006血の涙事件03
「目の下に何か破片のようなものがこびりついているな。これは何だろう?」
しばらくの間指でなぞる。不意にその両目がいたずらっぽく輝いた。
「……犯人は当たったかな、ハラヘライスト」
その後、赤い軌跡を念入りに調査した。
「それからこの血。確かに目から流れ落ちた跡がある。ひどい臭いだ。人間のものじゃないな――そう、豚か何かだ。ふむふむ、なるほど」
急に肖像画への興味を失ったように、雑巾に着目する。
「何かの粕がはり付いているようだけど……。こっちは駄目だ、別の汚れが多すぎる。……さて、後は脚立か」
畑中先生は首を振った。
「脚立はもう用務員さんに返してしまってここにはないわ。必要なの?」
「いや、必要ありません。ただ、脚立でも使わないとあの高さの肖像画は付け替えできませんね。それか……」
純架は一人沈思する。俺は我慢できずに口を開いた。
「さっきから何一人で楽しんでるんだよ、純架。分かったことがあるなら教えろよな」
「全ては仮定さ。まだ吹聴して回るほどの成果はないよ。それに、教えてほしいなら『探偵同好会』に入会してくれないとね。……ところで先生、明日の朝もピアノ練習をやるんですよね?」
畑中先生はうろたえた。
「毎朝の日課だし、そうしたいけど……。でもこんな状況じゃ怖くて音楽室に一人でいられないし……」
「僕らが付き合います」
僕「ら」? 俺は眉間にしわを寄せた。
「何勝手に決めてんだコラ。俺は朝が弱いんだよ! そうでなくても誰がこんな薄気味悪い話、首を突っ込むものか」
「もう突っ込んでるじゃないか。毒を食らわば皿までだよ、楼路君」
畑中先生が哀願してきた。
「私からもお願い、朱雀君。一人でも多いほうが心強いわ」
俺は長く息を吐いて、反発する感情を抑えつけた。
「分かったよ。分かりました。起きられるかどうか分からないけど、じゃあ俺も登校するよ、朝っぱらからね」
翌日は天を覆っていた雲も消え去り、見事なまでの快晴だった。俺は純架に言われた時刻にはもう登校準備を終えていた。前の晩に早く眠っておいたのが効果てき面だったらしい。俺は玄関の前で純架が出てくるのを待っていたが、いっこう現れない。
俺は純架の家のインタフォンを鳴らした。ややあって聞き慣れた声が応対する。眠そうな、しょぼくれた口調だった。
『はい、こちら消費者センターですが』
だまされるものか。
「お前が誘っておいて何ふざけたこと抜かしてるんだ。さっさと行くぞ」
『あれ、楼路君か。やあ、そうだったね、畑中先生と約束したんだっけ。ちょっと待ってて』
五分後、ようやく純架が出てきた。
「お待たせ。初乗りは730円です」
タクシーかよ。
まだ昨日の雪があちらこちらに残る中、俺たちは学校へ向かった。
畑中先生とは職員室で落ち合った。やはり音楽室に一人でいるのは心細いという。
廊下を歩きながら、純架は畑中先生に尋ねた。
「誰かに恨まれているような覚えはありますか?」
畑中先生にはこの質問が意外だったらしい。
「いえ、そんなことは……。私は同僚や生徒との関係を大事にして、誰にも分け隔てなく接してきたつもりよ。悪口だって控えてきたし。私を恨む人間なんているはずがないわ……」
純架は立てた人差し指を唇に当て、「しーっ」と息を吹き出した。静かにしろ、ということか。俺たちは立ち止まって耳を澄ませた。
どこからともなくトランペットの音が聞こえてくる。それに、別の楽器の音も。結構な音量だ。
「先生、この音は?」
「吹奏楽部の生徒じゃないかしら。自宅に楽器を持ち帰って、次の日の朝早くから登校して練習しているのよ。吹奏楽部は朝練をやらないから、自主的に、ね。今日に限らず、いつものことだわ」
「じゃあ彼らだ」
俺は聞きとがめた。
「何が『じゃあ』なんだ?」
「先生」
純架は俺を無視し、畑中先生に正対した。
「先に音楽室に行って待っていてください。――ああ、ご心配なく。もう血の涙を流す肖像画は現れませんし、ショパンも二度と泣くことはないでしょう。ちょっと楼路君と野暮用を済ませてきます。では」
畑中先生を置き去りに、俺は純架に腕を引っ張られて歩き出した。
「おいおい、どこ行くんだよ?」
「この音の発生源さ」
純架は珍しく真剣だった。
「いたずらが過ぎたんだよ、まったく」
音楽室のある三階には行かず、階段から少し離れた二階の空き教室へ向かっていく。トランペットと別の楽器の演奏が次第に大きくなってきた。純架は無遠慮に引き戸を開けた。
椅子に座って楽器を鳴らしていた女生徒二人が、突然の乱入者に驚いて息を止める。静かになった教室に純架の声が響いた。
「『彼ら』じゃなくて『彼女ら』か。何年生の方ですか?」
女二名はお互いを見合った。三つ編みの平凡極まりない容姿の少女が答える。
「私たちは二年生よ」
「上級生ですね。じゃあ敬語で話します。……あなた方が、ショパンに血の涙を流させた犯人ですね?」
二人は石で殴られたかのように仰天した。俺もいきなりの展開に面食らう。きつい目の方が椅子から倒れそうになり慌ててバランスを戻す。三つ編みが口を押さえて叫んだ。
「なんで分かったの?」
「馬鹿!」
きつい目が三つ編みをなじった。最初の驚愕が過ぎ去ると、冷静さを取り戻したのか、きつい目は椅子に座り直した。
「何のことだか分からないね。ていうか、お前ら誰だよ?」
二人に負けず劣らず驚いている俺をよそに、純架は自己紹介した。
「1年3組の桐木純架です。こちらは助手の朱雀楼路君。あなた方は?」
三つ編みは気が小さいらしく、体の震えを止めるのに必死だ。
「わ、私は山岸文乃。トランペット担当です」
きつい目が続いた。
「あたしは海藤千春。オーボエやってる。桐木だっけ? 何なの、お前ら。ショパンがどうこう言ってたけど」
「しらばっくれないでいただきたい。現に山岸先輩は認めておられる」
純架は説明を開始した。
「昨日の早朝6時前に、あなた方は音楽室の鍵をこっそり借りて、音楽室に侵入しましたね? 目的はショパンの肖像画に血の涙を流させるため。あなた方は瞬間接着剤とウエハースのかけら、凍らせた豚の血を――恐らく豚肉を絞って手に入れ、ビニール袋に入れていたんでしょう――持ち込んで、一人がもう一人の肩に乗って、肖像画に細工しました。それは簡単なものでした。ウエハースと絵画の目の下の部分を接着剤でくっつけると、その上に豚の血の氷を載せ、既に溶けてしまった血をハンカチで拭います。これでおしまい。そうしていたずらを終えると、音楽室に鍵をかけて、何食わぬ顔で鍵を返却した――そうですよね?」
山岸先輩は涙目で純架と海藤先輩を交互に見ている。海藤先輩は両腕を組んで純架を火が出るほど睨んでいた。純架が続ける。
「血の氷が着々と溶けていく中、音楽室に畑中先生が入ってきます。まだこの時点ではウエハースが頑張っていて、氷を食い止めていました。雪が降っているぐらい寒かったですからね。畑中先生は一つのことに没頭するたちで、ピアノを弾いている間は肖像画の変化に気づかなかった。恐らく演奏中に氷が溶けてウエハースを濡らし、ふやけさせ、下へと最初のしたたりを始めたのでしょう。そして畑中先生がいったんピアノの手を休めた間に、『血の涙』は床へと落下して、彼女の聴覚にその存在を知らしめた、というわけです。その後、畑中先生は健気にも脚立を借りて自力で肖像画を取り外しました。しかし気が動転しており細かいこと――たとえば床に落ちたウエハースの欠片など――に気づかず、血痕を雑巾で拭き取ったのです。いかがですか?」