなら……私も一緒に食事に来たら、食べてくれますか?」


 かちゃん……と、狩野さんがフォークを取り落として、目を瞬かせた。それから目をそらして大きく溜息をつく。


「あのね……古谷さん。私が既婚者だって油断してないかな? そういう事、男の人に言っちゃダメだよ。いくら私でも勘違いするからね」


 勘違い……と言われてやっと気づく。これからも家に遊びにくる気か、私は。でも……こんな寂しい生活を見てると、ずっと側にいてあげたいな……って、思っちゃうんだよね。どうして……奥さんは狩野さんを置いて出て行ってしまったのだろう。狩野さんの事嫌いになっちゃったのかな?

 どうしても狩野さんを嫌いになる気持ちがわからない。こんなに良い人なのに。


「狩野さん……どうして、奥さんと喧嘩しちゃったんですか? 狩野さん凄い優しいのに……」


 狩野さんは食事の手を止めて立ち上がった。換気扇をつけて煙草を咥える。ああ……そうか。素面で言うには気まずい話題だから。私から目をそらして、煙草をゆっくり吸いながら言った。


「独立する事、妻に反対されてたんだ。でも無理矢理押し切って始めた。忙しすぎてほとんど家に帰れず、すれちがって、顔もあわせられなくなって、稀に顔を合わせれば、何を話して良いかもわからなくなってた。そんな日常を1年も過ごせば嫌になるかもね。全部私が悪いんだよ」


 何でもない事のように、淡々と冷静に語る姿が、かえって痛々しくて目をそらす。狩野さん……ずっと自分を責めて生きてたのかな?

 ふと思い出すのは、お姉ちゃんと仲直りした日、お姉ちゃんも傷ついてたんだと実感した事。それでも……何か理由があってお姉ちゃんは家を出たんだ。たぶん……私の為に。

 お姉ちゃんは離れていても、私を気遣ってメールを送ってくれた。狩野さんの奥さんがまだメールを続けているのは、今でも狩野さんを想っているんじゃないかな……。私は会った事も無い奥さんを、お姉ちゃんと重ねてしまった。


「奥さんは……狩野さんの為にでていったのかな……」


 ぽつりと呟き顔を上げると、驚きの表情を浮かべる狩野さんの顔が目に映る。驚きの表情から一転、とても柔らかく目を細めた。狩野さんの笑顔なんて見慣れたはずなのに、思わず見蕩れるくらい綺麗で柔らかい……とても自然な笑み。

 狩野さんの大きな手が伸びてきて、私の頭をくしゃりと撫でる。間近で見る狩野さんの笑みは、写真にとっておきたくらい綺麗な笑顔だったけど、すぐに消えてしまった。

 ああ……と、気づいた。昨日の夜のシニカルな笑顔以来、ずっと狩野さんは笑わなかった。笑わない狩野さんと過ごす半日。そこに突然現れた笑み。それは……作り物じゃない、真実の笑顔なのかもしれない。

 それから狩野さんはまた目をそらして口を閉ざす。私も黙って食事を続けた。何もしゃべらない二人の食事。でも無言な私達には、奇妙な連帯感があって、その沈黙に気持ちよく浸った。


 食事が終わった後、狩野さんが洗い物を始めたので、ペーパータオルで食器拭きを手伝う。

 その間、狩野さんとは何も話さなかった。狩野さんは笑わなくて、でもなぜかとても居心地が良かった。何も言わなくても心が通じてるようで、まるで一緒に住んでるみたいに自然で。

 ちょっとだけ……狩野さんの奥さんになった気分? そんな邪な事を考えて慌ててその気持ちに蓋をした。図々しいにも程があるよね。


 狩野さんが「駅まで送るよ」と言ってくれたので、お言葉に甘えて一緒に歩く。いつかのように、また手を繋いでみたいな……と、思ったけど、素面でやる勇気もなくて。

 ただ……そっと狩野さんの服の裾を掴んだ。小さな溜息と共に、そっと頭を撫でられる。狩野さんがかすかに微笑んだ気がした。それはきっと許しの証。そのまま裾を掴んだまま、狩野さんの後ろを1歩遅れて歩いた。

 別れ際「もう来ちゃダメだからね」と釘を刺された。もう来るなって言われてるのに、また来て欲しいって思われてるような……そんな気がした。


 帰りの電車に乗ると一気に現実に引き戻される。狩野さんの家での出来事が、まるで夢みたいな不思議な雰囲気がした。とても居心地の良い夢だったな……。思い返すと、ドキドキして頬が緩む。電車に揺られ、ふわふわ楽しかった夢の記憶に浸かっていた。

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