079無人島の攻防事件02
「別に、辰野さんが英二をじっと見つめてただとか、その背中へ意味ありげに視線を送っていただとか、そんなこともなかったからな、今まで。関係は『普通』じゃないか?」
「やっぱりそうか」
英二は最初の羞恥が過ぎると、熱心にこちらの話に耳を傾けている。純架が小石を4個増やした。
増やし過ぎだ。
「それにしてもいったいいつから彼女に入れ込むようになったんだい? そんな契機、今まであったっけ?」
「この前の廃校での肝試しだ」
ああ、所塚のせいで散々な目にあったあの『廃校の恐怖』事件か。英二はまつ毛を伏せた。
「あの肝試しで泣く辰野を見ていて、俺は彼女を抱き締めてやりたいと思ったんだ。『俺が守ってやるから』と。それぐらい、あのときの辰野はあんまり可哀想で、でも健気で……」
お前も恐ろしさでほとんど泣いてたけどな。
「そうか。それで辰野さんを好きになったってわけか」
「正確にはそうである自分を発見したっていうか。こんな気持ちは生まれて初めてだった。……俺と辰野じゃつり合わないかな?」
純架はお手玉に夢中だ。左右の手を器用に上下させ、小石をこぼさず正確に舞わせている。
「大丈夫大丈夫、背の低い辰野さんなら、英二君の方が身長は上だからね。ただ身分が違うかな。三宮財閥の御曹司と中流家庭の一市民とじゃ、どう考えても厳しいと思うけどね。本人たちは良くても周りが許さないと思うよ。その辺菅野さんはどう言っていたんだい?」
英二は腕を組んだ。
「結城には相談していない。父上にも母上にもな。これはあくまで俺の個人的問題だ。……ただ同姓同学年のお前らなら相談に乗ってくれるかな、と思っただけだ」
最後はよく聞き取れないほど小声だった。と思いきや、急に声を張り上げた。
「ともかく! 周りは関係ない。これは俺のわがままだが切実な事態だ。どうにか辰野と今より仲良くなれないか? そこに尽きる」
英二は英二なりに覚悟を持って俺たちを沖に引きずり出したというわけだ。ならばこちらも誠意を見せねばなるまい。
「よし、よく分かった。俺が責任持って英二と辰野さんのデートを仕組んでやる。それでいいよな?」
英二はぎょっとした。
「おい、そんなことできるのか?」
俺は自信たっぷりに胸を叩いた。
「この朱雀楼路に任せなさい。2学期が始まったらさり気なく辰野さんを誘って、お前と二人きりにさせてやる。後のことは知らないけどな」
英二は興奮のあまり俺の手を取って握り締めた。記憶にないほどの笑顔だ。
「素晴らしいぞ、楼路。お前は俺の心の友だ」
ふと見れば波が高くなってきていた。
「よし、相談事は終わりだ。ちょっと海が荒れ始めてきたし、そろそろ戻るか」
「そうしよう」
そのときだ。純架がバランスを崩し、海に落ちたのは。
「純架!」
お手玉のやり過ぎで体勢を保てなかったのだろう。あほらしい話だ。純架は小石を自由意志に反して水没させてしまった。
「ああ、僕のソウルメイトが……」
そんなものが友達なのかよ。
「上がれ、純架。手を貸すぞ」
「ありがとう、楼路君」
海中から鎖骨の辺りまでを出し、純架は俺の手を握り締めた。ぐっと力を込める。
その瞬間だった。船の底から、何かが折れる音が聞こえてきたのは。それは乾いた、しかし重要な物音だった。
「おい! 浸水し始めたぞ!」
英二が悲鳴を発した。純架を引き上げてから見てみると、竜骨の中央周りの板に亀裂が入っている。俺は気が動転した。
「やばい! 俺が漕ぐから二人は水を掻き出せ! 岸に急ぐぞ!」
純架と英二は言われた通りにした。畜生、こんなボロ舟だとは思わなかった。とんだ計算違いだ。
いつの間にか空は完全に雲に占拠されていた。俺は額と胸元を汗で光らせながら、懸命にオールで海水をかき分けていく。その間純架と英二は、舟の底に注入される水を手で必死に除去していた。だが浸水の方が圧倒的に速い。絶望的な思いで俺たちはただ一つの目的――岸への生還――に全力を傾けた。しかし雨が俺たちを嘲笑するように降り始める。踏んだり蹴ったりだ。
そして、遂に――
「沈むぞ!」
英二が諦念を込めて指摘した。ボートは折からの高波に飲まれるように、その体躯を海中に没したのだ。
俺たちは海に放り出された。三人とも泳ぎは達者だが、潮流や風に翻弄されて上手く進めない。更に強まってきた降雨が視界をふさぐ。
「くそ、こんなところで……」
俺は純架と英二の姿を見失い、孤独と溺死の恐怖相手に矛を交えざるを得なかった。
波はどんどんそのおぞましい姿をさらけ出していく。熱い体はなぜだか芯から冷え始め、疲労と倦怠の二重奏が音もなく流れ出した。
「純架! 英二!」
雨中、俺は友の名を叫んだ。返事はない。まさかもう水没してしまったのか。
誰の助けも来ない大海原で、俺はそれでも一時間粘った。だが手足は鉛のように、その活力を急速に失っていく。
こんなところで死ぬのか。まだ告白さえしていないのに。
「飯田さん……!」
俺は愛しい人の姿を脳裏に描き、それを活力源として最後の水かきを実行した――
……誰かに肩をつつかれた。邪魔くさい。こっちは疲労困憊で指すら動かすのが億劫だってのに。あっち行け。
しばらくしてまたつつかれた。カラスか? 俺をとって食おうというのか? なら反撃して、俺がまだ生きているという事実を教え込まねばなるまい。お前ごときが朱雀楼路様をどうこうできるものか……!
「生きている……?」
俺は目を見開いた。まだ周囲は明るい。そう、俺は生きている。生きて、どこかにうつ伏せに倒れている。地面は砂だ。降りしきる雨に濡れてはいるが、手で引っかくと跡ができる。この手の平に広がる感触……!
「生きている!」
俺はがばと立ち上がった。隣でひゅっと息をする音が聞こえた。ん? 今のは誰の息だ?
隣を見る。さっきまで俺の肩をつついていた人物――息の主がそこに尻餅をついていた。
「……っ!」
女の子だ。ところどころ泥のついた緑色の服で、髪は金色のおさげだ。青い目と可愛らしい鼻に、白い肌。身長110センチ弱といったところか。年齢は……5歳かそこらだろう。
俺は周囲を見渡した。ここはどこだろう? 一応砂浜と森があるが、陸地なのか島なのか? それにこの子は誰だ? どうも俺は波打ち際に漂着したらしいが、この娘は俺を起こそうとしていたのか? それに、純架と英二はどうなった?
疑問がぐるぐる脳内を駆けずり回る。それに踏み切りを与えて制止すると、とりあえずこの子に事情を聞こうと思った。どうやら外国人のようだが、英語は通じるだろうか。
俺は女の子の前にひざまずき、その両肩に手をかけた。
「アイアムロウジスザク。ホワッツユアネーム?」
彼女は眉間にしわを寄せ、俺の手を振りほどいた。あれ、聞き方間違ったか?
雨はその勢いを減じている。女の子は手にしていた小枝で砂浜に文字らしきものを書いた。それはこんな文句だった。
『Sara』
サラか。これは彼女の名前だろう。サラというのか。でもなんで筆記?
『Roji,I can not speak.』
たどたどしい文章だった。やはり5歳ぐらいの子では母国語さえ満足に書けないようだ。
つか、これって「喋れない」ってこと? 俺はワンテンポ遅れて驚いた。
「俺の話は聞こえる。でも喋れない。そういうことか?」
恐らく彼女の親は最初にこの文章を覚えさせたのだろう。不憫な話だ。
そう思っていたら、別の言葉を書いた。
『Help me.』
そして潤んだ目で俺を見上げる。
いや、助けてほしいのはこっちの方なんだけど。




