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銀の放物線  作者: 加藤あまのすけ
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物事の本質

 いつの間にかボクは涙を流していた。

 回転数は1400回を超え、デジタルは軽快にスキップをするように数字を刻んでいる。

 投資金額は七万円にもなり、新たに(玉貸し機に)お金を入れる手の震えを抑えることが出来ない。

 悔しい。何故、当たらないのだ。明らかにおかしいではないか。

 1400回転といえば確率の5倍近い数字だ。昨日の2000回転を合わせれば確率の11倍も当たっていない。そんなことがあり得るだろうか。

 暗闇の中でボクの涙は止めどなく溢れ出る。


 三十にもなってパチンコで負けて泣くなんて本当に情けないが、その恥ずかしさをもってしても涙は止められなかった。もう打つのをやめて帰ってしまえば楽になれるのに、席を立つ気にはなれない。

 もはや冷静に何かを判断できる精神状態ではないのだ。

 ボクは取り憑かれたように玉貸し機にお金を入れ続けるだけの機械となっていた。


 人生で最悪の時だ。リスクを避けて生きてきたボクにこれほど屈辱的な敗北経験は過去になかった。

 明らかに確率を超えた現象が今ここで起こっている。初心者のボクを狙って店が何か操作しているのかもしれない。


『こいつは当たらないようにしても初心者だから気づかれないぜ、へっへっへ』


 ここにきてボクは疑心暗鬼になっていた。そうでなければこれほど当たらないことへの説明がつかない。


 涙は止まり、悲しさと悔しさは怒りに変わり始めた。「あーー!」と大声で叫びながら金属バットで台を叩き割りたい衝動にかられる。ボクは自分にそれほどの凶暴性が潜んでいたことに少し驚いた。窮地に陥ったことでボクの本性があぶり出されたのかもしれない。


 暗闇の中で回転数の数字だけが積み重なり、ボクは唇を噛み締めてそれを眺めている。いつまで続くのか。


 耳鳴りが酷い。



 誰かがボクの(ガチガチに力の入った)肩を抱き寄せるように掴んだ。いや、誰かではない。これは……知っている感覚……下駄さんの手だ。


「なあ、みんなパチンコ屋に何をしに来ていると思う?」


 その声はボクの耳のすぐ横で喋っているにも関わらず、ヨーロッパの古い教会の大聖堂で喋っているかのように広く響いて聞こえた。


「パチンコを打ちに、大当たりを引きに来てる、勝つために来てる!」


 ボクは何も見えない状態のまま下駄さんの声にすがるように答える。


「パチンコは確率だ」下駄さんはボクの肩を抱いた手のひらにギュッと力を入れて言った。


 ボクは心の中にある不満をぶつけるように下駄さんに向かって叫ぶ。


「でも、当たらない!」


 暗闇が渦を巻いてボクの眼球に吸い込まれていく感覚に襲われる。


「いいか、パチンコを一日中打てばトータルの回転数は2000回転以上にもなる。そして、大当たりはそのうちのたった6回程度だ」


 確かに確率320分の1の機種で2000回転回せば大当たりは約6回になる。でも、そんな当たり前のことが何だというのだ。


「つまり6回の大当たりを引くには1994回のハズレが必要ってことだ。いいか、パチンコってのはたった6回しかない大当たりを引くゲームじゃない。1994回という大量のハズレを引くゲームなんだ」


 1994回のハズレを引くゲーム?そんな……つまらないものが……と言いかけた時、冷静な思考が最初の印象に追いつきパッと頭の中で弾けた。ボクは思わず左手で口を塞ぐ。


 1994回のハズレを引くゲーム。そんな理屈はどう考えてもつまらない。でも、つまらないが、それは事実だ。6回の大当たりは6回転では引けない。1994回の犠牲の上でのみ存在できるものなのだ。


「物事の本質は目立たないところにある。地上の小さな花はそのほんの先っぽでしかない。地中に張り巡らされた根こそが本体なんだ……なっ!」


 これほど頼もしく聞こえた『なっ!』は初めてだ。当たらないことで心を折ることはないという下駄さんなりのボクへの励ましなのだろう。

 ボクが回したのはたかだか1400回転。どうせ1日1994回のハズレを引くのだから、ごく当たり前の日常だということだ。


 ボクの視界を遮っていた闇がゆっくりと消え、灰色の雲が溶けてゆき、奥から見慣れた液晶画面が現れる。


 肩に回された腕を辿って下駄さんの方を見るといつもの笑顔がそこにあった。


「1000回転以上回して当たらないことは確率上、三日に一回はある。そんなことでいちいち泣くな」


 下駄さんはそう言うと肩に回していた手を解き、諭すようにポンポンとボクの背中を叩いてから店の奥に去っていった。

 その後ろ姿は少年漫画のヒーローのように見えた。


 台に視線を戻し、ふと左側を見ると富美男の姿はなかった。鼻毛とヒゲが繋がったおじさんもいつの間にかいなくなっている。さすがにボクの惨状を見るに耐えなくなったのだろうか。なんだか逆に悪いことをした気持ちになる。


 気を取り直して再び台に向かいハンドルを握りなおしたところで立ち去ったはずの下駄さんがすぐ横に立っていることに気づいた。

 驚いて顔を見上げると臭いものを嗅いだ時の猫のような表情でボクを見ている。


「言い忘れたが」少し改まった声だ。


「パチンコは1994回のハズレを引くゲームだが、それは千円十一回のクジ箱を引いている時に限ってだ。千円九回のクジ箱は一回たりとも引いちゃいけない」


 下駄さんはそう言うと耳の上に鉛筆のように差していたじゃがりこを引き抜いて口に入れてから「なっ!」と勢いよく言うと再びどこかに消えていった。


 ボクはその後ろ姿をしばらく眺めた後、ハンドルからそっと手を離し、凛と立ち上がり、店を出て、まだ薄い闇をぼんやりと照らす月を見上げながら、精一杯大きな声で「なっ!」と発声してから家路に着いた。


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