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094同好会脱退事件02

 翌朝、俺は寝不足で目の下に(くま)を作っていた。隣家の純架を起こしに行く。彼は玄関から出てくるなり、ワイシャツのボタンを外して前をはだけさせ、胸に『S』と書かれた青いシャツを見せびらかした。


「どうだい、徹夜してプリントしたんだ」


『スーパーマン』かよ。にしてもダサ過ぎだろ。


「楼路君、君も徹夜かい? 凄いやつれてるけど」


「ああ、まあな」


 俺は(やまい)をわずらったように、自分の告白を脳内で何度も想像した。奈緒が「私も好きよ」と答えてくれることを妄想する。隣で純架が何を話しているか、まるで耳に入らない。少しずつ踏破(とうは)していく通学路は、今日の重要事をカウントダウンするかのようだ。


「おはよう、桐木君、朱雀君」


 教室に入ると、奈緒が俺たちににこやかに挨拶してきた。純架がまたシャツを誇示した。


「おはよう、飯田さん。同好会に復帰する気はないかい?」


「無理ね」


 それは純架のシャツと質問、どちらにも通じた回答だろう。


「おはよう」


 俺はぎこちなく返礼した。


「うん、朱雀君」


 今目の前で微笑んでいる飯田奈緒が、俺を好きかもしれない。俺は全身が熱くなった。ほぼ勢いに任せて言葉を撃ち出す。


「あのさ、飯田さん。今日の昼休み、ちょっと二人で話したいんだ。いいか?」


 奈緒の表情が曇った。


「二人で話? 同好会に戻れって内容なら困るんだけど」


 俺はやや前のめりになった。


「違う違う。もっと大事な話」


「そうなの? それなら、うん、いいよ。昼休みね」


 そこへ担任の宮古先生が入室してきた。俺たち三人も、他のクラスメイトも、一斉に自分の席に戻っていった。




 前に奈緒へ告白しようとしたとき、時間の流れは速くも遅くも感じた。今、それと全く同じ――いや、あるいは今回の方がより重厚(じゅうこう)な――感覚が世界を覆っていた。腕時計の秒針はハエが止まるぐらい遅く、しかし時針は剛速球のように速く回った。


 昼休みの予鈴(よれい)が鳴り響いたとき、俺はしかしうろたえることなく腹をくくっていた。今回は前回のような一方的な求愛ではなく、奈緒との両想いだ。それが俺を幾分か安心させ、緊張を取り払ってくれたのだ。


「じゃ、行こうか、飯田さん」


「うん」


 奈緒は食卓を囲む女友達に断りを入れると、俺の後についてきた。


 前回は渡り廊下脇の壁際で告白しようとし、先手を打たれて沈黙した。今回はゲンを担いで同じ場所にせず、グラウンドののぞくベンチにした。先客がいなくてほっとする。俺は腰を下ろすと、さんさんと降り注ぐ9月の陽光を仰ぎ見た。奈緒が隣に座る。


「話って何?」


 俺は(かん)ばつ状態の(のど)を手でさすり、おもむろに切り出した。まずは確認。


「飯田さんって、彼氏いる?」


 奈緒は小さく首を振った。


「前にも言ったけど、いないよ」


 よし。俺は勇気を振り絞った。


「あのさ、飯田さん……」


「ねえ朱雀君」


 奈緒はささやいた。


「私、前言を撤回しないといけないんだ」


「え?」


 いきなり意味不明なことを言われて、俺は硬直した。奈緒は周囲を見回すと、俺に顔を近づける。


「私、前に言ったよね。『3年間勉強に邁進する』って。……それ、自分で決めておきながら何だけど、破ることにしたの」


 おう? まさか奈緒から告白するつもりか? 「私、勉強をやめて朱雀君と付き合いたい」とか……。


 だが、彼女の口をついて出た言葉は俺の妄想を粉々に打ち砕いた。


「私、宮古先生に告白しようと思うの」


 俺は更に全身を強張らせた。頭が真っ白になり、周りの風景が遠ざかる。奈緒の台詞を解読するのにしばらく時間を要した。


「は?」


 俺の頭脳はショートして煙を吐き、そんな間抜けな返しを口走らせる。


 奈緒は正面を向いてうつむいた。


「私、最近どうしても宮古先生の事が好きで好きでたまらなくなって……。朝から晩まで、いいえ夢の中でさえ、宮古先生のことばかり考えてて……勉強も全然手につかないの。特に数学の授業なんて最悪。宮古先生の顔を見るのが恥ずかしくて、それでノートを取るのも難しくなったぐらいなの」


 奈緒は頬を染めて独白を続ける。きっと俺ははにわのような顔つきなのだろう。


「結城ちゃんに数学のノートを借りて、家で自主学習をしようにも、宮古先生の顔がちらついてどうにも身が入らないぐらい。だから私、いっときは本気で塾に通おうと考えたりしたわ」


 空を眺める。飛行機雲が細長い線を刻んでいた。


「でも塾にはお金がかかるし、それに問題が私の個人的なことだから、親に払ってもらうのも心苦しいし。それで昨晩、自分で自分の気持ちを確かめて、心を定めたの」


 ふっと息を吐いた。


「宮古先生に想いを告げようって。あなたのことが好きです、付き合ってください、ってね」


 俺は自分が砂でできた作り物のように感じた。さらさらと、少しずつ風にあおられ崩れていくような錯覚が頭を反復する。


「高校三年間、異性とは付き合わないって言ってなかったっけ」


 奈緒は面を上げた。


「そのポリシーを曲げなきゃならないくらい、今の私は宮古先生が好きで好きでたまらないんだ」


 その両目に確固(かっこ)とした意志を感じる。俺は絶望的な思いでその様を見やった。


「前にロングホームルームで鞄と机を調べられたとき、嫌そうな顔をしてなかったっけ、宮古先生に対して」


「そりゃ、好きな人でも嫌いな点はあるわよ。叩いて(ほこり)の出ない人なんていないしね。あのときはむっとしたけど、でも仕方なかったかなって」


 俺はたたみかけた。


「花火大会で俺の袖を掴んでたのは?」


「私、そんなことしたっけ? 覚えてないからたぶん無意識の行動よ。花火がすっごく綺麗だったもんね」


 俺はこめかみを指で押さえた。なじるような口調になる。


「それじゃ、何で『探偵同好会』をやめたんだ? どうして宮古先生に告白するのに、同好会を脱退しなきゃならなかったんだ?」


 奈緒は神妙だ。


「最近私と朱雀君って仲いいでしょう? 少なくとも、私は朱雀君を気に入ってる。仲のいい友達としてね」


 全然嬉しくなかったが、俺は相槌(あいづち)を打った。


「ああ」


「それを宮古先生に誤解されたくなくて、距離を取りたかったの。宮古先生、私と朱雀君が付き合ってるって勘違いしてたから。それを聞いたときはしょげ返ったなあ」


 俺こそそれにしょげ返るよ。


「今の私の優先順位は、『探偵同好会』より宮古先生なの。朱雀君がただの友達だってことを分かりやすく証明するには、脱退が一番だと思ったのよ。ごめんなさい」




 俺は放課後の帰り道、純架を責め立てた。


「何が『飯田さんは君が好きになりつつあるんだ』だ! 思いっきり間違いじゃねえか!」


 純架は胸に手を当てた。


「以上がこの事件の全貌、というわけだね。まあ僕の推理も外れることはあるし。悪かったね、楼路君」


「ふざけんな!」


 俺は今回も告白前にかわされた。むしゃくしゃした気持ちはしかし、清涼な諦念(ていねん)に変わりつつあった。


「……にしても、飯田さんは宮古先生に告白するんだろうか? 先生がうなずいたらカップル成立じゃねえか」


「宮古先生は独身だったっけ?」


「ああ。浮いた話も聞かないな」


 女は16歳で結婚できる。奈緒は12月の誕生日を迎えたら、あるいは……


「ちくしょう……」


 仕方ない。こればっかりは仕方ない。俺は敗北感と悔しさを噛み締めていた。


 純架はそんな俺を見かねたのだろう。ポケットティッシュを取り出し、俺に気さくに話しかけた。


「食うかい?」


 食えるか。




 翌日、一時間目が終わったとき、奈緒が俺の机に来た。小声で話しかけてくる。


「今日の昼休み、告白するね」


 俺の胸がズキリと痛んだ。だが口に出してはこう言った。


「頑張れ、飯田さん。いい結果を期待してるよ」


 奈緒は心からの笑みを輝かせた。


「うん、ありがとう」


 奈緒が戻ると、入れ違いに純架が現れた。会話を聞いていたらしく、にやりと笑う。


「男だね、楼路君」


「うるせえよ」


 俺は不機嫌のふりをしながら机上の道具を片付けていった。

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