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世の中そんなに甘くない

 翌日私はミュールを履いて仕事に行った。いつもと同じ、Tシャツとジーンズにミュールって、正直合わないかな……と思ったけど、嬉しくて。せめてジーンズの裾を少しまくってロールアップする、足首を見せるスタイルなら……おかしくないかな?


「お、おはよう」

「おはようございます」


 先輩がちらっと足下を見て目をそらし、デスクに座って仕事を始める。クールな無表情を装ってるけど、耳が赤い。照れてるんだ……可愛い。

 告白とかされてないけど……先輩が私の事意識してるのは確かだし、このまま……恋に発展するのかな……なんて浮かれてたら、世の中そんなに甘くなかった。


「なんですか、この原稿」

「新しく入った新人に任せる……とは聞いてたけど」

「ろくに教育せずに丸投げ、チェックもせずに送ってくる……とか、ちゃんと仕事しろって感じですね」


 三人で頭を悩ませているのは、今日届いたばかりの原稿。写真も原稿もまったく整理されてないぐちゃぐちゃ。さらに誤字、指示ミスがぼろぼろと。これではとても制作に入れない。

 狩野さんが連絡して原稿を送り返し、再度直してもらってまた来る事になったのだけど。


「これ……スケジュール押しますよね。しかもあんな酷い状態が、どこまでまともになるのか……」

「また原稿送り返し……とかになったら怖いね」


 いつまともな原稿が入ってくるかも解らないって……恐ろしすぎる。ひとまず他の仕事をできるだけ早く終わらせようという事になり、月曜から終電帰りの連続。

 社畜に恋は難しい……らしい。せっかくの甘い空気は、仕事という風に吹き飛ばされて消えた。

 予想通り戻って来た原稿も良くなくて、再度戻したりしてたらスケジュールが厳しくて、土日出勤。狩野さんと先輩は泊まり込み。

 やっとその仕事が終わったと思ったら8月になってた。


「そろそろお盆だね」

「ゴールデンウィークみたいな事になるんですか?」

「たぶん……あれよりマシだと思う。古谷もできる仕事増えたし」

「とりあえず……念のため原稿が遅れた時の為に、他の仕事も前倒しで終わらせよう」


 今回は交代で休むとかもせずに、バリバリ仕事をこなし、ゴールデンウィークよりまだマシな速度で原稿が届いた。世の人々がお盆休みを満喫する中、私は何日か会社に泊まり込み、仕事に明け暮れた。

 数日お風呂入れないとか、寝不足すぎてヤバい顔とか、女子として終わってるのは覚悟してたけど、先輩とのあのデートらしきものの後だと、かなり凹む。

 う……うん。これはやっぱり恋とかないかな……。


 お盆あけの締め切りの時間チャイムが鳴った。


「日鈴印刷の営業の米沢です。原稿を受け取りにきましたって……あれ? 今回も伊勢崎君? 古谷さんじゃないの? 僕に会いたくて待ちきれなかった感じ?」

「その減らず口閉じて待ってろ」

「で……それだけ偉そうで、もう原稿できてるのかな? 30分なら待ってもいいけど」

「……すみません、待ってください」


 うわーお、先輩、弄られすぎて哀れ。私が米沢さんと顔合わせたくないってワガママ言ったからで申し訳ない。最終チェックは狩野さんだし、狩野さんが米沢さんの相手してる余裕は無いから仕方がない。

 途中で米沢さんが部屋をでていったから、また謝って閉め切り延ばしてもらってるんだな。まだムカつくけど、仕事だけなら頼もしいんだよね。


 なんとか30分以内に終わらせて、米沢さんに原稿を渡す。


「これ貸し一ね。今度は伊勢崎君だけじゃなく、古谷さんとも一緒に飲みたいな」


 背中しか見えなくても先輩の殺気が尋常じゃない。米沢さんは軽口叩いてから飛び出して行った。米沢さんと飲みとか絶対嫌だ。


「大丈夫だ。いつもの米沢の冗談だし、古谷を飲みにつきあわせないから」


 庇ってくれる先輩が優しくて感動する。連日の徹夜で疲労のピークだったから、またソファで寝落ちた。もはやこれもいつもの事だ。定時に起こされて帰る。段々徹夜明けに慣れてきたな……嫌な慣れ方だけど。

 こんな無茶な働き方ずっと続けてるのに、二人ともよく体力が持つな。私は健康だけが取り柄だし、まだまだ大丈夫だけど、二人の体調が心配だ。特に狩野さんは前に風邪引いたし。また無理してほしくないな。

 お盆休みの修羅場が終わり、次の週にはやっと落ち着いてきた。それでもまだ残業あるんだけどね。残業で夕食の買い出しにでかけたら、帰りがけ狩野さんが煙草休憩してるのを見かけた。


「お疲れさまです」

「お疲れ。忙しくてごめんね。伊勢崎君とデートしてる余裕もないよね」


 ぶっと吹き出して、焦る。すっかり忘れてたけど、デートもどきな事してたの気づかれてたのかな?


「デートって……そんな、先輩と後輩でまだ付合ってません」

「でもそのミュール、伊勢崎君のプレゼントでしょう? まだって事は秒読みじゃない?」


 足下のミュールをチラ見して、にこっと笑う狩野さん。み、見抜かれてる。この人に隠し事なんてできないんじゃないか……って気がする。


「少し余裕もできてきたし、今週は土曜は休日出勤でも早く終わって、日曜休みだと思うよ」


 デートしておいでっていう事? 揶揄われてる気もする。それが悔しくて、ちょっと拗ねた。


「休みでも普通に家で過ごします。先輩と付合ってるわけじゃないし」

「そうなの? 二人ともお似合いに見えるけど」


 揶揄いを含んだくすりとした笑みに苛立つ。狩野さんらしくない、なんだかちょっと意地悪だ。これ以上揶揄われたくなくて、苛立って、つい生意気な事を言ってしまった。


「狩野さんは奥さんと仲直りしたんですか? 私がお手伝いしましょうか?」


 一瞬狩野さんの顔から笑顔が消えた。それから張り付いたような笑顔の仮面で「私は大丈夫だよ」と言った。それが全然大丈夫に見えなくて胸騒ぎがする。


「そろそろ仕事戻った方がいいんじゃない? 私も戻るよ」


 2人でエレベーターに乗ったけど沈黙。密室でおしゃべりもなしって結構キツい。奥さんの話はまだ地雷だったんだ。言わなきゃよかった。まだ仲直りできないのかな。もう離婚話が進んでたりして。

 気になったけど、きっと教えてくれない、そんな気がした。

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