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005血の涙事件02

 純架は俺を畑中先生の元へ無理矢理引きずっていった。先生が俺たちに気づく。授業の熱が過ぎ去ると、彼女はまた不健康な顔色に逆戻りしていた。


「……どうしたの?」


 純架は柔らかい口調で話しかけた。


「先生、あまり血色がよろしくありませんね? 何か悩み事ですか?」


 畑中先生はかすかに首を振った。


「気のせいよ」


 純架はかまをかけた。


「ショパンの肖像画がなくなったのと関係があるんですね?」


「えっ?」


 畑中先生が驚愕(きょうがく)し、胸を手で押さえた。どんぴしゃだったらしい。俺は割り込んだ。


「ショパンの肖像画を誰かに盗まれた、というわけですか?」


 もしそうならこれは窃盗だ。警察の職務の範ちゅうに収まるもので、純架の――『探偵同好会』の出る幕ではない。俺は興味をなくした。


 そのことを鋭敏にも見抜いたのだろう、純架は俺をひとにらみした。畑中先生に名刺を差し出す。それは最近純架が作ったもので、『「探偵同好会」……お悩み・ご相談は1年3組桐木純架まで。それではしばしご歓談を』という意味不明な代物だった。


「僕は『探偵同好会』をやってます。もし僕の力が必要だと思ったらご連絡ください。探し物も受け付けますよ。もちろん秘密は厳守いたします」


 純架は優しく語り掛けると、世の女全てを篭絡(ろうらく)できるような笑みを浮かべた。畑中先生の頬に血が上る。


「あ、ありがとう」


「それでは」


 純架は彼にしか見えない竹竿(たけざお)の下を潜り抜けるように、リンボーダンスをしながら退出した。そのことに関する説明はなかった。




「畑中先生、来なかったね」


 放課後まで待っても彼女が1年3組に足を運んでくることはなかった。嘆く純架をよそに、俺は鞄を肩に提げると大あくびした。


「信用されなかったか、そもそもおお事ではなかったか。どっちかだろうよ」


「せっかく悪霊退散の壷を10万円でお譲りしようと思ったのに……」


 霊感商法か。


「じゃあな、俺は帰るぜ」


 俺は純架を置き去りに教室を出ようと歩を進めた。廊下に踏み出すなり誰かとぶつかる。


「きゃっ!」


 甲高く短い悲鳴を上げたのは畑中先生だった。来ちゃったか、この人。


「おっとごめん、先生」


「いえ、私こそ不注意で……。桐木君は?」


 純架は頬杖をついて俺たちをにやにや眺めていた。くそ、むかつくなあ。


「先生、よくぞお越しいただきました」


「良かった、まだ帰ってなかったのね。お時間いいかしら?」


「はい、問題ありません。ここで話しますか?」


「ええ。音楽室はちょっと怖くて……」


 音楽教師が音楽室を怖がるとは、一体どういうことだろう。


 純架が俺に声をかけた。


「君も暇だろ? 付き合いたまえ」


 純架が勧めた椅子に腰を落ち着けた畑中先生は、同じく適当に座った俺と純架とを交互に眺めた。


「このことは他言無用というか、気味の悪い話なんで、誰にも喋ってほしくないの。まずそれを守ってほしいんだけど……」


 純架はうなずいた。俺も不思議な前置きに点頭する。畑中先生はほっとしたようにかすかな笑みを浮かべると、重たそうに口を開いた。


「最近私は毎朝6時には登校してるの。というのもピアノコンクールでの演奏を目標にしていて――正確にはグランミューズ部門A1カテゴリーって言って、23歳以上上限なしの大会があるんだけど――それを目指してピアノの練習をするためなの。地区予選では5分以上7分以内のプログラムを暗譜で演奏するのね。私はフランシス・プーランクのナポリから『イタリア奇想曲』を選んだのだけど」


 純架はほう、と吐息を漏らした。


「プーランク、あのフランス6人組ですか。その曲ならだいたい5分くらいですね」


「それで毎朝6時10分には音楽室の鍵を開けて、ピアノの前に座って弾き始めるの。今日も時刻はその辺りで、私は夢中になってかなでたわ。気がついたら6時半を過ぎていたかしら。そのとき、私は妙な音に気づいたの」


 俺はいつの間にか真剣に聞き入っていた。


「妙な音?」


 畑中先生は誰かに盗み聞きされてはいないかとばかり、戦々恐々として周囲に目を配った。


「水滴が床に落ちる、あの音よ」


「今日は雪が降ってるから、その音ですかね」


「私も最初そうだと思って気にせず再度鍵盤を叩こうとしたわ。でもね、ふっと教室の肖像画に目がいったとき――私は悲鳴をこらえ切れなかった」


 畑中先生は内緒話をするように顔を寄せ、声を低めた。


「驚いたことに、ショパンの肖像画の両目から、真っ赤な血が流れ落ちていたの。血の涙――」


 畑中先生は自分の肘を抱いて絶句した。戦慄と恐怖で今にも泣き出しそうだ。俺も背中に氷柱を入れられた気分だった。絵画が血の涙を流すなんて、オカルトにもほどがある。


 他方純架は、この異様な話にすっかり興味をそそられたと見える。いつもの奇行は鳴りを潜め、狂おしいまでの輝きが両目にへばりついていた。


「血の涙、ですか。それは教室に入ったときにはすでに流れていて、演奏の休みまで気がつかなかったんですか? それとも演奏中に流れたんですか?」


 畑中先生は震えながらも気をしっかり持つためか、声を励ました。


「私が教室に入ったときには血のしたたる音はしてなかったし、肖像画も――視界の端に映り込んだ程度だけど――涙をこぼしてはいなかったわ。明らかに私が部屋に入ってから流れたものよ」


 俺の背筋が寒くなったのは冷気のためだけでない。


「呪いだ。きっとショパンの呪いが血の涙を流させたんだ」


 純架は軽蔑したような視線を俺にぶつけた。


「そんなわけないよ。もしそうなら僕もお手上げだ」


 畑中先生は半泣きだ。


「私はショパンの肖像画の異変にすっかり怯え上がって、音楽室から逃走したわ。職員室に駆け戻って助けを呼ぼうと考えたの。でも途中である予想が立って静止したわ。もし、もし私がショパンのことを誰かに話したら、回り回って生徒たちに知られてしまうかもしれない。彼らに音楽室を気味悪がられるかもしれない。そう思うと、とてもじゃないけど他の先生方に知らせるわけにはいかないと思ったの」


 畑中先生は目尻を拭った。


「幸い時間はまだあった。だから私は用務員さんに頼んで脚立を借りて、一人音楽室に戻ったわ。そうしてそれに上って涙を流すショパンの肖像画を外し、床に落ちた血も雑巾で拭い取って、何事もなかったかのように(よそお)ったの。――本当に怖かったわ」


「勇敢な話です。それで今朝は顔色が優れなかったんですね」


 純架は髪をひと撫でした。


「今は肖像画と雑巾は?」


「音楽準備室に隠してあるわ」


 純架はこともなげに言った。


「じゃ、現場と品物を見に行きましょう」


「ええっ?」


 畑中先生の顔が青ざめた。たぶん俺も同じ表情だったろう。純架は平然として立ち上がった。


「何、プーランクはショパンを尊敬していたんですよ。きっと先生の巧みなプーランクを聞いて、ショパンも感動の涙を流したんです。そう思えば怖くないでしょう?」


 そして俺たちはおっかなびっくり音楽室に入った。蛍光灯を点ける。左から三番目が欠けた肖像画たちが俺らを出迎えた。


「早速見せてください、先生」


 畑中先生は怖気づいている。


「あんまり近づきたくないけど……仕方ないわ」


 純架と俺は畑中先生の後に続いて準備室に踏み込んだ。机の上に問題のショパンの肖像画が置かれている。泣いたショパンがこちらを凝視し、呪いをかけてきそうで、俺は正視できなかった。それとは別に、嫌な臭いが嗅覚を襲い、俺はうめいた。


「こりゃ何の臭いだ」


 畑中先生は純架の背に隠れるようにしている。純架は気にせず肖像画を無造作に検めた。何か納得できることでもあったのか、しきりに首肯している。

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