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銀の放物線  作者: 加藤あまのすけ
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シワだらけのワイシャツ

 予定の時間にアラームが鳴った。それはそれが鳴るほんの一秒前までまったく鳴るつもりもなかったという風にして鳴ったにも関わらず鳴り始めた瞬間から100%の音量で鳴った。


 ボクはそれが鳴る前にすでに目を覚ましていたのだけど、寝転んだまま携帯のアラーム画面をジッと見つめ、デジタルの数字が予定の時間に変わる瞬間を待っていた。

 必然、ボクはアラームが鳴った瞬間にホームボタンを押すことに成功する。


 100%の音量で鳴ったそれはボクの俊敏な動きにより一秒と鳴り続けることは出来なかった。

 もっと鳴り続けることが出来るのに鳴ることを許されなかったアラームのアプリは『無念』といった感じでうな垂れるように小さいアイコンへと戻っていった。


 落ち込むことはない。健康な体でありながら仕事もせずにゴロゴロしているボクよりは一瞬でも100%に輝いたキミの方が幾分マシだよ。

 そう心で呟いてから、ようやく布団から起き上がりシャワーを浴びに浴室に向かった。


 休職をしてから今日でちょうど一週間になる。


 昨日、久しぶりに敏腕……いや、超能力所長から休職に関してのちょっとした書類などに署名が必要なので役所まで来てくれという連絡があった。

 その他にも休職するにあたり何かしらの規定で一ヶ月に一度は病院での診察を受ける必要があるらしいのだが、その辺は引き続き超能力所長が上手くやってくれるとのことだった。


 最もボクはこの休職の状況を一ヶ月以上も続ける気持ちはない。

 次にやるべき何かが見つかるにしても見つからないにしても一ヶ月で役所は退職しようと決めている。

 それ以上の甘えは誰も幸せにしないだろう。ボクにだってそれくらいはわかる。


 シャワーから出たボクは髪も満足に乾かさずにシワだらけのワイシャツにダウンジャケットを羽織って家を出た。

 仕事をするわけではないのだからワイシャツを着る必要はないが、役所に行くと思うと反射的にこのシャツに手が伸びていた。

 外は曇り空でダウンジャケットを着ていても少し肌寒く、道を歩く人の中にはコートを着ている人も数人いる。まだ少し湿っている髪に風が当たると凍りそうなほど寒い。


 電車に乗って数駅、ボクの勤めていた役所のある駅に着いた。

 ほんの一週間前まで通っていた場所なのに驚くほど懐かしく感じたのと同時に、この街に対して後ろめたい気持ちが湧き上がって少し呼吸が苦しくなる。

 不思議な感情だったが、きっとボク自身がこの街を捨てたような気持ちになっているせいだろう。


 顔見知りに会えば色々と面倒なので、目を伏せながら足早に役所へと向かう。


 役所ではいつものメンバーがいつものように仕事をしていた。

 ボクが来たことに気づくと超能力所長は笑顔で中に入ってくるように手招きをした。

 ボクの机は座る者もなくそこにあったが、ボクがいた空間はすでに別の何かで埋まっている気がした。


 向かい側に座る早川のじいさんが「おっはよう」と冗談ぽく言って笑った。

 ボクは「おはよう」とは応えたものの、自分の居場所がないような感覚のせいで上手く笑い返せなかった。


「急にいなくなっちゃうんだからびっくりしたわよ」辻本さんが少し怒ったように言った。


 そういえばボクが休職を決めた日に辻本さんは休暇を取っていて役所にはいなかった。


「すいません、急な展開だったので挨拶も出来ずに……」気まずさから口籠るように言うと辻本さんは「まあ色々あるからね」と笑顔で言った。


 みんな変わらず良い人達だ。


 休職に関する書類は特に面倒なものもなく、ものの五分で書き終わった。

 とはいえ、すぐに帰るのもつれないし、長居をしても仕事の邪魔になるので、辻本さんが入れてくれたお茶を程よいスピードで飲み干してからボクは役所を出た。


 三人共、気を使ってくれているのかボクが家で何をしているのかなどという話はせずに他愛のない世間話をしただけだった。

 他の三人がどう感じているかわからないが、ボクには同じ空間にいながら別の世界にいるような違和感があった。


 役所を出たボクは駅には向かわずに反対側の河川敷までゆっくりと歩いた。

 休職を決めて自由になった日に、喜びを抑えきれずにひとり走り回ったあの河川敷だ。

 たった一週間前でありながら自由という不自由さを体感してボクも大人になった気がする。

 いや、世間知らずがほんの少し現実を知ったといったところだろうか。

 あの日、両の手を拡げて走り回った河川敷をダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだまま猫背で歩く。


 同じはずである空が、まるで悪魔が支配する世界の空のように煤けていて、祝福の蝶はどこにも飛んでいなかった。



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