007血の涙事件04
山岸先輩はもう完全にあきらめて涙を流してすすり泣いているが、海藤先輩は強情だった。
「それで? 何でその『血の涙』事件とあたしらが関係あるの? 動機は何? 肝心のところが抜けてるじゃないの」
「動機は畑中先生のピアノの音です」
純架はひるむことなく斬りかかる。
「あなた方は自主練するほど吹奏楽部に熱心です。だから毎朝早い時間にこうして練習しに登校します。楽器の重ささえ苦にせずに。そのあなた方にとって、畑中先生のピアノの音は邪魔でした。下手だから嫌なのか、上手だから拒絶するのか、それは分かりませんが。ともかく耳障りでした。だから畑中先生をおどかしてやろうと、どちらからか提案しました。二度と早朝にピアノを弾けなくなるような、そんな痛手を負わせるために。それゆえ、あなた方は今回のいたずらを仕掛けたのです。絵画に血の涙を流させるという、怪奇な方法を用いて……」
「全部憶測だ」
海藤先輩はしぶとかった。
「そこまで言うなら何か証拠でもあるんだろうな? 証拠がないならお前の話に根拠はない。あたしらを侮辱した罪を先生方にならしてもいいんだよ、こっちは」
「あります」
純架は髪をかき上げた。鞄から何かを取り出す。
「ショパンの肖像画に張り付いていた指紋です」
純架が見せたものは、セロハンテープが貼られた黒い紙切れだった。
「今は千円程度で指紋採取キットが販売されていましてね。肖像画からアルミパウダーで検出したものがこれです。これが山岸先輩か海藤先輩の指紋と一致すれば、もう逃れられませんよ」
俺はそのセロテープを横から覗き込んだ。確かに白い指紋が確認できる。
山岸先輩はバネのように立ち上がり、号泣しながら頭を下げた。ほとばしるように謝罪する。
「ごめんなさい! 出来心でした! ほら、千春ちゃんも謝って!」
とうとう海藤先輩も観念したらしく、不承不承起き上がり、ぶっきらぼうに頭を下げる。
「はいはい、ごめんなさい。私たちが悪かったわ」
純架は冷ややかに二人を見つめた。
「なぜこんな真似を?」
「……畑中のピアノは上手いけど、毎回同じ曲を弾くからうざく感じるようになって……。私たちの練習の邪魔になるから、何とかしてやめさせようと考えたんだ。後はお前の言う通りさ。全く、見ていたように正確だな」
俺はようやく深呼吸できた。純架の証拠は嘘八百だ。肖像画の指紋なんて、昨日はまるで採取していなかった。純架が『犯人』を追い詰めるために作った偽物なのだ。そのことに気づいてからこっち、俺は気が気でなかった。海藤先輩が認めず、指紋を比較してみようとか言い出したら、純架はしっぽを巻いて退散するほかなかったのだ。
そうか。それで思い当たった。畑中先生をこの場に立ち合わせなかったのは、そうした「失敗」の可能性を考慮に入れたからだ。なかなか抜け目がない。
純架は細部を聞き出そうとした。
「音楽室の鍵をどうやって手に入れたんですか?」
山岸先輩がおどおどと答える。
「教頭先生に頼んで、忘れ物を取りにいきたいって言って」
「犯行に及んだのはあなた方だけですか?」
「ええ、私たちだけです」
「そうでしょうね。僕は初めから二人の男子、もしくは女子の犯行だと睨んでました。脚立がない以上、複数人で肩車しないと絵画には手が届きません。異性同士だと、女が上ならスカートの中を覗かれたりするし、女が下なら非力で持ち上げられなかったりしますからね。それに団結して秘密を共有するには、三人以上は多過ぎます」
純架は胸に手を当てた。
「以上がこの事件の全貌ですね、お二人さん」
その後、山岸先輩と海藤先輩の両名は、畑中先生に正式に謝罪したという。
その日の放課後、畑中先生は事件を解決した俺たちに――俺は目立つような活躍をしなかったが――大変感謝した。
「君たちのおかげよ。本当にありがとう!」
苦悩から解放されてほっと安堵した畑中先生の顔は、たいそう美しかった。
純架は芸術家が苦心の作品を賛美されたように、顔を紅潮させて胸を反らした。
「それほどでもないですよ。先生がこれからも良質な授業を行なってくださること、楽しみにしております」
畑中先生はつぶやくように言った。
「それにしても……。本人の知らないところで、誰かにうとましく思われる場合もあるのね。気をつけなくちゃ」
その帰り道、素晴らしい夕陽に見とれながら歩いていると、隣を闊歩する純架が聞いてきた。
「楼路君、君も確か僕に言っていたね。昨日の朝だったかな、『お前みたいな奇人、うっとうしくてたまらん』と。君は僕がうとましいかい?」
俺は考えた。結論はすぐに出た。
「ああ、うとましいね」
「そうかい」
純架はうつむいた。俺は続きを口にした。
「ただ、あの二年生女子二人のように、遠まわしの嫌がらせをして喜ぶ気はねえよ。うとましいときはそうだとはっきり言う。それが俺だ。お前も少しは反省して、奇行なんかやめて、真っ当な人間に戻るんだな」
純架は「ゴーストバスターズ!」と叫んだ。
流行が30年遅れている。
「残念だけど、僕は畑中先生のように気をつけたりはしないよ。君が君であるように、僕は僕だよ、楼路君。――お腹が減ったよ。ナルドに行って飯でも食わないか?」
マクドナルドをナルドと略すのは純架ぐらいのものだろう。
俺たちは夕暮れの道を悠然と歩いていった。そのさなか、俺は秘めていた言葉を口にした。
「あのさ、純架。……『探偵同好会』、入ってもいいぜ」
純架は自分の耳が信じられない、とでも言いたげだった。
「本当かい? 何でまたそう思ったんだ?」
「別に……」
畑中先生の感謝する笑顔を見て、この活動はやりがいがあると思った――なんて、恥ずかしくて吐露できない。
「別にいいだろ」
純架は俺の腕を肘でつついた。
「嬉しいよ。ようこそ『探偵同好会』へ! 早速お祝いとして、ボートに乗って捕鯨船に体当たりしに行こう」
誰がやるか。