プリンシプルを求めて
生きるということは散らかった部屋を整理することだと思うのだけれど、生きていれば自然と部屋は散らかっていくものだし、それを整理するのが生きること。でも問題は散らかったままでも生活していけることね。〈こんど片付ければいいか〉と思って、三ヵ月後には〈まあ、大掃除のときにすればいいか〉と思って、大掃除のときには〈今年はこれくらいでいいか〉と思って、ダイエットみたいに〈あとであとで〉と言い訳して、結局は散らかったままなのよね。そういうわけで、私の部屋は、無邪気な子供のお部屋みたいにめちゃくちゃよ。でもそれでもいいの。だって幸せって散らかったままでも平気でいられることだから。なんて言い訳かしら?
私は昔から片付けが苦手みたいで、いろいろなことが手付かずで残ってる。家の中もそうだけれど、息子のこととか、別れた夫のこととか、あの人に借りたお金のこととか。
昔の人の言葉に〈友達にお金を貸せば、お金だけではなく友達も失う〉みたいなのがあるけれど、お金を借りる場合はどうなのかしら? もし友達を失うなら、お金は返さなくてもいいわけだし、お金を返すなら、友達を失うことはないのだし、借りる方は損しないのよね。それに、お金を貸したら失うほどの友達なんて、そんなの意味ないわ。その程度の友達ならいつでも作れるもの。別に失ってもいいのよ。だから返さない。まあ、それは言い訳ね。でもあの人はもういないのだから。
うちを出ると、駅に向かった。いつもと同じね。別に退屈なわけではないのだけれど、特に何かをしたいわけでもないし、仕事をしないって退屈でいけないわね。時間がありあまるのよ。
女というのは品定めが好きみたいで、私も例外ではないわ。友達の性格の品定めをしたり、ファッションの品定めをしたり、化粧とか髪形とかアクセサリーとかね。それにもちろん男の品定めもするし、近所の人たちの品定めもする。だから女はウワサが好きみたいで、私もやっぱりウワサが好きなの。
あの大学生っぽいカップルはすごいわ。二人とも安っぽいジーパンをはいてるけれど、手をつなぐのではなくて、軽く腕を組んでるのがなんだか気品があって。でも信号待ちでとなりに並ぶと、びっくりしちゃった。あの男はどうしてあんな女と交際する気になったのかしら? 男の方は濃い顔で文句なしの男前なのに、女の方ときたら、まあ、こっちも濃い顔なのだけれど、あごが長すぎて、おでこも長すぎて、つけまつげも長すぎて、まあ、正面から見たらそれほど悪くないのかもしれないけれど、横顔は最悪ね。もう、なんというか、魔女みたい。髪に強いパーマをあてて、あと二十キロ太って、黒いローブを着れば、立派な魔女になれるわ。
でも、愛ってそういうものじゃないかしら? 容姿なんて関係ないし、たとえば、恋人が顔に火傷を負ったとしても結婚したいと思える、そういう関係にこそ愛がある。そう、私には愛がなかったのね。だってあんなことになるなんて思いもしなかったし、まあ、自分のことはどうでもいい。ウワサって他人事だからおもしろいの。
平日の朝の十時だというのに、駅には人がいっぱいいて、上品っぽい犬までいる。トイプードルね。おもちゃみたいな犬。思いっきり投げたら横断歩道を一秒でわたれちゃう、それくらい小さな犬。飼い主さんは若い女で、いつもそうよ。おじさんがトイプードルを散歩させてるところなんて見たことがない。どうしてかしら? ハゲとトイプードは、相性抜群とは言えないにしても、あんがい似合う気もするのだけれど。若い女とトイプードルよりよっぽどお似合いなのに。どうしてかしら?
犬を見るといつも思うのだけれど、犬は裸足で歩いてて痛そうよね。私は犬には生まれなくないわ。どうせならサメがいい。サメってステキよね。水の中をゆらゆらさまよって、優雅よね。それに、ほかの魚を食い散らかすんだから楽しそうだし、でも死んだら地獄へ行く。サメは海の悪魔で、悪魔は天国には行けない。残念ね。でもそれでいいの。だってすぐに生まれ変わるもの。ちょっとくらい地獄ですごすのもいいじゃない?
そうそう、サメで思いだしたのだけれど、スーパーマーケットの魚って死んでるのよね。棚に並んでるやつね。彼らはみんな死体なのよ。そう思うと、感慨深いわよね。だからいつもお葬式をしてあげるの。うちに持って帰って、うろこをとって、火葬する。もちろんそのあとは胃の中に埋葬する。感慨深いわよね。
別れた夫は〈駅のベンチは汚らしい〉とか言ってたけれど、私はいつも座ってしまう。汚くてもいいじゃない? 私は散らかった部屋でも生きていけるし、まあ、あれね。お年寄りは同じことを何度も言うけれど、私はそういうのは好きじゃないから。
さっきからあの女の子から見つめられてる気がする。中学生かな? 学校はどうしたのかしら? 堂々と私服を着て、ひざが隠れるくらいの白いワンピースと、秋らしい色のジャケット、靴は青い模様がついてる白いスニーカー。おさげがなんだか似合ってて、それは幼い感じではなくて、上品な感じね。両親とヨーロッパ旅行をしたことがある、そんな雰囲気というか、あらっ、また目があっちゃった。こっちに来る。
「ここ、座ってもいいですか?」指がピアニストみたいだったから、なんだかちょっと尊敬しちゃった。昔から音楽家だけは尊敬するの。
「ええ、いいわよ」
女の子は座って、私の目をじっとのぞきこんで、それは不審に思えるくらいだったけれど、相手はまだ子供だものね。瞳は大きくて、肌はなめらかそうで、左の眉のはしに小さなホクロがあって。
「いきなりですけど、あなたは離婚した経験がありますよね?」
「えっ?」どうしてわかるの?
「私、すごく勘がいいんです」女の子はようやく私の目を見つめるのをやめた。「そういうことってなんとなくわかって。今、暇ですよね? もしよろしければ、私とお話をしませんか? 私はあなたを必要としてるし、あなたも私を必要とするはずです。今は必要ではなくても、私との出会いが大きな転機になるはずです」
女の子に〈あなた〉と呼ばれるのは妙な気分ね。〈じゃあ、どう呼ばれたいの?〉と聞かれたら困るのだけれども、でも変な気分よ。
秋の鳥っておかしな鳴き声じゃない? ピーピーといかにも鳥っぽい澄んだ声で鳴くやつもいるけれど、ブーブーとまるで壊れたラッパみたいな濁った音をだすやつもいて、私はブーブーの方が好きよ。秋ってそんな季節じゃないかしら? 郷愁というか、世界が終わりに近づいていく、そんな季節。だからブーブーなのよ。
ああ、そうか。この子はきっと。
「ねえ、お嬢さんは何人もの人に声をかけたんじゃないかしら? いろいろな人に〈離婚をしたことがありますよね?〉と声をかけてまわって、たまたま私に行きついた。違うかしら? 私は勘はよくはないけれど、頭がいいから」
「私は五月生まれなんですけど、あなたもそうですよね?」
たしかにそうだけれど、たまたま当たったのよ。十二分の一だもの。それにもし外れててもごまかせばいいし、そこから会話が生まれて。
「たしかに私は五月生まれよ。それに離婚もしてる。よくわかったわね。ご褒美に少しくらいなら付き合ってあげてもいいわ」
大きな音をたてて電車が来た。女の子は立ち上がることはなかった。みんなエスカレーターの方に歩いていって、女の子はそれを見ていて、だから女の子のおさげをじっくりと観察できた。髪の毛はやわらかそうで、ういういしい感じがあって、なんだかいいわね。
「お嬢さんは学校には行ってないの?」
「家出をしたんです」女の子は私の顔を見た。
「だから私が必要だと?」
「映画があって、家出をした娘と中年女性が旅行をするというお話で、海に行ったり、川で釣りをしたり、畑からトマトを盗んだり。知りませんか?」
「ああ、あれね。知ってるわ。題名は思いだせないけれど」もちろん知らなかった。それに、トマトを盗むなんて、そんな下品なまねはできない。
中学生といえばアルバイトもできない年齢だし、家出するにしても、たとえば遠くの街に行っても警察に保護されるのが関の山で、だから女の子の作戦はなかなかの名案かもしれない。中学生の女の子にかまってあげるのは、いやらしい目で見る男か、好奇心しかない大学生か、離婚するほどの自立心がある女くらいだし、それなら離婚した女を探すのが一番ね。それにしても小さなショルダーバッグはパンパンにふくらんでるわけじゃないし、家出するならもっと計画的になればいいのに。
女の子は右のおさげを手にとって、筆のように頬をなでていた。なんだかちょっと残念な感じね。あざといわけじゃないけれど、あれね、小学生くらいなら似合うのだけれども、でもちょっとあれね。まあ、あざといのよ。
「歳はいくつ?」
「十六歳です。高校一年生」
「嘘つきね」
「バレましたか。本当は十四歳です。中学二年生」
「どうして家出するつもりなの?」
「もう家出をしたんです。〈するつもり〉ではなく〈実行中〉です」
「でも荷物はそれっきりじゃない?」
「私、こういう主義なんです。シンプル・イズ・ザ・ベスト。野宿をするつもりじゃないんで、これでいいんですよ」
もしかして詐欺かも。この子は離婚のことも五月生まれのことも知ってたし、この子を使って誰かが私のお金を盗もうとしてるのかも。なんてことはないか。人生はつまらないのよ。でも、もし詐欺なら、どんなタイプのものでしょうね?
電車が来たから、とりあえず乗ることにした。女の子もついてきた。席はいくつか空いてたけれど、私は優先座席に座って、女の子もとなりに座って、でも誰も不審そうに見る人はいなかった。
おしゃべりをしてる人が少なかったから、向こうの三人組のおばさんの声がめだってて、一人はブタみたいにまるまると太っていて、ではなくて、イルカみたいにきゅっきゅっと太っていて、もう一人は泥水をかぶったような服を着ていて、ではなくて、パリコレクションみたいな服を着ていて、最後の一人は、まあ、普通ね。普通のおばさん。私はブタとパリコレは嫌いよ。まあ、ブタがパリコレに出演するのは楽しそうだけれど。乱入してすべてを台無しにするのね。そういうのは好き。
女の子は右のおさげを筆のようにして頬をなでていた。
「ブタがパリコレに出演する映画があるじゃない? 知ってる?」
「ああ、どっかで見た気がします」ホントにあるのね。「だけど、あれってパリコレでしたっけ? えっ、あの映画ですよね?」
「そう、あの映画。そういえばブタは神聖な動物なのよ。どうしてだか知ってる?」
「私の目からは、神聖っぽくは見えないですね。汚らしいだけです」
「でも神聖なの。人間はおっぱいが二個しかないでしょう? でもブタは十四個もあるんだから、神聖なのよ」
「じゃあ、ウサギはどうですか?」女の子は私の目をじっと見つめて、私はちょっと恥ずかしくなって目をそらせた。「たぶんウサギもおっぱいはいっぱいだと思います。何個あるかは知らないけど」
「ごめんなさいね。ジョークを言っただけだから。つまらなかったかしら?」
「いえ、けっこうおもしろかったです。たぶんブタもウサギもいっぺんに何匹も赤ちゃんを産むので、おっぱいがいっぱいなんですよ。みんな仲良く吸うんですね」
イルカにはおっぱいがあるのかしら? 哺乳類だからやっぱり。でもどうやって授乳するの? 泳ぎながら食いつく? かわいらしいわね。
あそこの人はケータイをいじってて、今どきって感じね。昔の人は新聞を広げて読んでたみたいだし、それに比べたらケータイを見るのってそんなに悪くないわよね。電車で化粧をするのは当然みっともないけれど、新聞を堂々と広げるのも同じくらいみっともないし、ケータイというのはいいものね。
なんだか鼻がむずむずしてると思ったら、くしゃみが出た。
くしゃみは三種類あって、〈はくしょん〉と〈へっくしゅん〉と〈うでっしゅ〉の三種類ね。さっきのは〈うでっしゅ〉だった。だから少し恥ずかしくて、でもこっちを見てる人は誰もいなくて、あいかわらず静かなままで、ブタの声がめだっていた。パリコレはおしとやかで、ちょっと見直しちゃった。でも普通のおばさんは口を大きくあけて笑って、まったく下品ね。それに胸がむだに大きいし。年をとると小さい方がいいのに。巨乳のおばあさんほど残念なものはないわ。残念というか、悲惨ね。
「どうして家出をしたの?」
「そうですね。宗教上の理由ですかね」私は笑ったけれど、女の子はまじめな顔のままだった。「信条に相違を見つけたんですよ」
「もし宗教上の不都合がないなら、詳しく聞かせていただけないかしら?」
「私、学校でいじめにあっていて、ひどいものです。体操服を窓から投げられたり、トイレに入ってると上から水が降ってきたり、もう意味がわからなくて。私、虚言癖があったんですけど、だから先生からも嫌われてて。とにかく学校に行くのがいやになって、それからいろいろあって、これは話すと長くなるので省略しますけど、簡単に言うと、信条の相違が見えてきて、結局、家出を決心したわけです」
「どこへ行くつもり?」
「できるだけ遠くに」
「どれだけ遠くへ行っても自分からは逃げられないわよ」
「なんですか、それ? 映画のセリフみたいですね」女の子はまた私の目をのぞきこんだ。私はがんばって見つめ返した。「どれだけ遠くに行っても自分からは逃げられない。私はそういう考えには懐疑的です。自分から逃げることはできますよ。というか、別の自分になることはできます。だって〈家での私〉と〈学校での私〉と〈今ここにいる私〉とではぜんぜん違うし、居場所が変われば別の自分になって、だから自分から逃げることはできなくても、別の自分になることはできるんですよ」
「でも、ずっと旅をするわけにはいかないでしょう? どこかには落ち着かないと。どこで落ち着くかは決めてるの?」
「落ち着く場所は決まってます」
「あらっ、そうなの? どこ?」
「あちらの世界です」
「あちらの世界?」
「端的に言うと、あの世です。死後の世界」
女の子の横顔をまじまじ見るくらいに、びっくりしちゃった。別にこの子が自殺するなんて思わなかったけれど、でもこの子がとんでもなく追いつめられていることはわかったわ。それとも、ただの脅し? このさいだからこの子と旅するのもいいかも。楽しめそうなときには楽しまないと。
「これからどこへ行くつもり? どこか行きたいところはある?」
「できれば新幹線に乗りたいですね。お金を出資していただけたら嬉しいんですけど。少しでいいんで。お願いします。お金はありますよね?」
「ええ、お金持ちなのよ、私は」
「そうみたいですね」
「あらっ、詐欺師なの?」
「詐欺師?」女の子の目は大きく開いて、本当に驚いているみたいだった。「私、まだ中学生ですよ」
「中学生でも詐欺師になれるわ」
「映画みたいですね」
「そうね」私は笑った。「映画が好きなの?」
「はい、大好きです、ホラー映画以外は。あっ、あと戦争映画も嫌いです。だけど時代劇は好きで、侍の戦争なら好きですね。あと宇宙の戦争も好きです」
鼻がむずむずしてきて、ポケットからティッシュをとりだした。鼻をかんで、ティッシュを確認すると、あいにく何も収穫はなかった。まえに鼻をかんだときに、黒くて細いものを収穫したことがあるのだけれど、いわゆる鼻毛というやつをね。そんなことは人生でまだ二回くらいしかなかったし、だからそのときはとても嬉しかった。誰かさんが言うように、幸せはどこにでもあるのね。
ところで、耳毛ってのはよくわからないわよね。眉毛が長いおじいさんは上品な感じがあっていいのだけれど、でも耳毛が出てたら、もうあれね、それだけで幻滅する。不潔なのよ、耳毛は。
女の子はまた右のおさげで頬をなでだした。クセなのね、きっと。足もとを見ると、スニーカーは左右でヒモの色が違って、左は白色で、右は黄色。オシャレなのかしら? それとも白色のヒモがなかったから? きっとオシャレね。
「なにか悩みはある?」
「悩みですか?」女の子は握り拳でおでこをコンコンと二回たたいた。心の扉をノックしたみたいだった。「特にないですね。私、天性の楽天家なんです。体操服を窓から投げられても、眠れなくなるほど思い悩むことはなかったし、いつも快眠で。あっ、だけど一つだけあって、しいて言うならですけど、胸がぺったんこなのは少し悩んでます。まあ、これからなんですけど」
「あらっ、シンプル・イズ・ザ・バストじゃない?」
「なんですか、それ?」
「シンプル・イズ・ザ・バストよ」
「はい」
「つまらなかったね」
「はい、すべりましたね。画期的すぎたんですよ。だけど、ブタのおっぱいはおもしろかったですよ。あれは傑作でした」
あれは傑作ね。死んだらお墓に刻んでほしいわ。ブタのおっぱいは、あらっ、ブタもパリコレもいなくなってる。もう降りたのかしら? 残念ね。みんな目的地があって、向かうべき場所があって、でも私にも女の子にも目的地はなくて。いつから?
離婚すると世界が広がって。離婚したときには、今ならどこでも行くことができる、そんな気にもなったものだわ。もちろん結婚中でも行くことはできたけれど、あのころはそれだけの気力はなくて、日々の生活で精いっぱいで。まあ、離婚してもどこにも行かなかったのだけれど。時間はたくさんあったのに。どうしてかしら?
あのカップルはなんだかいいわ。男の子があくびをして、女の子もつられたみたいで、気持ちよさそうにあくびをして、女の子はちゃんと口を隠してね。二人はささやかに笑い合って。まだ昼前なのに、なんだかいいわ。ミカンが似合う感じね。メロンはぜんぜん似合わないし、リンゴも少し違う。トマトだったら幼すぎるし、やっぱりミカンね。大きいのじゃなくて、小さいの。窓辺でひなたぼっこしてる二つの小さなミカン、そんな感じね。なんだか秋らしい雰囲気があって、ステキだわ。
私は秋が一番好きよ。夏は暑いし、冬は寒いし、春は、まあ、春でもいいのだけれど、年をとると秋が好きになるのよね。
「ねえ、お嬢さん、好きな季節は何?」
「好きな季節ですか? そうですね。特にありません」
「あらっ、やっぱり春か秋がいいんじゃないかしら?」
「そうですね。だけど私はインドア派なので」
「インドアハ?」
「インドア派というのはアウトドア派の反対で、日本語にすると、室内主義者、ですかね。私、いつも室内にいて、だから夏でも暑くはないし、冬でも寒くはないし。最近の学校はエアコン設備が整ってるので。公立はどうかは知りませんけど」
「私は秋が好き。秋は食べ物がおいしいし、食欲の秋だものね。それに、桜より紅葉の方が好きで、どうも年をとるとそうなるみたい。若いころは紅葉なんてちっともよく思わなかったけれど、いつのまにか紅葉の見所がわかってきて。じんわりと染み入るような感じがあるのよ、紅葉って」
「私も桜より紅葉の方が好きです」
「そうなの? どうして?」
「雰囲気的にですかね」
「そうよね。なんとなくよね、好きな理由って」
「イチョウっていいですよね」
「そうね。黄色になると、風情がでてくるのよ。黄色の補色は青色でしょう? だから黄色だと空に似合うのよ」
「いえ、どっちかと言うと、緑色のイチョウの方が好きで。光沢感がいいんです。モミジはカサカサしてるけど、イチョウはツルツルしてて。私、カニやカブトムシが好きなんですけど、イチョウの方がもっと好きです。あの光沢感がいいんです」
「なら、ゴキブリは?」
「そういう意味じゃないです」
「そうよね。そうだと思った」
駅に着いたから、私は降りて、女の子もついてきた。みんなエスカレーターの列に並んでいて、運動不足は体に毒だし、日々の心がけは大切だと思うのだけれど、そうじゃない人もたくさんいるみたいね。それにしても、エスカレーターを歩いて上がる人がいるけれど、あれはダメね。下品よ。あれは歩くものじゃないんだから。乗るものなんだから。みんな歩行者のために左の方によってるけれど、そんなことしなくてもいいのよ。だってエスカレーターは乗り物なんだから。
大きな駅だから人がたくさんいて、あたふたしてると、女の子が先導してくれた。手まで繋いでくれて。あたたかい手ね。
新幹線なんて何年ぶりかしら? 飛行機なら十年くらい前に乗ったけれど、新幹線はもうずいぶんね。
私たちは列に並んだ。受付はみんな女ね。受付男子は流行らないのかしら? スーパーマーケットのレジは男もいるのに、それとも今日はたまたま女だけで、ふだんは男もいるの? 私が昔に乗ったときには男もいたような。切符をパチンとする人は決まって男だったような。この子は切符をパチンとするって知ってるかしら? まあ、映画が好きみたいだし、昔の映画で出てきて、あんがい知ってるかもね。
女の子の重心が少し左にずれたかと思って、ちらりと下を見ると、足を交差させていた。西に行くのかしら? それとも北? 北がいいわよね。女の子は天井をじっと見つめだして、私も見たけれど、そこには何もなかった。今度は床をじっと見て、もしかして首の体操をしてるの? でも顔をあげたあとは右にも左にもひねることはなかった。
ようやく私たちの番が来た。そういえば女の子の名前をまだ聞いてなかったわ。でも、名前を知らないのもいいかも。そういう関係は楽でいいし。ああ、やっぱり西に向かうのね。私も西がよかったのよ。春だったら北がいいけれど、秋は西がいい。
「あのう、お金はありますよね?」
「はいはい」私はサイフからお札を五枚とりだした。
「どうもありがとうございます。では、こちらでお願いします」女の子は名刺みたいに両手でお札をわたした。「はい、どうも。ええ、ええ、そうですよね。万事了解いたしました。おばさま、これ、おつりございます。では、参りましょうか。ふう、疲れますね、敬語は。そういえば、ホテル代もありますよね?」
「カードがあるから大丈夫」
「あとは駅弁ですね。あっちです。新幹線といったら、なんといっても駅弁ですよね。ちょうど時間帯もいいし、季節もいいし」
「天気もいいしね」
「天気は関係ないです。新幹線の中で食べるんですよ。窓は開けられないんです、構造的に。それで、いつまで一緒に旅行してくれるんですか?」
「あらっ、家出じゃなかったの?」
「はい、家出です。だけど旅行でもあって。家出をして、そして旅行をする。それで、いつまで旅行してくれるんですか? 私の方でもいろいろと考えたいので」
「じゃあ、週末まで」
「週末ってすぐじゃないですか!」女の子は私の目を見た。「今日は木曜ですよ。映画では二週間くらいは旅行してました。というか、お金はいくらあるんですか?」
「いくらって、そうね。積みあげると宇宙に達するくらいはあるわ」
「なんですか? 積みあげるって、一万円札をですか? それとも一円玉? 意味がわからないので、中学生でもわかるように言ってください」
「心配ないわ。お金はあるし、なくなったら一人でなんとかしなさい。私は家出したわけじゃないけれど、お嬢さんは家出実行中の身なんだもの」
女の子は両手を頬にあてて、お弁当をじっくりと見ていった。それはお弁当が楽しみでしかたないOLみたいにルンルンとしていた。仕事はぜんぜんできなくて、お弁当だけが楽しみなOLさん。私は普通のお弁当をとったけれど、女の子がヘンテコな入れ物のお弁当をとったから、普通のお弁当を置いて、ヘンテコなのにすることにした。栗おこわ。変わった女の子と旅行するんだもの、こういうのがいい。
店員さんは男前で、ちょっと得した気分。やっぱり受付やレジは容姿がいい人がすべきなのね。それに誠実さも大切で、あっ、またジョークを思いついちゃった。息子はあのころはちゃんとしていて、でもお金は人を変えるのよね。いくらジョークが上手でも、人をだますのはいけないわ。ウソは人を笑わせるためにあるのだから。
「ねえ、お嬢さん、好きな食べ物は何?」
「そうですね。コンビニのおにぎりですかね。信仰深い人たちは〈料理は心をこめないといけない〉とか言いますけど、そういう考えには懐疑的ですね。コンビニのおにぎりには絶対に心がこもってないし、市販のチョコレートにも絶対に心がこもってないし、だけどどっちも美味です」
「そうかもね」私は笑った。「どうしてコンビニのおにぎりなの? 心がこもったおにぎりはダメ?」
「別にダメじゃないですけど、昔からコンビニのおにぎりが好きなんです」
「具は何が好き?」
「なんですか?」
「おにぎりの具は何が好き?」
「定番ですけど、やはりシーチキンマヨネーズですかね。私、大トロよりシーチキンマヨネーズの方が好きなんです。美食家ならぬ、粗食家です」
「私の好きな食べ物はなんだかわかる?」
「わからないですよ、もちろん」
「意外かもしれないけれど、中華料理が好きなの。ホイコーローとか、チンジャオロースとか、バンバンジーとか、チンパンジーとか」
「チンパンジーは中華料理じゃないですよ」
女の子の辞書には〈ジョーク〉という言葉はないみたい。でも満足したわ。
女の子から大きな切符をわたされたのだけれど、なぜか二枚もあって、どうして二枚もあるのよ? 女の子はもう改札の向こうに行っていて、私は二枚の切符をひらひらさせた。
「重ねて入れるんです」
「二つとも?」
「そうです。重ねて、こっちが表です。で、入れてください」
女の子の言うとおりにすると、二枚の切符はするりと入って、向こう側にすぱっと出てきて、なんだか気持ちよかった。もう一回したかったけれど、子供じゃあるまいしね。でも、どうして二枚もあるのよ? 出てきた切符をとって、女の子に先導されてエスカレーターに向かった。
プラットホームに着くと、ベンチまで歩いていった。
あらっ、あのおじさん、たしかさっきお弁当売り場にいた人だわ。別にいいのだけれど。でもなにか運命を、いや、あんなおじさんに運命を感じちゃいけないか。頭は中途半端にハゲてて、中肉中背で、肩幅が少し大きすぎるスーツを着てて、週末には競馬に行くような感じね。それとSMも好きそう。ムチが好きなのね。もちろん打つ方じゃなくて打たれる方が。じゃあ、競馬はダメか。
おじさん観察もつまらないし、お弁当を食べたくなってきちゃった。女の子はお弁当をひざの上に置いて、前を見ていて、そこには多くの広告があって、清潔そうな人たちが笑みを浮かべていて、楽しそうな広告ってなぜかわびしく見えるのよね。
「人生をやり直すために、まずすることはなんだと思いますか?」
「人生をやり直すためにすること?」私は女の子の横顔を見た。女の子はこちらを見ることはなかった。「なにかしら?」
「人生をやり直すためにまずすること、それは正直になることです。すべてはそこから始まるんですよ。みんな〈正直になるように〉と教えられてきたはずなのに、思春期に入るとそのことをすっかり失念してしまって、だから誰もが一度は人生をやり直さないといけないんです」
「映画のセリフみたいね」
「人生をやり直すつもりはありませんか?」女の子はまじめな顔を向けた。「昔にした悪事を告白するつもりはありませんか? 私、わかるんです。あなたは昔に悪いことをしましたよね? そしてそれはこれまでに誰にも話したことがない。違いますか? 今からでも遅くはありません。人生をやり直しませんか?」
「何を話せばいいのかしら?」
「過去にした悪事です。だけど、時間はまだまだありますし、気長にいきましょう」
たしかに私は昔にとんでもなく悪いことをしたけれど、それをここで話したところでなんにもならないわ。それに、人に弱みを握られるのは気分が悪い。たとえ知らない人であっても。
それにしても、この子はどうしてそのことを? ああ、よく考えてみたら、誰もが昔に悪いことをしたことがあるし、長く生きてればね。悪いことをしたことがない人は、気づいてないだけよ。私はちゃんと気づいてるし、でも私くらい悪いことをした人はそうそういないと思うけれど。でももう終わったことだし、そう、終わったことは終わったことなのよ。道はいつでも未来に続いてるの。それでいいじゃない?
あの男の人はなんだかいいわ。新聞を小さくたたんで読んでいて、どことなく気品があって、スーツが似合っていて。それに比べてあのおじさんは。男は品が大切よね。女もそうなのだけれど、品というものは、あれね、あれ。人の本当の価値は品で決まるのよ。正直なんて必要ないわ。品こそすべて。
女の子は例のあれをしてた。おさげで頬をなでるやつね。ムチ好きのおじさんは腕をくんだまま立ちつくしていて、何を考えているのかしら? やっぱりあのこと? がんばってほしいわ。向こうの方には人がたくさんいて、でもこっちは閑散としてて、どうして向こうにばかり集まってるのかしら?
「どうしてあちらに集まってるの?」
「自由席だからじゃないですか」
「何、自由席って?」
「えっ、自由席を知らないんですか?」女の子は私の目をまじまじと見つめた。「自由席というのは、まあ、指定されていない席です。空いてる席ならどこでも座っていいんです。電車と同じですね。だけど指定席とグリーン車は指定された席にしか座れなくて。ここに席の番号が書いてますよね? この席にしか座れないんです」
「グリーン車というのは?」
「グリーン車は飛行機でいうところのファーストクラスです。高級な席で、だから値段も少し張るんですけど」
「どうしてグリーン車を買ったの?」
「だって私のお金じゃないですし」私は笑ったわ。そしたら女の子も笑った。それは私に向けた最初の笑顔だった。「だって、私だって一度くらいはグリーン車に乗ってみたかったんです。せっかくの旅行なんですから」
「そうよね。ひさしぶりの新幹線だものね」
ふと思ったのだけれど、もしかして空き巣かも。この子にこうして私を見張らせておいて、うちに空き巣に入ってるのかも。それは大変。いまごろ大惨事ね。まあいいわ。もしそうだとしても定期預金があるし、遺産をあげる人もいないし、あまったお金は天国には持っていけないし。でも空き巣なんて、そんな映画みたいなことはないのよね。ちょっと残念。いえ、すごく残念。
新幹線が来たから、乗りこんだ。新幹線ってお手洗いがついてるのね。乗客はほとんどいなくて、女の子につれられて席まで行った。
女の子がお弁当を開いたから、私もお昼にすることにした。女の子は小さな口にちょっとずつ運んでいて、それは刑務所の初日の食事みたいで、もしくは氷の上のアヒルね。慎重にそっとすばやく動くってこと。
お手洗いの汚物はどうしてるのかしら? どこかに秘密の出口があって、そこから噴射してるのかしら? そうなると、新幹線にもお尻の穴があって、しかも十個くらいあって。ブタのおっぱいは十四個、新幹線のお尻の穴は十個。なんだかいいわね。でも食事中だし、この話はまた今度。
女の子はそんなにおいしそうに食べてなくて、お弁当を選んでるときはすごく楽しみな感じだったのに、やっぱり不安なのかしら?
「家出するのってどういう気分? 不安?」
「まあ、少しは不安ですね。だけど大丈夫です。なんとかなりますよ。もしどうにもならないときには死ねばいいんです」
「大げさね」
「本気です」女の子は食べるのを中断して、割り箸の先を見つめた。「だけど、厳密に言えば、死は存在しません。ゼロが存在しないように、死も存在しないんです。人は便宜的に死という状態を仮想してますけど、死は机上の空論にすぎません。なぜなら人は自分が死んだことに気づかないからです。眠ったことに気づくのは、起きたときです。だから永遠に眠ったままなら気づくことはないんです。もちろん他人の死は存在してますよ。だけど自分の死は存在しません」
ちょっとびっくりしちゃった。女の子がかなり変わってるとは思っていたけれど、ここまで変わってるとは。でも、こういう子供って小難しいことが好きだものね。わかった気でいたいのよ、世界というものを。
「お嬢さんは哲学が好きなのかしら?」
「昔は興味がありましたけど、今はもっぱら社会学に興味がいってます」女の子はまた箸を動かしだした。「社会学というか、社会問題に対する解釈ですね」
「たとえば、どういうの?」
「そうですね」女の子は手を休めた。「毎年たくさんの犬や猫が殺処分されてますよね? あれって、じつは食べれば解決するんですよ。殺すのは非道ですけど、食べるために殺すなら、意義のあることになるんです」
「犬や猫って食べられるの?」
「昔の人はウサギを食べてましたし」
「あらっ、そうなの?」
「そうですよ。童謡があるじゃないですか? えっと、〈ウサギおいし、かの山、小ブナ釣りし、かの川〉ですね。それから〈せんば山にはタヌキがおってさ、それを猟師が鉄砲で撃ってさ、煮てさ、焼いてさ、食ってさ〉とか」
「ホントね」タヌキ料理を考えたけれど、うまく想像できなかった。「煮たあとに焼くってどんな料理なのかしら?」
「語呂がいいから〈煮てさ、焼いてさ、食ってさ〉なんじゃないですか?」女の子は箸を持ったまま小指で頬をかいた。「それで、犬や猫を食べればいいのに、それはしないんです。どうしてかと言うと、いろいろな説がありますけど、〈おいしくない〉というのが有力です。命の尊さより食事のおいしさの方が大切なんですよ」
「チワワもダックスフントもトイプードルも、まずそうね」
「殺処分されるのは低級な犬ですよ。高級な犬は捨てられても、すぐに別の飼い主にもらわれます」
なんだかタヌキ料理が食べたくなってきちゃった。イノシシとブタと中間くらいの味かしら? しょうが焼きね、やっぱり。タヌキのしょうが焼き。それにしても、よく考えてみると、大きなダックスフントなら意外といけるかも。ミニチュアはダメだけれど、大きいのならいけそう。
「変なこと聞きますけど、自分の将来に不安を感じることはありますか?」
「私くらいの年になると、将来なんて考えなくなるのよ。あしたのことくらいは考えるけれど、あさって以降のことは考えない」
「失礼ですけど、何歳ですか?」
「七十一」どうしてウソをつくのかしらね。
「てっきり六十歳くらいかと思ってました」女の子は私の顔をまじまじと見た。「それでですね、私も将来は不安ではなくて。問題は今なんです。今が不安なんです」
「それは家出をしたせい?」
「いえ、違います。ずっと前から不安で。今は不安が小さくなってるくらいです。私、本当の自分を探したくて、だから家出をしたんです。生きていく上で最も大切なことは、本当の自分でいることだと思うんですけど、そのためにまず、正直になることから始めるべきなんです。それはわかってるんです。だけど、なかなか難しくて。ついついウソをついてしまって。それでもどうにかしたくて」
なんだか女の子がかわいそうに思えてきて、守ってあげたくなった。この子は家出をして、新鮮な空気にふれるべきなのよ。平気でウソをつけるようになるまでは、そうすべきよ。若いうちにそれをやっておかないと、とりかえしのつかないことになるもの。決めたわ、この子の気がすむまで一緒にいよう。