039過去の落とし物事件01
(三)『過去の落とし物』事件
「こら! いけませんよ桐木君」
連日の雨で気が滅入っている最中、元気よく純架を注意するのは美術教師・金近優子先生だ。
金近先生はぱっとせず、どことなく垢抜けなくて、みがかれる前の原石のままここまできた印象がある。しかし赤い縁の眼鏡の奥にはきらきら輝く美しい瞳があり、多くの男子生徒にとって魅力的だった。白い肌に服の下でもわかる巨乳と、容姿も抜群であるのに、どこか天然なところもある。そんな変わった、小柄な先生だった。ちなみに御年27歳。
純架が反駁する。
「なぜですか先生。僕はただ高田延彦の肖像画を描いているだけです」
「今日は台の上の桜庭君を写生するのがテーマですよ」
「いや、だから高田延彦を……」
「違うでしょ、桐木君」
どうも純架は、台の上で恥ずかしそうにしている桜庭雄吾を格闘家・桜庭和志と勘違いしているらしい。そしてそのため、桜庭和志の師匠である高田延彦を誤って描いている、というわけだ。
勘違いにもほどがある。
金近先生は純架のスケッチブックを取り上げた。ページをめくって無垢な一枚を表にする。
「時間もあまりないんですから、今度こそ真面目に描いてくださいね」
純架は不平たらたらだったが、差し出されたキャンバスを前に、大人しく鉛筆を手にした。純架は絵がうまかったが、創出する側より鑑賞する側でいた方が楽しいと、前に雑談の中で表明していたっけ。
一方俺はあまりはかどらない自作に愛想をつかし、奈緒の絵を斜め後ろから拝見した。精密な筆致とあざやかな技巧で、桜庭をまざまざと写し出している。こんな才能もあるのか、と俺は感心した。
純架が再び人物の描写に熱中している。今度は桜庭和志のライバルである格闘家、ヴァンダレイ・シウバを筆写していた。勘違いの渦が俺をあきれさせる。
「こら! 駄目ですよ、桐木君」
再び金近先生が桐木を見とがめた。何やってんだか。
やはりというか何というか、『探偵同好会』会員は増えなかった。先日の『ふられた真相』事件はともかく、矢原がしゃらくさかった『今朝の吸殻』事件はそれなりに知名度も高かったはずだ。それでも入会希望者が出てこないのは、会長である純架の変人ぶりが嫌われていることもあるが、やはり時期の問題だろう。もう部活に入部したものはその活動に全力で励んでいることだろうし、帰宅部は帰宅部で、自分の時間を大切にすることに慣れ切っている。『探偵同好会』は、その活動に波があっても、入会するには当たらないと見なされているのだろう。最悪、来年の4月に新入生が校門をくぐるまで、誰も来ない可能性がある。
その日、ミーティングと称して、俺と純架、奈緒、日向の四人は1年3組の教室に居残ってくっちゃべっていた。話題は二転三転して、「どうすれば会員が増えるか」という目下の難件に照準が固定される。
純架は鉛筆の端をつまんで上下に高速で振った。
「柔らかい! この鉛筆柔らかいよ楼路君!」
大発見だ、と純架は興奮している。
小学生か。
奈緒が紙パックのコーヒーの中身をストローで吸った。
「『探偵同好会』っていう間抜けな名前を変えたらどうかな」
「というと?」
「たとえば『渋山台高校捜査研究会』とか。なかなかいいでしょ?」
日向が両手の指を柵状に交差させる。奈緒の言に感銘を受けたらしかった。
「格好いいですね! それにしましょうよ、桐木さん」
純架は鉛筆を歯で噛んでいる。柔らかくなくてしょげていた。
「いいや、『探偵同好会』でいいよ。飯田さんの案もいいけど、ちょっと長過ぎる。それに今までの色々ないきさつで、『探偵同好会』はその名前だけは売れているからね。これを今更変えるのはリスクが高いよ」
俺は鞄から紙切れを取り出した。A4の、『探偵同好会』勧誘チラシだった。廊下の掲示板に貼られていたのを持ってきたのだ。
「やっぱりこれも、もうちょっと変えたほうがいいかもな」
当初は『「探偵同好会」は水着美女がわんさか!』とか何とかいう、桐木純架手製のものだった。しかしその最悪な内容に奈緒が憤慨。一斉撤去の憂き目にあった。
そしてこれはその二代目の広告だった。パソコンを使って編集し、『ミステリーの世界へいらっしゃいませんか?』とのコピーで『探偵同好会』の名前と募集が記されている。気が利いたことに、万年筆と探偵手帳のセピア色の写真が添えられていた。最初見たときは、純架のそれがひどかったこともあって、一も二もなく賛成し賛美したものだった。
「インパクトがなかったかもしれないね」
俺の言いたかったことを奈緒が先回りしてこぼした。彼女は俺から受け取ったチラシを残念そうに見やり、心労のため息をついた。
日向が両手を合わせる。
「私が何か撮影してきましょうか?」
俺はひらめいた。
「そうだ、辰野さんが純架を撮ればいいんだよ! その写真をでかでかと掲載すれば、インパクトは申し分ない」
純架の美貌を餌に、新入会員という魚をおびき寄せて釣り上げられれば……。
日向はまぶたを開閉した。
「でも桐木さんの写真なら、この前の『渋山台高校生徒新聞』6月号にも載ってますよ」
あ、そうか。俺は冷水を浴びた心持ちだった。あれを見ても誰も来なかったわけだから、今更広告に張り出しても意味はないか。
純架はまだるっこしい議論に匙を投げたか、『考える人』のポーズでコーヒーを飲んでいる。突っ込みを待っていることは自明の理だ。もちろん俺たちは無視して三人で話を続けた。純架はコーヒーが空になってもしぶとく同一姿勢を続けていたが、いい加減痺れを切らして元の体勢に戻った。そしてそのことを恥じ、赤面した。
「すっかり遅くなったし、そろそろ帰ろうよ」
奈緒が一向煮詰まらない会議に終止符を打ち、皆は同意して席を立った。外は雨が降っていて、いつもなら聞こえる野球部のノック音も、テニス部の応援も、今日は全て閉店している。
雨滴の打擲は妥協なく大地を侵略し、津波のような水の奔流はそこかしこで水飛沫を上げている。
「やれやれ、凄い雨だ」
俺たち四人は塞ぎがちに窓外を眺めながら、薄暗い廊下を歩いていた。
「あれ?」
日向が立ち止まった。遅れて俺たちも停止し、振り返る。純架が声をかけた。
「どうしたんだい、辰野さん」
日向はしゃがみ込み、四角い何かを拾い上げた。
「落とし物です。生徒手帳ですね」
俺たちは彼女の元に集まって、問題のものを見た。なるほど、それは毎年春に支給される、ここ渋山台高校の生徒手帳だった。
「ええと……2年5組……小平真治とありますね」
カラー写真に美男子が写っている。老成したかのような落ち着きがあり、りりしい眉、決然たる瞳はそこらの大人顔負けだ。髪の毛はいい感じにぼさぼさで、センスの良さを感じられた。
俺は常識論を展開した。
「今はもう遅いし、この小平先輩も家に帰っているだろう。落とし物箱に放り込むか、職員室へ届けに行くか、どっちかだな」
「大切なものだから職員室ですかね」
日向が応じると、奈緒が指摘した。
「2年に5組なんてないわよ」
俺たちは奈緒に顔を向けた。
「本当か?」
「5組があったのは去年まで。今年は一年同様3組までしかないわ。3年なら5組――4組がないから実質4クラスなんだけど――があるわよ」




