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銀の放物線  作者: 加藤あまのすけ
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勤め先、勤め先の電話番号

 トイレから出て五分ほど経ったが、時折、小便の匂いがどこからともなく漂ってくる。

 ボクの心身に染み付いている臆病さのように、服に小便の匂いが染み込んだのか、もしくは直接鼻の粘膜に絡みついているのだろう。


 ボクにしか出来ない何かを探す旅(街歩き)は中盤に差し掛かっていた。


 最近、家から出ない日が続いているせいで筋力が落ちたのか、ただ歩いているだけで足のあらゆる筋肉が痛い。

 肝心の『ボクの夢』には出会えていないし、もはや出会える気配すらなくなってきている。


 そもそもボクは少しリスクに拘りすぎているのかもしれない。


 俳優だって歌手だってこれまでなりたいと思ったことなど一度もないのに、膨大にあるリスクに惹かれ一瞬とはいえ本気で目指してみようかと考えた。

 リスクがあればあるほど良い。いや、もっと言えばリスクがありさえすればそれ以外はなんだって良いと意識が偏りすぎていたのだろう。

 これでは『リスクがないものだけを選択する人生』が、『リスクのあるものだけを選択する人生』に入れ替わっただけで、自由がないことに変わりはないではないか。


 本当に今更だが気づいてよかった。

 ボクはリスクに囚われずやりたいことを自由にやるべきなのだ。


 ボクのやりたいこと……。今でいえば、まず、ゆっくり座ってお茶でも飲みたい。

 よくよく考えれば大きな街に行けば何かが見つかるというのも浅はかな考えだし、効率からみればかなり悪いやり方だろう。


 うん、足も痛いし今日はもう家に帰って早く眠り諸々リセットしよう。

 そう決めてボクは来た道を引き返し駅へと向かった。


 公園の青年の歌は右足の靴が左足の靴に恋をする歌に変わっていた。映画館のポスターは行きに見た反対側の壁にもびっしり貼られてあったが、さっきとは違って俳優の作り笑顔がなんだか煤けて見えた。

 物事は見る角度によって形を変える。アインシュタインに言われなくたってボクはすでに知っている。


 駅から電車に乗って家の最寄りの駅で降り、夕飯用に駅前のコンビニで惣菜を買った。

 家でご飯を炊いて味噌汁さえ作っていれば、後はちょっとした惣菜を買うだけで済む。

 今日は餃子とサラダとノンアルコールビールを買った。


 コンビニを出ると道を挟んだ向かい側にある最近オープンしたばかりのレンタルビデオ屋さんが目に入った。

 ボクはこれまで映画というものをあまりみない人間だったが、何か夢を見つけるヒントになるかもしれないと思ってビデオ(正確にはDVDだ)を借りていくことにした。


 建物は新築ではないが、店内は新しい匂いがした。

 きっとビデオを収納しているラックだとか木製の受付のテーブルなんかがその新しい匂いを構成しているのだろう。

 ボクは店内を時計回りに順番に見て歩き、熱海殺人事件というタイトルの邦画とキャットピープルというタイトルの洋画を選んで貸し出しカウンターへ向かった。


「当店は初めてご利用ですか?」眼鏡をかけた女性店員が言った。

 ボクがハイと言うと「会員登録をするので用紙に記入をお願いします」と言って紙とペンを渡された。


 用紙には名前と住所と電話番号と勤め先、勤め先の電話番号を書く欄がある。名前、住所、電話番号まではよくあるが、勤め先とその電話番号を書くというのはこれまであまり見たことがない。

 少し迷ったが名前と住所と電話番号だけを書いて用紙を店員さんに渡した。

 店員さんはそれを確認すると小さく「うーん」と唸りながら私の前に用紙を戻し「お勤め先の記入もお願いします」と言った。


 ボクは休職中の身であり、まだ役所に籍は置いてあるのだが、そこに戻る気などさらさらないので自分としては無職であると思っている。


「仕事は今はしていないのですが」ボクが言うと女性店員は(ほんの一瞬「え?」という感情が瞼の上辺りに見えかけたものの)無表情を装ったまま「すいません、それですと会員登録はできないんです」と言った。


 そんなことがあるだろうか。ビデオレンタル屋さんで無職だから会員登録を断られるなど聞いたことがない。私が釈然としない顔で黙って立っていると店員さんは今度は少し申し訳なさそうな顔をして「うちのような個人経営の店はビデオの返却がない場合にそれを回収する人手がないので勤め先の登録も必須としているんです」と説明してきた。


 なるほど、そう言われてしまうと何も返す言葉がみつからない。

 チラリと店員さんの顔を見ると変わらず申し訳なさそうな顔で立っている。

 その表情もマニュアルに書いてあるのだろうか?目の奥にはボクが諦めて早く帰らないかなという感情の灯が見える。


 いまさら実は仕事はしていますと言って役所のことを書くわけにもいかないので、ボクは黙って店を出た。

 すいませんと言って立ち去るのも情けないし、悪態を吐くのも見苦しい。


 腹立たしいような情けないような感情が胸のあたりで渦になってグルグルと回っていたが考えてどうにかなることでもないので出来る限り心を無にして、家までの道を急ぎ足で歩いた。


 コンビニの袋が激しく左右に振られ、サラダと餃子の位置が入れ替わり、ビールは餃子を冷やし、餃子はビールを温めながら、成す術もなく揺れていた。


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