深夜三時のコーヒーブレイク
子供の頃から本が好きだった。
図書館で本屋で装丁に目を奪われ、手に取って物語の世界に引き込まれる。
装丁は物語の扉で案内人なんだ。どれだけ素晴らしい小説でも、見た目が悪ければ手にも取ってもらえない。
みんなの目を引く本のデザインを作りたい。
……それが私の夢だったはず。会社に入るまでは。
午前三時。青山の外れの小さなワンルームマンションにある狩野デザイン事務所は、絶賛仕事中。
この時間に働いてても、おかしいと思わなくなった。私は立派な社畜だ。
狩野デザイン事務所は主な取引先は、海外旅行雑誌の出版社。今作っているのもバリ島のガイドブックだ。
ディスプレイに映る、エキゾチックな踊りがケチャだという事を、この会社に入ってから知った。
南国リゾートの美しい写真は、お腹いっぱいなくらい見慣れすぎて、行きたいと思わない。
旅行に行くくらいなら、いっぱい寝て、美味しいもの食べたい。
そう思いながら、最後のデータチェックをしていた。
「古谷さん。進捗はどうかな?」
柔らかなバリトンボイスが耳に響いて、思わず顔を上げた。
上司の狩野さんだ。
いつもは綺麗にセットされたくせ毛が、修羅場で崩れてる。かすかに香るコロンの香りとタバコの匂い。相変わらずセクシーだ。
かっこいいなと思いつつ、ちょうど出来上がった原稿を手渡す。
「はい。終わりました」
「ありがとう。もう古谷さんに頼むところは終わったから、休憩して良いよ。お疲れ様」
にっこり笑って自分の席に戻って行く。
たとえ二徹目の余裕のない状況でも、絶対にお礼と労いの言葉を欠かさないところはさすがだ。
「やったー! 眠れる」
その時近くの席に座っていた伊瀬谷先輩がくるっと振り向いた。
細身で中性的に整った顔立ち。黒いサラサラの髪が綺麗だ。
……たぶん先輩に綺麗って言ったら拗ねるな。男に綺麗とか言うなって。
大きなヘッドフォンを首にかけて、切れ長の瞳でじっと私を見る。いつも通りの真面目な顔なのだけどドキッとした。
「古谷。冷蔵庫に入ってるレアチーズケーキ一個食べて良いぞ」
「良いんですか? 先輩の分じゃ……」
「俺の分は二個キープしてあるから気にするな」
さすがスイーツマニアな先輩。三個買ってあるとは。
「いらないなら無理する必要ないが」
「いります。お腹ペコペコです」
素直にそう言ったら、先輩はよかったと呟いて、くしゃっと笑った。普段あまり笑わない分、たまの笑顔は破壊力抜群だ。
……たぶん、初めから私の分も買ってくれたんだよね。それを言わないところが不器用なのだけど。
「紙パックの野菜ジュースも飲んでいいから。コンビニ弁当ばかりだと栄養偏るしな」
先輩はそれだけ言って、ヘッドフォンをつけて仕事に戻ってしまった。
私の健康面まで心配してくれて、お母さんみたいだと言ったら、たぶん怒られる。
ワンルームマンションをそのまま事務所にしてるだけなので、自分のデスクから、キッチンへは一分もかからない。
キッチンに古い電気コンロが一つだけ。その下にホテルについてるみたいな小さな冷蔵庫がある。
冷蔵庫を開けるとレアチーズケーキが三個と、紙パックの野菜ジュース。それに小さな箱が入っていた。
取り出して見ると、トリュフチョコのようだ。
コーヒーを入れに来た狩野さんが言った。
「古谷さん。よかったらそれ食べてくれる? 貰ったんだけど、私は甘いものが苦手だから」
「う、嬉しいのですけど……私にですか?」
ちらりと先輩の背中を見るが、ヘッドフォンのせいかまったくこちらに気づいていない。
先輩はスイーツ好きだが、特にチョコに目がない。ロッカーは常にチョコの備蓄でいっぱいだ。
「一個しかないから。伊瀬谷くんには内緒でね」
お茶目な笑顔で内緒と言われると、ぐっとくる。よし、先輩に気づかれないうちに全部食べてしまおう。
接客用の小さなソファとテーブルの前に座って、お菓子を広げる。ここに座ると狩野さんと先輩、二人の背中がよく見えて、それがとても安心する。
二人のイケメンの背中を眺めながら、コーヒーブレイクって役得だなと思う。
コーヒーがインスタントなのが残念だ。午後じゃなく、午前三時なのがもっと残念だ。
あ、このレアチーズケーキ新商品だ。コンビニスイーツのチェックを欠かさない先輩さすが。
スプーンですくってパクリと食べると、舌の上でひんやりとしたクリームが、滑らかに溶けて行く。爽やかで甘酸っぱくて、思わず声をあげそうになって我慢した。
本当は先輩だって食べたいはずだけど、忙しすぎて休憩も取れずに我慢してるのだから。
トリュフチョコを口に入れると、すぐに蕩けた。ほろ苦いビターチョコに、微かなカカオの酸味と洋酒が効いてる大人の味。
知らない店だけど、これ絶対高いやつだ。
静かにスイーツを味わいながら、狩野さんと先輩の背中を眺める。
狩野さん、先輩、私。
たった三人だけの小さな会社で、締め切りを破れば取引先から契約切られちゃいそうなほどに弱小で。
明日の締め切りに間に合わせるために、こうして泊まり込むほど勤務時間は超絶ブラック。給与面では違法行為。
それでも……私はこの会社が好きだ。
入社前にはこんな社畜になるなんて、考えられなかったし、自分が職場恋愛するとは思わなかった。
学生時代は、恋はレアチーズケーキのように爽やかで甘酸っぱいものだと思ってた。
でもトリュフチョコみたいにビターで危険な香りのする、大人の恋だってあるんだと、今の私は知っている。
ただの上司と先輩じゃない、男としての一面も。
のんびり食べ終わったら、緊張が緩んで一気に眠気が襲って来る。
睡魔に耐えきれずに、そのままソファに倒れこんで目を瞑った。
そっとブランケットをかけられた気がした。
タバコの匂いがしなかったから、たぶん先輩だ。
そんなことを思いながら、とろとろと夢の中へと落ちて行く。
この会社に面接に来た日。私の運命が変わった日の夢を。