糸を切り離したマリオネット/不吉な匂い
◼︎ 糸を切り離したマリオネット ◼︎
目の前に置き直した架空の箱を嬉しそうに抱えながら彼は言った。
「じゃあこれからくじ引きゲームをするよ」
うん、もう好きなだけなんでもやってくれ。
口に出しこそしないがその投げやりな気持ちを精一杯態度に出しながらボクは小刻みに四度ほど頷く。
「ルールは簡単。このクジは一回百円で引けます。箱には卓球の球が十個入っていて、そのうち一個だけがオレンジ色の球です」
今し方、長々と茶番でやらされたから言われなくてもよく知っている。
むしろその箱はボクが作ったといっても良いくらいだ。
「そのオレンジの球を見事引くことができたら大当たりで、何と千円差し上げます」
何と、と言ったところで彼が必要以上にビックリした顔をしたのがまた腹立たしかったことを除けば、ルールとしては一般的なくじ引きのようである。
「もちろん、一回引くごとに引いた球は箱に戻してもらいます。つまり箱の中は常に十分の一の確率で当たりがある状態です」
彼の言うようにルールとしては簡単だ。十回以内に当たりを引けば儲かるし、それ以上なら損をするというわけだ。
彼はそこまで言うと再び箱をボクの前にスッと押し出してから立ち上がり、テーブルに両手をついて前かがみになると静かな口調でありながら強く何かを懇願するかのように言った。
「これが現代パチンコだ」
突然喉元にナイフを突きつけられたような感覚がボクを襲った。
完全に虚を突かれた形で、彼の言っている言葉は理解できたのだが、その意味がすぐにはわからなかった。
唖然とするボクを見て、彼は架空の箱にそっと両の手を乗せると、もう一度丁寧な口調で言う。
「いいか、これが、現代パチンコだ 」
言葉通りの意味を理解するのにそこからさらに十秒ほどかかった。
そして、理解してからもボクは二つの意味で体の力が抜けて、糸を切り離したマリオネットになったような気持ちになった。
冬の蝶はゆっくりと下降し、ボクからは見えない窓枠の下へと消えていった。
◼︎ 不吉な匂い ◼︎
人間の脳には身の危険を感じると世界がスローモーションに見えるようにさせる能力があるという話をテレビで見たことがある。もちろん、実際に時間が遅くなるのではない。人間が通常見ている風景が毎秒10コマの静止画を繋げた動画だとしたら(かなり昔に見たことなので実際が何コマなのかは覚えていない)、それに対して脳が危険を察知した場合、そのコマ数を瞬間的に30コマほどに増やすらしいのだ。当然、映像は滑らかになり、ゆっくり動くように見える。ゆっくり見えれば危険を回避する為の思考時間が出来て(それを時間と呼んで良いかはわからないが)難を逃れる確率が上がるという仕組みだ。
ボクが足を一歩前に進めると自動ドアはその役割に従ってスッと開いた。
いや、開くには開いたのだが、それはとてもゆっくりだった。ボクの足が自動ドアのセンサーに触れたと同時に、世界から音が消え、ガラスドアはスローモーションで時間をかけてゆっくりゆっくりと開いていった。
ボクの脳が、このドアの先にある危険を、察知しているのだ。
ゆっくりと、滝のように落ちていた雨が雪に変わってふわりふわりと落ちるように、それでもやがてドアは全開した。
そして、次の瞬間、モワッとした生暖かい空気の塊が、店の中から外へとボクを押しやるように通過した。その空気は何とも言えないような不吉な匂いがして、まるで死神の冷たい手で撫でられたような感触が頬に残った。
ボクは一度目を閉じて世界の時間が正常に戻るのを待ってから、一人娘の新婦の父のように慎重に且つゆっくりとした歩調で、竜王の待つ城に入った。
店の中は思っていたほど殺伐とした感じではなかった。
ギャンブルをする場所なので鉄火場のようなピリピリとした空気があるのかと想像していたが、そんな様子はなさそうだ。
雰囲気としてはよく晴れた日の午後の縁側といってもよいほど和やかに見える。
趣味は園芸で三種類のバラを育てています、といった感じのおばあさん達が、笠地蔵のように横一列に並び、ちょこんと椅子に座って各々パチンコ台の液晶画面を眠そうな目で見ている。
中には本当に寝ているんじゃないかと思えるようなおじいちゃんもいる。
大敗して泣き叫ぶ人もいなければ、金を返せと暴れまわる輩もいない。
少し安心したボクは、ひとまず店の中を見て周ることにした。
店内はかなり広く、南国のリゾート地を模したような内装になっている。
店の外にもあったヤシの木が通路にも置かれていて壁にはハイビスカスの造花が並べられてある。
どこからかココナツオイルの香りまでしてきて演出の徹底ぶりに驚かされる。
店内のパチンコ台は全部で五百台ほどあるようだ。
パッと見た感じ、その半分くらいにお客さんが座っている。
つまり二百五十人の勇者が今まさにリスクを恐れずに( 或いは恐れながらも果敢に )戦っているということだ。
戦友たちの勇姿を目の当たりにしたことでボクの心は一瞬で奮い立ち、居ても立ってもいられずに適当な台に転がるようにして着座した。
少し呼吸が荒くなり、自分の体温が上昇しているのがわかる。いよいよ、ボクの冒険が始まる。
布の服に木の剣というレベルの装備(知識)しかないが、ボクには燃えたぎる心がある。
この試練を乗り越えて自由な未来への一歩を踏み出すのだ。
果てしなく大きなリスクを前に、ボクの心の炎が木の剣に燃え移り、紅蓮の剣となって液晶画面に映るタコやフグたちをユラユラと照らしていた。