初めての接待
「接待の同行! 私がですか?」
「そう今度の金曜日にね。接待って言っても……まあ、うちの経費で取引先の人と飲み会ってだけで、そんなに堅苦しい席じゃないから」
にこりと笑いながら、狩野さんはたいした事じゃないよと……言っている。助けを求めるように先輩を見ると申し訳なさそう……に目をそらした。
「先輩は行かないんですか?」
「俺の代わりに古谷に行って欲しいんだよ。ストッパーとして」
「ストッパーって……?」
「その取引先の人は日本酒好きでな。つまり狩野さんのストッパー。いつもは俺がしてるんだけど、今色々仕事が溜まってて、金曜は泊まり込みになりそうだし……」
万が一酔い潰されて二日酔いで土日仕事できないと困る……と付け加えられた。つまり私は先輩の代わりの生け贄なんですね。これもお仕事、断れません。
先輩から事前に対処方法を色々レクチャーされ、不安だらけで初接待に向かう事になった。
その日の接待場所はお刺身が美味しい和風居酒屋。日本酒も豊富そうだ。
今日の狩野さんのシャツは紫に白のピンストライプで、襟と袖だけ白。黒の細身のスラックス。ブラウンのベルトがアクセントになってて素敵。珍しくシャツの色がちょっと派手めだな……と思ったけど、それがとてもセクシーで大人っぽくて、よく似合ってておしゃれだ。
私も一応接待……という事で、いつものTシャツ、ジーンズではなく、お姉ちゃんセレクトの、綺麗めカットソーと上品な膝丈スカート。ヒール靴も履いてみた。ちょっとは大人っぽく見えるかな?
「初めまして『earth』の田代華子です。いつもうちの社員がお世話になって」
「初めまして、古谷萌です。こちらこそいつもお世話になっています」
取引先の人ってどんな人かなって緊張したけど……50代くらいの優しそうな女性だった。社員5名の小さな編集プロダクションの社長さんらしい。ほっとした。女性一人っていう安心感もあるけれど……。横目でちらり。
「お久しぶりです。田代さん」
「本当に久しぶり。会いたかったわ狩野さん」
うわあ……わかりやすいくらい田代さんの目が輝いてる。これ絶対狩野さん目当てだよね。接待ってホストクラブか何かですか? 気持ちはわからなくもないけど、これなら私は本当にただのおまけだ。
だからいつもよりも狩野さんの服が華やかなんだ……さすが狩野さん、TPOで服装も使い分けてる。
最初の1杯は軽くビールを飲んで、それから日本酒らしい。
「新人さんが女性だって聞いてびっくりしてたのよ。若い子には目の毒じゃない?」
ふふふ……と含み笑いされて、ええ……まあ……と適当に相づち。
「うちの編集と狩野さんのデザイン、合わせて一つの会社で編集もデザインもできる……というのも良いわよね」
「そこまで買っていただいて嬉しいですが、お互い色々取引先の都合もありますし、難しいでしょうね」
「そうよね……残念だわ」
さすが狩野さん、相手の機嫌を損ねる事なく、良く躱してるな……。話に混じらなくていいみたいだし、お酒のペースにだけ気をつけよう。
サラダが来たらとりわけ、お酒がなくなったら店員を呼んで注文。自分のおちょこを空にして、水を入れてさりげなく狩野さんのおちょこと交換したり。
適度に水にすり替えは気づかれてないみたいだけど、お酌で勧められれば狩野さんも断れない。田代さんも女性にしては結構強いな。ハイペースでどんどん日本酒飲んでるし、これに釣られたら狩野さんも危ない。
「あ、あの……ここ白ワインも扱いあるみたいです。お刺身に白ワインも、いいかもしれませんよ」
恐る恐る……提案してみるのだけど、田代さんは渋い顔。
「ワイン? せっかくの日本料理に……」
「ワイン良いですね、おしゃれで。田代さんに似合いそうだ」
「あ……あら……私に似合うかしら? そう言ってもらえるなら……少しだけ試してみようかしら」
狩野さんナイスフォロー。ワインならボトル1本頼んで、しばらく持つもんね。渋った割には田代さんも結構ワインを飲むペースが早くて冷や汗ものだけど。
「先日はうちの社員が迷惑をかけてすみませんでした。私が新人教育を任せっきりにして気づかなくて」
「なんとか締め切りには間に合いましたので。田代さんもお忙しいですし、社員が増えると目が行き届かなくなりますよね」
「そう言っていただけると助かるわ。今後はこのような事がないように、厳しく注意しておきました。うちももう1冊仕事の受注が取れそうなの。お詫びにそのデザインも狩野さんの所におまかせするわ」
「ありがたいお話です。よろしくお願い致します」
おお……接待らしい仕事のお話。新人教育って……この前のむちゃくちゃな原稿の時の……かな? あの時は大変だったけど、おかげで仕事が増えるならよかったのかな? は、ワインが空だ。ここで日本酒にまた戻られたら困る。慌ててドリンクメニューをチェック。
「このお店、焼酎も豊富なんですね。試しにどうですか?」
「焼酎? 昔飲んだ芋焼酎が臭くて苦手なのよね」
「匂いがダメだったなら、紫蘇焼酎がお勧めですよ。爽やかで軽くて女性に好まれるので、田代さんのお口にも合うんじゃないでしょうか? 2種類頼んで飲み比べも面白いかもしれませんね」
「飲み比べ? それは良いわね」
飲み比べ……関節キスですか? それはもう喜んじゃいますよね。目が輝いていらっしゃる……。
そのまま田代さんはご機嫌に飲み続け、狩野さんも酔っぱらいすぎる事もなく、無事に接待は終わった。ただ……田代さんがなかなか帰りたがらなかったので、凄い長引いて遅くなっちゃったけど。
なんとか田代さんをタクシーに送り込んで、さあ帰ろうか……と時間を見てびっくり。
「しゅ、終電、時間ヤバいです。お先に失礼します」
私は慌てて駅に駆け出した。狩野さんも一緒に走って来て止める。
「古谷さん、お酒で酔ってるのに走ったら危ないよ」
「でも、終電本当にギリギリなんです」
狩野さんの静止を振り切って、駅のホームへと駆け下りる。これなら最終電車にギリ間に合う……と思った所でつるっと足が滑った。慣れないヒールで走ったからいけなかったかもしれない。そのまま階段から落ちて足をぐきっと。
「古谷さん! 大丈夫か!」
狩野さんも慌てて駆け寄ってくれた。幸い頭は打ってないけれど、足首をひねって膝もすりむいた。そして終電は行ってしまった。
「終電乗り過ごした……」
「それどころじゃないだろう。頭を打ってたらどうするんだ!」
珍しく厳しく怒られて凹む。その真剣な表情から、狩野さんが私の事本気で心配してくれてるの、伝わってくるから申し訳ない。盛大に溜息をついて、「仕方がないな……」と狩野さんが呟く。
「古谷さん、鞄を持って。ちょっと失礼」
「へ?」
2人分の鞄を渡されたかと思うと、ひょいっとお姫様抱っこされた。軽々と私を持ち上げる逞しい腕に、びっくりして飛び降りそうになったけど、睨まれたので大人しくする。そのままホームの椅子に下ろされた。
「悪いけど、足触るね。どう、痛い?」
狩野さんが私の足に触れて、怪我具合を確認してる。真面目に確認してるだけだと解るのだけど、凄いドキドキした。腫れてないし骨は折れてなさそうだ。湿布して休めば数日で治りそう。病院に行くまでもないだろうとわかって、狩野さんもほっとしていた。
「さて……どうしようか。終電ないんだよね。この足だと長距離歩けないし、タクシーは……」
「自宅までタクシーって2万円以上かかりますよ」
「それならホテルの方が安いね」
ホテルと聞いてぎょっとした。狩野さんと一緒にホテル……なんて一瞬考えてドキドキ。
「ホテルって……まさか、狩野さんと」
「まさか。古谷さん一人で泊まって。私は帰るよ」
「デスヨネー」
「ああ……お姉さん都内に住んでるんだよね? そこまでタクシーなら……」
「姉の家がどこにあるか知りません。それに今、姉は仕事中ですし」
金曜の夜のキャバ嬢なら、朝までコースだろう。
狩野さんは一生懸命スマホで、ホテルの空席情報を探すんだけど、金曜日で埋まってる所が多くて、空いてても凄く高い。お盆の後でもまだ夏だし、バケーションシーズンだからかもしれない。
いつも冷静な狩野さんが、珍しく慌ててる。私の怪我、たいした事ないのに、心配させちゃったかな?
「経費……は、今日の接待で結構使ってるし、私の自腹でだすしかないかな……」
「こんな高額を自腹って、狩野さんに申し訳なさすぎて嫌です。私は一晩ネカフェでもいいですし。それなら安い……」
言いかけて、狩野さんの笑顔が怖くて口をつぐむ。
「酔ってる上に、怪我して歩くのにも不自由しそうな女の子を、ネカフェに置いて私が帰れると思う?」
「デスヨネー」
責任感の強い狩野さんには無理だ。その後も私がお金がかかるのは嫌だって意地をはり、狩野さんは危ない事はダメだと反対し、意見は平行線で時間だけはどんどん過ぎて行く。私も狩野さんも酔ってたのかもしれない。建設的で冷静な意見が何もでてこない。感情だけがヒートアップして行く。
「すいません……狩野さんの終電も終わりましたよね」
「私はまだなんとかタクシーで帰れる距離だから」
深夜料金のタクシーの交通費はバカにならない。これ以上余計な出費は避けたい。私がお金がかかる事は嫌だと頑に譲らないから、狩野さんも根負けしたように肩を落とし、両手で顔を覆う。大きな溜息とともに絞り出すように声をあげた。
「しっかりし過ぎなのも考えものだな……」
「うちの会社が経済的に厳しいのはわかってますし、狩野さんのポケットマネーにも限度があるんじゃないですか」
「もう……わかったから。それ以上お金の話はつっこまないでくれないかな……。仕方がない。一つ提案するけど、これセクハラだから、嫌なら断ってね」
そう前置きして、お金がかからず、個室でベットで眠れて、簡単に手当もできる場所があると言った。
「そこ、どこですか!」
私が飛びつくと、狩野さんは気まずそうに目をそらして言った。
「私の家」
「えっと……それって……狩野さんと一緒のベット……とか……」
「まさか! うちは妻と私は寝室が別だから、出ていった妻の部屋のベットに空きがあるんだよ」
「それは……万が一奥さんが帰ってきたら、不味い事になるんじゃ……」
「帰ってくる事はあり得ないから、そこは心配しなくて良い」
あり得ないって断言する狩野さんが怖かった。もはや夫婦の仲が修復不可能だって感じがして。狩野さんが私に背を向けたからその表情はわからない。でも……とても傷つけた気がした。その後淡々と言葉を紡ぐ。
「それより問題は、部屋が別でも鍵はついてないし、私を信用してもらえるかって事……。だけど、やっぱりバカな提案だね。忘れて。ホテルを探してくるから」
そう言って背を向けたまま席を立った。狩野さんがとても孤独な人に見えて、私なんかじゃ何もできないかもしれないけど、何か言わなきゃって思って、慌てて狩野さんのシャツの袖を掴む。振り返った狩野さんと目が合った。
「私……狩野さんを信用してるので大丈夫です」
本気でそう思った。狩野さんを上司として、人として、とても信頼している。それに……今日は、もっと側にいたい……そんな風に思っちゃうのは、酔ってるからかな?
狩野さんは凄く躊躇ってたけど、もう疲れてたのかもしれない。私を説得するのを諦めたらしい。
「私は嘘つきだから、あまり信用しない方がいいよ」
シニカルな笑みを浮かべそう言った。




