043過去の落とし物事件05
その後、本物の落とし主は現れぬまま昼休みを迎えた。午前中降り注いだ梅雨の雨滴は、ようやくその勢いを減じ、分厚い雲間から陽光が差し込むのを許していた。
「行こうか」
俺と純架、奈緒、日向の四人は、休憩が始まるや否や、ある場所へ乗り込もうと足並みをそろえた。純架の後に続いていく者たちで、行き先が分かっているのは、今朝の聞き込みに参加した俺だけだ。奈緒と日向は詳細を語られぬまま、純架の「すぐに分かるよ」との投げやりな説明に渋々納得させられた形だ。今は秘密主義の会長の背中に抗議の視線を投げかけつつ、遅れないようにそれを追いかけている。
純架は立ち止まった。
「ここだよ」
『美術準備室』の室名札が掲げられている。奈緒がいぶかった。
「ここに何があるのよ」
「僕らの探し人さ」
純架は引き戸をノックした。「どうぞ」と、聞き慣れた声が室内より返ってくる。純架は中に入った。
そこで食事していたのは、田尻先輩と、そして――
「金近先生」
奈緒が思わず声に出した。美術教師の金近優子先生が椅子に座り、こちらを見上げていた。その目に内心の動揺が反映されている。
「桐木君……」
純架は一礼した。
「お食事中失礼いたします。我々は『探偵同好会』です。先生にこれを届けに参りました」
そう告げて水戸黄門の印籠のように取り出したのは、小平先輩の生徒手帳だった。
「これは……!」
金近先生が絶句した。奈緒が俺の袖を引っ張る。
「ちょっと朱雀君、これどういうこと?」
「今朝ちょっと純架と聞き込みしたんだ」
小声で教える。
「それで分かったのは、田尻先輩と金近先生が懇意であること、よく一緒にここで食事を取ることだった。そこから純架は推理したんだ。金近先生が田尻先輩に、生徒手帳を受け取る代役を頼んだんだ、と」
金近先生ははたから見ても驚くほど狼狽していた。
「え? 何で? 何で私が持ち主だって分かったの?」
天然の金近先生は、その一言で肯定してしまったことに気づいていないようだ。
「やはりそうでしたか」
純架は再びポケットに手帳をしまい込んだ。金近先生が餌を取り上げられた猫のような顔になる。
「金近先生、あなたは小平真治先輩を愛しておられるんですね」
純架の投じた爆弾に、金近先生は飛び上がってうろたえた。
「そんな、そんな!」
耳まで赤くなる。その様子を見ていた田尻先輩は、親愛なる教師の仰天振りにあきれたようなため息をついた。
「先生、ちょっと落ち着いてください」
「だって、桐木君がびっくりすること言うんだもの」
拗ねたように口を尖らせる。純架は金近先生をうながした。
「小平先輩との関係について、洗いざらい教えてください。そうじゃないと手帳を返しませんよ」
「ええっ」
金近先生は垂直に腰を落とした。椅子が軽くきしむ。うなだれて息を吐いた。
「話さなきゃ駄目?」
「もちろん」
金近先生はふっと笑顔を見せた。
「そうね。最初にさっさと名乗り出なかった私が悪いんだものね。いいわ、白状する」
『探偵同好会』一同を見渡す。
「そうよ、桐木君の言う通り。私は一昨年入学した、1年2組の小平真治君と恋に落ちました」
日向が両手を組んで目を輝かせている。
「胸がきゅんきゅんしますね!」
金近先生は頬を染めた。
「最初は格好いい生徒が美術部に入部してきたな、って思っただけでした。でもコンクール目指してひたむきに上手くなろうとする、頑張る小平君を見ているうち、なぜか頬が熱くなる自分を発見したんです。それが何なのかはっきりしないまま、季節は流れて9月の17日になりました。この日は私の誕生日でした。小平君は私へのプレゼントとして、私をモデルにした肖像画をくれたんです」
金近先生は両手で顔を挟んだ。
「スマホで撮影した私の写真を参考に、自宅で描き上げたものでした。私はそこに描写された笑顔の私を見て、ようやくこの胸のときめきが、乙女のような恋心に起因するものだと知りました。だってキャンバスの私は、それ以外に説明のつけようがないほど少女らしく、無垢な愛を抱いた姿だったんですもの。私は、小平君が好き……。自分の家で何十分、何時間と飽きることなく小平君の作品を見ながら、私はでも、自分のその心を扼殺しようと懸命になりました。私は先生、彼は生徒。恋愛感情なんてもっての他です。私はそれを態度に出して小平君と距離を置くよう自分を仕向けました」
純架はこの告白を無言で聞いている。続きをうながす必要はなかった。
「それに気づいた小平君は、ある日部室に二人きりの状況を作ると、私を問い詰めました。『自分が描いた絵は、そんなに気に入らなかったんですか。もしそうなら謝ります。どうか機嫌を直して、また以前のように仲良く指導してください』と。私は追い詰められ、嘘をつけない自分を恨めしく思いました。『気に入らないなんて、そんなことあるわけないでしょう。あれは、小平君がくれた肖像画は、私の人生で最大の宝物です』。小平君は『じゃあなぜ』と問い詰めてきます。私はとうとう泣き出しました。もう何も言えず、ただただ嗚咽し、涙をこぼすばかり……。そのときでした。小平君が私を抱き寄せ、抱き締めてくれたのは」
日向が悶絶している。奈緒も前傾姿勢を維持していた。好きなんだな、こういう話……
「小平君は言ってくれました。『先生、好きだ。ずっと前から、いや、一目見たときから。ちょっと気が早いけど、俺のお嫁さんになってください』。私は心から待ち望んでいたその言葉を実際に聞くことが出来て、あまりの嬉しさに天にも昇るような気持ちでした。でも大人として、先生として威厳を示さなくてはなりません。『私は先生であなたは生徒ですよ、小平君。付き合うわけにはいきません』。すると小平君は言いました。『待ちます。俺が高校を卒業するまで待ちますから』。そして、小平君は、私に、その、あの……チュ、チュウを……」
顔を真っ赤にして立ち上がり、目前の純架の胸を叩く。
「先生に何言わせるんですか!」
いや、自分で言ってるし。純架は苦笑して引き取った。
「なるほど、そういうことがおありだったんですね。……しかし二人には試練が待ち構えていました。小平先輩の引っ越し、転校です。小平先輩が2年に進級してすぐでした」
金近先生は再度腰を下ろした。
「そうです。でも私も小平君も恋をあきらめるつもりはありませんでした。そして小平君が私にくれたのが、彼の生徒手帳だったんです」
俺はこの言葉に満足した。生徒手帳の持ち主は、金近先生――
「その際、自分たちを戒めるため、互いに電話番号を教えませんでした。連絡を取らないことで恋がしおれるなら、自分たちはその程度の関係だったんだ、とあきらめるために……」
純架はしきりに首肯した。
「なるほど。そこは僕も疑問に思っていた点でした。今回の件は電話すれば済む話でしたからね。……再三の校内放送に名乗り出なかったのは、教師としての体面を保つためだったんですか?」
「もちろん。生徒を好きになった教師だなんて、面目が立たないから」
金近先生はそわそわしている。
「もういいでしょう、桐木君。生徒手帳を返してください」
純架は意地悪な微笑を浮かべた。
「これはやっぱり、大事なものですからね。本人に返してもらうのが一番でしょう。金近先生、今から校門に向かいましょう。小平先輩が待ってますよ」
俺たちも金近先生も田尻先輩も驚倒寸前だった。




