些細な違和感
今週は木曜日に入稿か……。とはいっても、泊まり込みや徹夜が必要ないくらいの余裕。普通に三人で夜遅くまで残業すれば良いんだからほっとした。
水曜日。朝一番に来て掃除をする。今日はトイレを掃除しよう。風呂場の物置は色々ありすぎて手がつけられない。トイレと洗面台だけ掃除した。洗面台には2人分の歯ブラシとひげ剃りとヘアワックス。ワックスは狩野さんの分だろうな。先輩の髪はサラサラで、セットしてなさそう。
掃除が終わってトイレを出ると、狩野さんがデスクに座って仕事してた。
「おはようございます」
私が声をかけたらびくっとしてから振り向いた。
「おはよう。来てたんだ。掃除してくれたの? ありがとう。助かるよ」
玄関に私の靴があるのに、気がつかなかったのかな? ちょっと気になったけどそのまま仕事に入った。
三人で今日もいつも通り仕事。昼飯の買い出しを頼まれる。
「狩野さん、アメリカンドックいらないんですか?」
「うん、今日はいいよ」
おにぎり2個だけって……狩野さんにしては少ない。珍しいな。何となくおかしい気もするけど、仕事は普通に進んでるし、まあいっか。
先輩がトイレで席を立ってる時に電話が鳴った。私は基本的に電話に出ない。仕事の用件がわからないから2人に取り次ぐだけだし。狩野さんが電話にでるかな……と思ったのに、しばらくコール音が続いてもでない。
「狩野さん、電話ですよ」
狩野さんが慌てたように受話器を取る。電話に気づかなかったの? 仕事に集中してたのかな?
「はい、狩野デザイン事務所です」
いつも通りの柔らかなバリトン。いつも通りの営業トークだし、大丈夫……だよね?
「入れ込み終わりました」
「今こっちは作業中だから、狩野さんに渡して」
「わかりました。狩野さん仕事が終わりました」
私の声かけに振り向くけど、いつもより笑顔を作るのが遅れる。狩野さんらしくない。
「ありがとう。次はこっちをよろしく」
いつも通りの対応なんだけどやっぱりおかしい。ふとデスクの隅にポカリスエットが目に入った。甘い物が苦手な狩野さんが飲んでるの、初めて見たな……。
いつも通りの仕事ぶり、でも些細な違和感の積み重ね。それが一つの推測に結びついた。
「狩野さん、失礼します」
狩野さんの額に手を当てると尋常じゃないくらい熱い。狩野さんは乾いた笑みを浮かべながら、イタズラが見つかった子供の様に気まずそうに呟いた。
「バレたか……すごいね、古谷さん。隠してたつもりなんだけど」
「狩野さん具合が悪かったんですか?」
慌てて立ち上がる先輩。気づいてなかったようだ。当然だ。私だって全然気づかないくらい普通に仕事してたもん。
「ただの風邪だからたいした事無いよ。明日入稿で忙しいし、休んでる暇は無いからね」
笑ってごまかすけど、笑顔にちょっとだけ力が無い。
「まだ駅前の病院が空いてる時間です。行ってきてください」
「いや……本当にたいした事は無いから」
先輩が凄く真剣に病院を勧めて、狩野さんの抵抗は弱い。きっぱり断れないくらい弱ってるのかな。とても不安になった。
「先輩。私は泊まり込みでもなんでもします。だから2人でどうにかできませんか?」
先輩はしばらく考え込んで、「どうにかする」と言った。
「狩野さん。私達に仕事を任せて病院行ってください。そのまま帰って寝てください。体調管理も仕事のうち、ですよね」
私にまで言われてさすがに狩野さんもひるんだ。とても申し訳なさそうに肩を落とす。
「ありがとう。お言葉に甘えて今日は帰らせてもらうね」
狩野さんが帰るのを見送って溜息がもれた。大丈夫かな?
「古谷は凄いな。俺全然気づかなかった。気づいてくれて助かった。ありがとう」
「いえ……たまたまですよ」
「狩野さん前にも一度、具合悪いのに隠して仕事してた事があって、俺は狩野さんが倒れるまで全然気づかなかったんだ」
倒れるまで気づかなかったって……それは先輩が鈍感なのか、狩野さんのごまかしが上手すぎたのか。たぶん後者だろうな。
先輩が真剣に考え込みながら、今後の仕事の流れを話す。
「幸い、新規デザインページはもうないから、後は入れこみとレイアウトだけ。古谷は急ぎで入れ込みして、どんどん俺に回してくれ」
「はい」
「俺もかなりペースアップするから、ケアレスミスが増えると思う。古谷、チェックしてくれないか?」
「わ、私が先輩のチェックですか?」
「俺達も徹夜明けとか、集中が切れるとミスが増える。だからいつもは狩野さんと交換して互いにチェックしてるんだ。でも今日は狩野さんはいないし、古谷がやるしかない」
きっぱり言い切られて頷くしか無い。凄い責任重大だ。プレッシャーだが、狩野さんに仕事を任せてと大見得切ったんだ。できる事は全力でやらないと。
「レイアウトが終わったら印刷するから、原稿と照らし合わせてチェックして。ミスがあったら印刷物に書き込んで俺に渡してくれたら直すから」
「はい、わかりました」
それからは時間との勝負だった。未だかつて無いスピードで必死に入れ込みどんどん先輩に渡す。途中でチェックを頼まれ、目を皿のようにして原稿を隅々までチェック。確かにちらほらミスが見つかった。それをメモして先輩に渡し、また入れ込み作業に戻る。
それをひたすら繰り返す。眠気なんて吹き飛んで、時間が経つのがとても早く感じる。まだまだ終わらないのに間に合うのか不安で仕方が無い。でも焦って私もミスしちゃダメだ。
「古谷、珈琲入れて」
先輩に言われてはっと気づく。時間は1時を回ってる。夕食を食べる事すら忘れてた。慌てて2人分の珈琲をいれて飲む。今日は私もブラックだ。一口飲んでほっとしたら、自分が緊張しすぎてた事に気がついた。あのままだったら慌てすぎてミスしてたかも。先輩の気遣いがありがたい。
すぐに作業に戻って集中する。余計な事は一切忘れて仕事に集中できた。珈琲休憩が大きい。あまりに集中しすぎて朝になってた事さえ気がつかなかった。
「おはよう。昨日はほんと、迷惑かけてすまない」
朝7時、狩野さんが出勤した。
「大丈夫ですか?」
「病院で薬貰ってしっかり寝た。熱も引いたしもう大丈夫」
聞けば病院の診察時点で39度もあったとか。そんな高熱でいつも通りに仕事してた狩野さんが怖い。昨日無理矢理休ませてよかった。
「2人とも食事してないよね? コンビニで買ってきたから」
うう……体調悪くてもさすがの気遣いが嬉しい。先輩と2人で急いで食事してる間に、狩野さんが状況をチェックする。
「かなり進んでるね。ありがたい」
「でも……私のチェックで大丈夫ですか?」
「まだ原稿は残ってるし、私がチェックする時間はない。2人を信じるよ」
狩野さんに信じると言われて凄い嬉しい。その後も三人で急ぎで仕事した。私と先輩は徹夜明けでエネルギー切れを起こすし、狩野さんも病み上がりで本調子がでない。それでも三人で必死に仕事する。
玄関のチャイムが鳴って慌てて私がでた。
「日鈴印刷の営業の米沢です。原稿を受け取りにきました」
ヤバい。まだまだ全然終わってない。
「す、すみません。まだ終わらなくて」
「伊勢崎君。後どれくらいかかりそう?」
「1時間で終わらせます」
米沢さんは時計をちらっと見てすぐに部屋を出た。半端に開いた扉の向こうで米沢さんの声が聞こえた。
「時間がない中、申し訳ありません。どうにか締め切り待って頂けないでしょうか?」
すごく真剣に電話に向かって頭をさげる米沢さん。私達が悪いのに謝罪させて申し訳ない。私も慌てて入稿準備を手伝う。
すぐに米沢さんが戻ってきて余裕の営業スマイル。
「1時間だけだよ、伊勢崎君」
「すみません、助かります」
米沢さんが無理して作ってくれた時間だ。絶対に間に合わせないと。三人で必死に仕事して、なんとか1時間以内に終わらせた。
米沢さんが原稿を受け取りながら、軽い調子で告げる。
「伊勢崎君。これ貸し一つね。今度奢ってもらうよ。綺麗なお姉さんがいる所がいいな」
それだけ言って飛び出して行った。
切羽詰まった状況でも、先輩を弄る余裕がある米沢さんがすごい。先輩が無言で般若みたいな顔をしている。
「余計な事を言うから、素直に謝罪できないだろう」
「謝罪はいらないっていう、米沢君なりの気遣いじゃないかな?」
「そんな気遣いいりません」
2人のそんな調子にくすっと笑って緊張がとける。そうしたらもう立ってるのもしんどくて、思わずソファに倒れ込んだ。
うう……すごく眠いけど、お腹もすきすぎて、疲れも酷い。頭がチカチカする。食事したいけど、買いに行くエネルギーもない。そういえば朝少し食べたけど、夕飯も昼飯も抜きだった。
その時テーブルに期間限定キットカットが置かれた。
「食べていいぞ」
先輩の備蓄! 私は大感謝して飛びついた。先輩だけでなく、甘いもの嫌いの狩野さんまでチロルチョコもらってる。重症だ。
キットカットを食べたら、とたんに眠くなってすこーんとソファで寝落ちた。
「古谷。起きろ。もう定時過ぎたぞ」
先輩に声をかけられ、慌てて飛び起きる。何時間寝てたんだ。
「そのまま寝かせてあげたかったけど、定時過ぎたから私達も帰るし、古谷さんも帰ろう」
狩野さんが疲れた顔でそう言った。私一人がソファを占拠して寝落ちて申し訳なかったけど、狩野さんと先輩も、交代でデスクで寝たから気にするなって言われた。
久しぶりの定時上がりだけど、お腹すきすぎでよろよろのくたくただ。途中で買い食いしつつ、家に帰って一眠りして、夕食を食べて泥のように眠った。それだけ疲れてても翌日は普通に仕事ってのが辛い。




