悲しみの共有
一日休んで次の日はいつも通りに出勤。今日は先輩が休みで狩野さんと2人で仕事か……。狩野さんが取引先に打ち合わせに行って、先輩と2人というのは何度もあったけど、狩野さんと2人だけで仕事って、ほとんどない。
仕事的には追いつめられてるし、不謹慎だけどちょっと嬉しい。
ゴールデンウィーク空け、締め切り直後の死んだ様な状態になったら、他の仕事も遅れるかもしれない……という事で前倒しに仕事。でも仕事量自体は少ないし、焦る必要も無い。
「狩野さん、お昼どうしますか?」
ちょっとだけ期待した。これだけ暇だし、2人でまた楽しくランチをできないかな……って。
「古谷さん行ってきていいよ。帰りがけに私の分も買ってきて。バイク便待たなきゃ行けないし、もし原稿来たら、即仕事に入りたいしね」
浮かれてすみませんでした……と凹み。そうしたらくすりと笑う声が聞こえた。
「そんなに食事が楽しみだったの? じゃあ……もし夕方までに原稿来なかったら夕食奢ろうか?」
夕食奢り! ランチは何度かあったけど、夕食を一緒ってほとんどない。歓迎会くらいだ。本当は原稿来た方がいいんだけど、夕食の奢りも魅力的で、複雑な気分。
その日、狩野さんは煙草休憩もとらずに、ずっと待ってたけど、原稿は来なかった。
定時を過ぎたら原稿は来ないし、残業する程仕事も無い。だから夕方すぐに私達は会社をでた。
「ごめん、古谷さん、ちょっと待ってもらっても良い?」
1階エントランスでそう言われて、ああ……煙草休憩か……と、どうぞと見送る。ついつい狩野さんを見ちゃうんだけど、煙草吸ってる時が一番クールでセクシーでかっこいいんだよね。普段笑顔な分ギャップ萌えっていうの。ちょっと無防備だし。
今日は黒のシンプルなシャツでボタンを空けて首元を見せている。太くて男らしい首にちらっとネックレスが見えて、ドキドキする。選ぶ服だけでなく、着こなしが上手なんだよね。
携帯が鳴ったのか、狩野さんは煙草を吸いながら取り出して確認する。たぶん、メールだったんだろう。じっと見てちょっと悲しい顔をして返信はしなかった。どうしたんだろう?
「お待たせ」
「……メールですか?」
「うん。妻から。たいした用事じゃないよ」
さらっと流されたけどドキドキ。上司と部下だけど、一応これでも男と女で、明日は狩野さん休みで、そんな休み前の夜に私と食事なんてしてていいんだろうか? 今更ながら気づいて、ちょっと不安でモヤモヤ。
やってきたのはベトナム料理のお店。狩野さんに熱燗は飲ませたくないし、トムヤムクンって一度食べてみたかったんだよね。
「アジアン料理って女の子は好きそうだけど、食べた事がなかったんだ」
「カップラーメンのトムヤムクンヌードルは食べた事あるんです。でも高校はバイトに明け暮れて、専門は課題に終われて、忙しいしお金は無いしで、全然遊ばなくて」
専門学校は学費以外に、画材代やPCソフト代とか結構お金がかかる。学費は親に出してもらったけど、他の費用まで出してもらうのは申し訳ない。
かといって専門学校の課題量の多さでは、バイトなんてしてる暇はないし、高校時代に必死にバイトして貯めたお金でなんとか賄ったのだ。
「偉いね……それだけ苦労したから、古谷さんしっかりしてるんだ」
「そ、そんな事ないですよ。今時学費も親が出せずに奨学金に頼る人も多いし、それに比べたら私はまだ良いほうです」
狩野さんはビール。私は甘いお酒を軽く飲みつつ、前菜の生春巻きを食べる。ベトナム料理って野菜たっぷりでヘルシーだな。女の子に人気なわけだ。狩野さんも相変わらずがっつり料理を頼んでるな。本物のトムヤムクンは、当然だけどカップラーメンより美味しい。
おしゃべりも楽しい夕食……なんだけど、やっぱりちょっと後ろめたい。奥さんがいる人と2人でお酒を飲んだりしていいのかな……とか。だから言わない方が良いとわかっていてもどうしても聞いてしまった。
「あの……明日は休みなのに、私と食事してていいんですか? ひさしぶりに奥さんと食事……とか」
狩野さんは一瞬瞬きをして息を止めてから、にこりと笑った。
「大丈夫。家に帰ってもいないから。別居中だし」
最高の地雷踏んだ! そうか……これを聞かれたくないからこの前のランチで、はぐらかしたのか。ど、どうしよう……気まずいし申し訳ない。やけ酒……はしゃれにならないし、やけ食い……は、もう十分に食べてるし。焦った私の目にソレが映った。
……コトリ。
「ここ喫煙席だからどうぞ」
差し出された灰皿にちょっとだけ狩野さんは躊躇した。
「お酒を飲むと煙草が吸いたくなるって聞いた事があります」
せめて煙草でリラックス……してもらえたらいいなと思ったのだ。狩野さんは苦笑して煙草を取り出した。
「じゃあ……お言葉に甘えて1本だけ。酒を飲むと吸いたくなるけど我慢してたんだよね」
そう言って煙草に火をつけた。煙草一本吸うだけの時間、笑顔の仮面を付けない素の狩野さん。きっと吸い終わったらまた笑顔に戻って、話題を変えて楽しくおしゃべり……なんだろうけど。私は笑って話ができる自信がなかった。これ以上踏み込んじゃいけないという気持ちと、でも聞きたいという気持ち。鬩ぎあって……最終的に、自分も踏み込まれる覚悟をした。
「奥さんと上手くいってないんですか?」
私の質問に狩野さんは目線を落として、ゆっくり煙を吐きながら呟いた。
「最近はメールしかしてないね。たぶん……そのうち離婚するんじゃないかな」
他人事の様にあっさりとした返事。それが私の胸を打った。男性と付合った事もない私が、夫婦の問題をわかるなんて言っちゃいけないけど、それでも……狩野さんの気持ちがわかる気がしたのだ。私ととても似てる気がして、他人の気がしない。
煙草ももう吸い終わる。きっとこれ以上狩野さんは何も教えてくれない。でも……このまま何も無かった事にして終わらせたくなかった。狩野さんがプライベートを見せてくれたなら、こっちも明かして信用してもらいたい。
それで聞かれてもいないのに余計な事を言ってしまった。
「実は……私の4つ上の姉は高3の時に家出して、6年会ってないんです」
私の突然の告白に、狩野さんもどう反応していいのか困ったのか固まった。
「あ……大丈夫です。ちゃんと生きてます。今は新宿でキャバ嬢やってるみたいで」
これも反応に困る話だろう。それでも狩野さんは静かに話を聞きながら、絶妙なタイミングで相づちを打ってくれる。だから今まで誰にも話さなかったお姉ちゃんの事を、するすると語ってしまった。
美人で、優しくて、頭が良くて、おしゃれなお姉ちゃんは私の自慢だった。子供の頃からとても仲が良くて、一緒に買い物に行ったり、遊びに行ったり。私の初恋の悩みを相談する程に信頼していた。
なのに……ある日突然何も言わずに家出した。理由は書いてなかったけど、置き手紙はあったから自分から家をでたのだ。
とてもショックだった。大好きなお姉ちゃんが突然いなくなった事も、別れの言葉も、理由も何も言ってくれなかった事も。
家出前に姉が両親と何度か喧嘩してるのを見かけた事がある。でも何が原因かは知らない。高校3年だし、進路とか将来の事とか、そういう事で意見が食い違って喧嘩してるのかな……と思ってた。でもまさか家出するなんて。
最初は悲しくてしかたがなかった、お姉ちゃんが無事か心配だった。次第に何も言わずに出て行った事や、まったく連絡してくれない事に腹が立った。お姉ちゃんが出て行ったせいか、両親は打って変わって私に優しくなった。まるで腫れ物に触るみたいに。私にまで出て行かれたくないのだろう。それが余計に気に障った。
悲しみと怒りでぐるぐるして、まるで悲劇のヒロインになった気分がして、自分の不幸に酔ってるうちに、限界を超えてふっと思ったのだ。
家出なんてよくある話。私に関係ないじゃんって……。お姉ちゃんの事を他人事にして忘れてしまいたくて。
家出から1年後、お姉ちゃんから突然メールが来た。元気にやってるか? と私の身を案じ、自分は今どんな生活をしてるという近況報告。でも返事をしなかった。もうその頃には私はすっかり意地っぱりになってしまって、お姉ちゃんと話はしたくないって無視してた。
その後も時々お姉ちゃんから近況報告のメールが来た。でも高校に入ってバイトに明け暮れ、専門では課題に熱中し、忙しいって逃げて一度も返信していない。
「返事が来ないのに……どうしてお姉ちゃんはメールを送ってくるのかな……」
私の独白に狩野さんはそっと寄り添う様に言った。
「ずっと会わずにメールだけ見てるうちに、メールの向こうに人がいる事を忘れてしまうね」
狩野さんの言葉の優しさが私の中に染み渡って嬉しくて泣きそうだ。そうだ……私の記憶の中のお姉ちゃんと、キャバ嬢してる女の人、どうしても一致しなくて、他人みたいで、お姉ちゃんの事を思いやる気持ちすらなくしてた。
お姉ちゃんの話を誰かにしても、お姉ちゃんを怒るか、仲直りした方が良いと説教するか、大変だねってわかりもしないのに同情するか。そんな反応しか想像できなかったけど、狩野さんの言葉は真実、私の気持ちを理解してくれていると思えた。
狩野さんも……同じ様にメールだけの関係になるうちに、奥さんの事を他人事にして逃げちゃったのかな?
それからほとんど話もせずに店を出た。駅まで歩く途中も静かで、でもその沈黙がとても居心地がよい。私と狩野さんは同じ悲しみを共有してる気がして、その悲しい気分に静かに浸りたかったんだ。
そろそろ5月といっても、まだ夜は肌寒い。寂しい気分に酔って、いつもより狩野さんに近寄って歩いた。ふと手がぶつかって、その冷たさに驚く。お酒を飲んだばかりなのに。
お酒はたいした量飲んでなかったけど、空気に酔ってたかもしれない。魔がさして、その手に触れてみたいって思った。狩野さんの手に手を重ねたら、冷たい手に優しく握り返される。
どくん、どくん、鼓動がうるさい。期待しちゃいけないってわかってても、嬉しくてしかたがなくて、思わず見上げた。優しい目をした狩野さんと見つめ合い、まるで動揺してない艶やかな笑みにときめく。
「人恋しくなった?」
思わずこくりと頷く。握られた手が離れていく。寂しいな……そう思ったら、狩野さんの大きな手が、優しく私の頭を撫でた。その手の感触が心地よくて、もっと甘えてみたくなって……狩野さんに寄りかかろうとして、するりと逃げられる。「これ以上はダメだよ」って釘をさされた。
そうだよね……既婚者だし。上司と部下以上の関係を求めてはいけないんだ。それから狩野さんのちょっと後ろを俯いて歩く。今……狩野さんの顔を見たら、また甘えてしまいそうだ。
ずっと俯いて歩いてたけど、帰りのホームで私は狩野さんを見上げる。狩野さんの穏やかな微笑は、いつも通りのはずなのに、とても寂しそうに見える。
「明日……奥さんと会うんですか?」
狩野さんは変わらぬ笑顔で答えた。
「そうだね」
電車に乗って一人になったら急に寂しくなった。狩野さんの冷たい手の感触を思い出して、頬が赤くなるのがはっきりわかる。慌てて首を振って、想い出の残滓を振り落とす。
「狩野さん……奥さんに会いに行くのかな」
きっと今、とても寂しいと思う。あんな話をしてたら会いたくなったと思う。私も今、無性にお姉ちゃんに会いたい。
だから……携帯を手に取ってお姉ちゃんにメールした。
『元気だよ』
その4文字が6年ぶりの姉妹の会話だった。




