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銀の放物線  作者: 加藤あまのすけ
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小学生でもわかる簡単な算数

「あ、もう箱を作るところはいいんで、箱が完成したところからお願いできますか」


 ボクが言うと下駄さんは加藤茶が演じる歌舞伎役者のような顔になり「なぬ!?」と一言吐いた。日常会話で『なぬ!?』などという芝居掛かった言葉が聞けることなど滅多にない。


「すいません、もう箱の作り方はわかったんで」


 ボクは少しだけ申し訳ない気持ちを加えた上で重ねて告げた。


 下駄さんは『ふーん』といった顔をしてから(さすがにふーんは声には出さなかった)渋々ながらも納得したのかうんうんと頷くと椅子にどかっと座る。


 背の高い若い男はボクと下駄さんの一連のやり取りをニヤニヤしながら見ている。


「箱の中には十個の卓球の球が入っていてそのうちの一個がオレンジ色の球、他の九個が白い球です」この間と同じように律儀に手で架空の箱を型どりながら下駄さんは続ける。


「これはくじ引きで百円で一回引けて白い球はハズレ、オレンジ色の球は大当たりで千円が貰えます」


 至って真面目に説明している。下駄さんもやれば出来るのだ。


「はい、前回はそう教わったんですが、それだと確率通りに当たりを引き続ける限り収支はプラスマイナスゼロにしかならないですよね」


 小学生でもわかる簡単な算数だ。


「確かに俺はそれが現代パチンコのシステムだと言ったよ」下駄さんが前回同様、テーブルに身を乗り出して、いよいよ本腰を入れて話を続けようとしたところでタイミング悪く店員さんがランチを運んできた。


 本日のランチは鶏の竜田揚げ。ボクも同じものを頼んだので三人分がまとめて運ばれてきた。


 とりあえず話を中断して三人で黙々と食事を摂る。下駄さんも特に奇抜な食べ方をすることもなく行儀よく食べ終えると、最後に何故かはわからないが「なっ!」と一言発してから箸を置いた。美味しかったという意味なのか、或いはごちそうさまなのか……背の高い若い男は、その「なっ!」に対して別段驚くこともなく食事を続けている。どうやらいつものことらしく慣れているようだ。


 三人が食事を終えると店員さんが食器を下げてコーヒーを運んできてくれた。


「十分の一の確率で当たりのあるくじ引きの箱が三箱あるとすんだろ」


 講義は突然に再開された。


「どの箱も同じ確率で当たれば同じ千円が貰える。ここまでは前回と同じだ……なっ!」


 相変わらず神経に障る『なっ!』である。


「違うのはそのクジを引ける回数なんだな」そう言うとコーヒーを口に含んで高速でうがいをしてからゴクンと飲み干し、気合いを入れる為なのか立ち上がってから話を続ける。


「一つ目の箱は千円で十回引ける箱。二つ目の箱は千円で九回引ける箱。そして三つ目の箱は千円で十一回引ける箱」


 下駄さんは一つ目の箱のところで背の高い若い男の飲みかけのコーヒーカップを掴むとそれをボクの前に置き、二つ目の箱のところでボクが手に持っていたコーヒーカップを奪い取ると一つ目のコーヒーカップの横に並べるように置いた。当然、三つ目の箱のところでは自分の空になったコーヒーカップを置き、三つ並んだコーヒーカップを満足げに見下ろしている。


 なるほど、コーヒーカップをくじ引きの箱に見立てて並べたのだろうが、飲んでいる途中のコーヒーを取り上げられたボクと背の高い若い男には迷惑でしかなかった。


「前回がパチンコそのもののシステムの説明だとしたら今回はパチンコ屋のシステムだ……なっ!」


 豪快に『なっ!』を言い放って本人はさぞ気持ちよいかと思うが、ボクはいまいち説明の意味がわからなくて気持ちが悪い。


 すると背の高い若い男がそれを察したようで助け舟を出してくれた。


「くじ引きの引ける回数はパチンコで言うところのデジタルの回転数だよ」そう言った後の爽やかスマイルも忘れない。


 ふむ……。千円でデジタルが回る回数が一定ではないのは実際に打ってみてわかっていた。凄く回る時もあればちっとも回らない時もある。それが台によっても違うということか。


「リュックが言ったように十分の一のクジで当たりが千円であれば収支はどこまでいってもプラスマイナスゼロだ。最初の数十回では偏ったとしても確率の百倍も回せばきちんと収束する」


 そう言うと千円で十回引けるクジである背の高い若い男のコーヒーカップを背の高い若い男の前に戻す。


「次が千円で九回引ける箱だ」そう言いながら下駄さんはボクのコーヒーカップに手をかける。


 良かった。ボクのコーヒーは意外と早く返ってきそうだ。


 背の高い若い男が一足先に返ってきたコーヒーをゴクリと旨そうな音を立てて飲むのが聞こえる。


「このクジの場合、一万円分引いた時点で収支はどうなってるかわかるかい?」


 突然の試されるような質問に緊張が走る。


「えーと、千円で九回、一万円で九十回引けるから……大当たりは十分の一なので……九回当たって掛ける千円だから九千円……よって収支はマイナス千円ですね」


「うん、正解」下駄さんはそう言うと手をかけていたボクのコーヒーカップをギュッと鷲掴みにして一気に中身を口に入れてから再び高速でうがいをして豪快に飲み干すとボクの前に空になったそれを戻した。


 こんなことがあるだろうか。もはや何もなかったことにしなければ自分を保てないほどに驚いた。よし、ボクは何も見ていない。コーヒーなんて最初からなかったのだ。


 下駄さんの方は特に自分がやったことを気にする素振りもなく、最後に残った自分の空のコーヒーカップを手に取ると黙って店の奥のほうに歩き出した。


 ああ、何故、突然どこかに……いや、でも、うん、前にも同じようなことがあったな……。


 ボクは諦めにも似た感情のまま店の奥に消えゆく下駄さんの後ろ姿を見送った。


「面白いでしょ、あの人」背の高い若い男が爽やかでありながら少し悪戯っぽい笑顔で言った。


「確かに……うん、確かに」一度目は彼への同意として、二度目は改めて本心としてボクは呟く。


 何かに似ている。そう、子供の頃に読んだ飛び出す絵本のような人だ。ページをめくるたびにボクは驚かされる。


 店の奥から再び現れた下駄さんの手には、コーヒーがなみなみと注がれたカップがあった。


 テーブルに戻った下駄さんはボクの前にある空のコーヒーカップを取ると新しいコーヒーの入ったカップを代わりに置いて爽やかとは程遠いが見る人の心を埋め尽くすような満天の笑顔で言った。


「ここのコーヒー、旨いだろ!……なっ!」


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