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夏休みの始まり

 7月のある金曜日。今日は先輩が休みの日だ。明日から3日間私も休みだし、上機嫌で仕事が進む。先輩が休み前に頑張ってくれたので、今日の仕事は余裕がある。定時の6時に入稿が1件。それが終われば帰れる。

 いつもの様に追いつめられる事の無い締め切り。この前みたいな失敗をしない為に、何度も見直して原稿が揃ってる事を確認した。後はのんびり仕事をしつつ、定時を待つばかり。自然と雑談が増える。


「狩野さんは土日休めるんですよね」

「そうだね。久しぶりにのんびりするつもりだよ。来週も三連休があるし、こんなに休んでいいのかな……と思ってしまうね」


 土日休みとか、三連休とか、普通の仕事なら当たり前の事なのに、どうして背徳感を感じてしまうのか。それがブラック体質だな。


「明日休みだから、また飲みに行きたいな……」

「あ、私も行きたいです。ご一緒しますよ」

「いいの? じゃあ、どこにしようか。今日は早めに終わるし、明日は休みだし、いつもより遠出して渋谷や新宿でもいいよね」


 青山辺りも飲食店は多いけど、ターミナル駅近くとは、ちょっと店の雰囲気も違うし、たまには違う駅もいいな……。その時ふと思い出して財布を確認。米原さんにもらったショップカード。この野菜の店は新宿だったな。


「狩野さん。野菜を食べに行きましょう」

「ええ……肉じゃないの?」

「栄養バランス大事です。前に行った表参道の野菜レストラン。あれと似た様な店が新宿にあるらしくて。サラダバーで野菜食べ放題ですよ」

「野菜食べ放題より、肉食べ放題の方がいいな……でも、古谷さんが行きたいならそこでいいよ。今度はアイスプラントいっぱい食べられるね」


 ばれたか。

 でも私が食べたかったのもあるけど、狩野さんの体が心配ってのもあるんだよね。

 前に高熱だした事あるけど、ビタミン不足なんじゃないかな。放っておくと本当に食生活が、肉やジャンキーばっかりなんだもの。私が一緒だと気を使っておしゃれなカフェやレストランにしてくれるけど、一人や先輩と一緒だと、ラーメンや牛丼が続くらしい。

 既婚者だから、何かあるはず無いけれど……狩野さんかっこいいし、おしゃべり上手で頼りになるし、ちょっとデート気分で嬉しいな。早く定時にならないかな……とウキウキ気分でいたらチャイムがなった。


「日鈴印刷の営業の米沢です。原稿を受け取りにきました」

「お疲れさまです。原稿できてますよ」

「今日は目が赤くない。余裕のスケジュールだったんですか?」

「そうですね。徹夜や泊まり込みは必要なかったです」


 浮かれ気分のせいか、ついつい雑談で盛り上がる。


「この後飲みに行こうと思って」

「いいですね。僕も今日はこの原稿を社に持ち帰ったら仕事終わりなんで、ビアガーデン行きたいです」

「それもいいですね。あ……この前教えてもらった新宿の野菜のお店。金曜夜って予約無しでも大丈夫ですか?」

「この時間なら……多分まだ大丈夫だと思いますけど、念のために先に一本店に電話しておいた方がいいかもしれませんね」


 さすが営業さん、機転がきく。電話して開いてなければ他の店にすればいいもんね。米沢さんが玄関口から中を覗き込んで、ちょっと首を傾げた。


「伊勢崎君いないんですか?」

「今日は休みで」

「休み? 体調不良ですか?」


 心配そうな表情を浮かべたので、慌ててつけたした。


「いえ。時間の余裕があるので、交代で休みをとって三連休というだけで、先輩は元気です」

「ああ……ならよかった。じゃあ今日は狩野さんと2人で食事ですか?」

「そうですね」


 先輩を弄れないのが残念らしい。米沢さんの笑顔がちょっといつもより元気が無い。そのまま軽い挨拶をして帰って行った。

 部屋に戻ると狩野さんがくすくす笑ってる。


「随分米沢君と仲良くなったんだね」

「す……すいません。つい余計な話しちゃって」

「いいんじゃない? 雑談くらい。でも……あんまり仲良くなりすぎて、伊勢崎君みたいに気に入られないようにね」


 確かに……先輩みたいに弄られたくない。気をつけよう。


 新宿の野菜のお店は店内もおしゃれで、女性客が多かった。サラダバーの野菜も豊富で、アイスプラントはもちろん他にも食べたいものばかり。コース料理全部はいるかな?


「好きなだけとっておいでよ。食べきれない料理は私が全部食べるから」


 さすが狩野さん頼もしい。サラダを大量に食べつつ、まだまだ胃袋に余裕がありそうだ。暑い時期だから狩野さんのシャツもライトブルーの半袖。仕事が忙しすぎて運動してる余裕も無いはずなのに、ちょっと筋肉質なたくましい腕が素敵。

 ビールやワインも扱ってたので、軽くビールを飲みつつ、ワインをボトルで1本頼みシェア。

 最近私も少しづつビールが美味しいと思える様になってきた。ワインも好きだ。酒飲みに一歩づつ近づいてるな。ワインをぐびぐび飲んでいたら、狩野さんが困った微笑を浮かべて私のグラスをとりあげ、お冷やを渡された。


「ちょっと今日ピッチ早い。古谷さんはお酒強いかもしれないけど、ワインはアルコール度数高めだし、あんまり急いで飲むと酔っちゃうよ」

「す、すみません」


 自分ではそんなに酔ってる自覚無かったんだけど……早かったかな? 狩野さんは苦笑して、ワインをごくごく飲み始める。随分急いで飲んでるけど、残りを一人で飲む気なのかな? いつもより狩野さんが酔ってるような……。熱燗じゃないし大丈夫だよね?


「こうして二人で飲むのって久しぶりですね。ゴールデンウィーク前以来」

「そうだね……」


 そこでちょっとだけ、狩野さんが何か躊躇って口を開いた。


「その後お姉さんとどうなったの?」


 びくりと体を震わせた。私の反応を見て狩野さんが慌てた様に付け足す。


「ごめん。聞かない方が良かったね」

「大丈夫です。あの後……6年ぶりにメールを返して、時々メールで連絡とってます。まだ直接は会ってないけど、以前より姉の事、嫌いじゃなくなりました。会った方がいいかな……と思うんですけど、まだ躊躇ってて」


 狩野さんはほっとしたように「そうなんだ、よかったね」って呟いた。それがとても嬉しそうに見えて、気にしてくれてたんだなって思えた。狩野さんは奥さんとどうなったんだろう? あの話の続きが気になって、私のプライベートに踏み込まれたから、ちょっとだけ、いいかな……って、甘えた。


「狩野さんは奥さんとどうなったんですか? 奥さんと会ったんですか?」

「会えなかった」


 その言葉の寂しさに胸を締め付けられる。「大丈夫だよ」そう……言葉を付け足したけど、全然大丈夫に聞こえなくて、空気が重くなる。


「余計なお世話だけど、手遅れになる前に……お姉さんと一度会って話した方がいいかもしれないよ」


 手遅れって……狩野さんと奥さん、そんなに不味い状況なのかなってどきりとした。そして自分の身に置き換えて、お姉ちゃんと二度と会えない……と考えてぞっとした。その怖さを振り払うため、慌てて無難な話題に変える。


「狩野さん、休みをどう過ごすんですか?」

「どうしようかな……一人で温泉にでも行ってくるか、のんびり家で過ごすか」


 休みでも奥さんに会う気ないんだ。一人で過ごすの前提って……それって寂しくないかな? ちょっと狩野さんが心配になった。


「あ、あの……私も、土日休みですし、どこか行くならお付き合い……しても……一人だと寂しいし」


 自分でも顔が赤くなってたと思う。狩野さんは困ったように微笑を浮かべた。


「一人だと寂しい? 古谷さんが? 私が? ……両方かな?」


 奥さんと会えないなら、一人寂しく過ごすくらいなら、私が一緒に居た方が……なんて下心、狩野さんにはまるっとお見通しだ。


「古谷さん……気持ちは嬉しいけど、私は大丈夫だから。古谷さんも休日を楽しんでね」


 大丈夫の言葉で、ぴしゃりとシャットダウンされた。……まあ、別居中とはいえ、奥さんいるし、こんな事言われたら困るか。狩野さんは物腰柔らかで優しいけど、深入りしようとすると拒絶される。こんなに近くにいるのに、心はいつまでも遠くて、もどかしいな。


 食事が終わってさあ帰ろうと立ちあがりよろめく。

 あ……あれ? もしかして結構酔ってる? さっきまで普通だと思ってたのに、一気に酔いがきた。


「やっぱり酔ってたか……大丈夫? 古谷さん。歩ける?」

「だ、大丈夫です」


 油断せずに歩けば、まっすぐに歩けそうだ。慎重に歩いてたつもりだったけど、店から出て道へ一歩踏み出した時、段差に気づかなくて転びかけた。

 さっと狩野さんが支えてくれて、ありがたく腕に掴まった。表参道の時はドキドキしてすぐ離れたけど、今は酔ってるのもあって、慌てるとさらに転びそうだ。

 それに……もうちょっと狩野さんの腕の中に包まれてみたい……そんな欲が出た。


「萌!」


 突然背後から声が飛んで来て、心臓が壊れるんじゃないかと思う程ドキドキした。だって……この声。6年ぶりでも忘れるわけが無い。


「……お姉ちゃん」


 振り返ると姉がいた。盛った髪に、派手なメイク、露出度の高い服。どう見てもキャバ嬢だ。そんなお姉ちゃんの姿を見たくなくて、思わずすがる様に狩野さんを見上げる。


「お姉さん……なんだね?」


 困った表情の狩野さんが、そっと私から離れていく。ああ……狩野さんは事情を知ってるし、察してくれたんだな。こっそり「一緒にいた方が良い?」と聞いてくれた。思わず頷く。


「初めまして。古谷さんのお姉さんですね。私は古谷さんの上司で狩野直之です。いつも妹さんにはお世話になっています」


 丁寧に狩野さんがお辞儀すると、お姉ちゃんも頭を下げた。


「古谷唯です。妹がお世話になっています」


 言葉は丁寧だけど表情は硬い。ちょっと怒ってる様な気がする。お姉ちゃんが近づいてきて私の顔を覗き込む。


「萌……酔ってるの? 大丈夫?」

「う……うん。大丈夫」

「酔い覚ましにお茶でも行こうか? お姉さんとお話したいんじゃないかな?」


 狩野さんの提案に私はびくりと震え、首を横に振ったが、お姉ちゃんも同意したので、結局三人で近くのコーヒーショップに行った。


 酔いも冷めるぐらい緊張している。顔も声も確かにお姉ちゃんだけど、まるで別人に見えた。席について改めて、狩野さんとお姉ちゃんは、お互い頭を下げて挨拶した。

 うわ……お姉ちゃん。その服で前屈みだと胸の谷間見えるじゃん。狩野さんも困った様にそっと目をそらしてる。


「久しぶりね。萌。会えて嬉しいわ」

「う……うん」


 お姉ちゃんが親しげに話しかけるけど、まだやっぱり別人に見えて戸惑う。だからまともに返事ができない。狩野さんがさりげなく話題をふって、お姉ちゃんと狩野さんが世間話してくれるのでほっとした。最初お姉ちゃんが怒って見えたけど今は和やかだ。


「狩野さん。お煙草吸われるんですか? ここ喫煙席ですしどうぞ」


 お姉ちゃんににこりと微笑まれて、狩野さんが「では1本だけ……」と煙草を取り出して口にくわえる。するとすかさずお姉ちゃんが、胸の谷間からライターを取り出して、火をつけて差し出す。

 狩野さんはぎょっとして「やっぱり外で吸ってきます」と席を立った。さすがに私も怒った。


「お姉ちゃん! 何やってるの。恥ずかしい」

「何やってるのって言いたいのはこっちよ」


 眉を吊り上げてまっすぐに私を見て言った。


「既婚者の上司と2人で食事して、酔う程酒を飲まされて……何かあったらどうするの」


 何かって……お姉ちゃんの想像があまりに酷くて、私の体温が急上昇した。


「お姉ちゃんに何が解るって言うの! 何も知らないくせに。狩野さんは紳士で常識もある人。お姉ちゃんの基準で考えないでよ」

「萌はまだ子供だし、騙される事もあるんじゃない?」


 かっとなって手を振り上げて、その手を狩野さんに掴まれた。


「落ち着いて……古谷さん。皆が見てるよ」


 気づいたら店中の人がこっちを見てた。かなり大声で喧嘩してたのに気づいて、冷静になり恥ずかしくなった。渋々椅子に座り直して俯く。今お姉ちゃんの顔を見たらまた怒鳴ってしまいそうだ。


「お姉さんの懸念はごもっともです。私の配慮が足りずに酒を飲ませすぎました。申し訳ありません」


 狩野さんが大人の対応で謝ってくれてとても申し訳ない。俯いたままちらりと横目で狩野さんの様子を伺うとわずかに焦ってる感じがした。お姉ちゃんが「いえ……こちらこそ失礼しました」って返すと、狩野さんもほっとした様に表情が柔らかになる。お姉ちゃんと私の仲、気にしてくれてるのかな?

 狩野さんが穏やかな微笑を浮かべながら、世間話みたいに何気なく言った。


「一つ聞いてもいいですか? 今日……お会いしたのは偶然ではないですよね? 私の事もご存知のようだ。煙草を吸う事とか」


 狩野さんの指摘に驚いて顔をあげる。お姉ちゃんが目をそらして沈黙したので、狩野さんの言葉が真実だってわかった。そうだ……そういえば前にも、何故か私の仕事の事を知ってた。怖い。何処で私の情報を知ったの?


「お姉ちゃん……誰から何を聞いたの?」

「……萌が、今度2人で会ってくれるって約束するなら、話すわ」

「それは嫌!」


 反射で断ってから狩野さんに諭される。


「今日は感情的になりすぎてるし、落ち着いて2人で話した方がいいんじゃないかな?」


 狩野さんがとても真剣な顔で言うので私も断れない。かなり心配させてるな……これは。「手遅れになる前に」って言われた事を思いだして、私も勇気をだそうと決めた。渋々日曜日にお姉ちゃんと会う事を了承する。するとお姉ちゃんはバックから一枚の名刺を差し出した。


「お店に時々来てくれるお客さんから聞いたのよ」


 名刺には「米沢隆」と書かれていた。

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