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銀の放物線  作者: 加藤あまのすけ
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ステンレスの小型宇宙船/帆を上げよ!出発進行

 

 ■ ステンレスの小型宇宙船 ■



「炊飯器を買ったことあるかい?」彼は言った。


  社会人一年目の春に一度それを買ったことがあるとボクが告げると 、彼はそうであろうといった具合に二度ほど頷き、ファミレスのテーブルに被さるように身を乗り出して話を続けた。


「目の前に買ってきたばかりの炊飯器があるとすんだろ?ピッと四角に尖ったダンボール箱に入ってるピカピカの四合炊き炊飯器な」


 ジェスチャーゲームでもやっているかのように手で四角い箱を宙に描くと、そのままその箱の蓋を開ける仕草に移りながら


「その炊飯器をそっと箱から取り出して、と、落とさないようにな、二万くらいするシロモノだ。ステンレスの小型宇宙船みたいなやつだぞ、いいか、そいつをそっと抱えたら……」


 そう言いつつ手に炊飯器を持ってますといった格好で立ち上がり、こちらに背を向けてヨボヨボと歩き出し、店の奥の方へと消えていった。



 しばらくして戻ってきた彼の両手に(架空の)炊飯器はなく、代わりにコーヒーがあった。架空のコーヒーではなく、現実のコーヒーだ。


「ここのドリンクバーのコーヒーは美味いな、マジで」と彼は笑って言った。




 ■ 帆を上げよ!出発進行 ■



 あれは確かボクが小学四年生の時だった。学校帰りに近所の溜め池の前を通りかかった時、池の脇のゴミ捨て場に大きな発泡スチロールの箱が捨てられているのを発見した。

 大型の家電でも入っていた箱なのだろうか。それは跳び箱の六段目くらいの大きさもあり、子供のボクがスッポリと入ってしまえるほどのものだった。


 いつの時代でもそのようなものは子供の大好物である。ボクは意気揚々とその箱を近くの草むらまで運び、中に入って大空を指差し「帆を上げよ!出発進行、面舵いっぱい」などと一人で叫びながら海賊遊びを始めた。


 しばらく遊んでいたボクの視線の先にふと溜め池が目に入った。偶然にも出会った発泡スチロールの箱と溜め池の二つを前にして、ボクはある衝動を抑えられなくなった。

 そう、発泡スチロールの船に乗り、溜め池という大海に漕ぎ出したい衝動だ。

 この時すでに時刻は夕方を過ぎていて、辺りは少し暗くなり始めていた。発泡スチロールの箱を頭の上に乗せ、草むらを掻き分けて溜め池に進むボク見て、数羽のカラスが警告するようにカァカァと鳴いていたのを憶えている。


 溜め池に着いたボクは、発泡スチロールの船を水面に浮かべてゆっくりとその上に乗ってみた。運動靴と発泡スチロールが擦れる音がキシキシと鳴り、首の辺りがゾクッとした。

 船は乗ってみると思いのほか安定していた。立ち上がったり下手に動いたりしなければ池に落ちることはなさそうだ。少し安心して、手で水を掻いて船を押し出すとユラユラと揺れながら進みだした。


 そうとなると、こんな楽しい遊びはない。ボクは一心不乱に船を進めて馬鹿の一つ覚えのように「帆をあげよ、面舵いっぱい、面舵いっぱい」と叫び続けた。そのまま八十三回ほど叫んだだろうか。

 子供というのは楽しい事はどれだけ繰り返しても飽きないのだ。気がつくと辺りは真っ暗になっていた。カラスの鳴き声も聞こえなくなっていて、風が木々を揺らす音だけが鳴っていた。


 ボクの船は溜め池のほぼ中心部まで来ていた。それほど大きな池ではないが、岸までは十メートルほどあり、周りが暗いことも手伝って急に怖くなってしまった。

 急いで岸まで戻ろうと手で水を掻いて必死に漕ぎ出したのだけれど、恐怖で冷静さを失っているせいか船はうまく進んでくれない。冷や汗がワッと出てきて心臓の音がドクンドクンと聞こえてくる。落ち着いて漕げば簡単に行ける距離も、気ばかりが焦って船は進まずにハァハァと呼吸だけが荒くなる。ヤバイかもしれない……そう思った瞬間、瞼から大粒の涙が溢れ出た。


 一瞬にして心が折れたボクに、もう船を漕ぐ気力はなかった。


 助けを呼ぼうと思ったが、溜め池の横の道は夜になればほとんど通る人がいなくなる。それにボクの位置からではそこを人が通っても暗くて見つけられない。ヒューヒューと冷たい風が吹くと、とても心細くなって、心底自分のやったことを後悔した。

 何故ボクはこんな危ないことをしてしまったんだろう。止めどなく涙が溢れてきて、遠くの街灯のぼんやりとした明かりが、さらにぼんやりと滲んでいった。



 結局、この日のボクは、帰りが遅いことを心配して探しに来てくれた両親に助け出されるまで、四時間もの間、一人池の上にいた。ボクにとってこの四時間は永遠かと思えるほど長く、絶望的なものだった。必然、この経験はトラウマとなって心に残り、ボクの後の人生に大きく影響を与えた。


 あの事件以来、ボクは、冒険と呼ばれるようなリスクを冒して何かに挑戦するようなことを一切しなくなった。或いはしないのではなく、出来なくなったのかもしれないが、いずれにしても、本当にしなくなった。絶対的に安全であると確信できることだけをして日々を過ごした。


 次第にその考え方は命の危険があること以外にも及んで、あらゆる面でボクの生き方を左右した。ほんの少しのリスクにも恐れ慄いて生きた。好きな人ができても断られるリスクを考えると告白する気にはなれなかった。大胆な目標は持たないように心がけ、高校や大学も九十九パーセント受かると言われたレベルの学校しか受験をせず、就職は安定を求めて公務員を選んだ。


 お陰でボクの人生は、すべて順調だった。


 失敗も挫折もなかった。でも、そのせいでボクの心はあの少年の頃からひとつも強くなっていなかったのかもしれない。無菌室で育てられた動物が外界に出た途端に死んでしまうように、社会に出てから、ボクの心は少しずつ、確実に、闇に向かっていった。




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