309二人の投手事件01
(一)二人の投手事件
7月上旬に『秘密倶楽部』から手酷く痛めつけられたものの、俺――富士野楼路は目覚しい回復を遂げていた。高校2年生である自分の若々しい、頑丈な体にこれほど感謝したことはない。そんなわけで、俺は自室で、傷跡も塞がって痛みもなくなった全身を伸ばし、関節をほぐして暇を潰していた。
そんな7月下旬に現れたのが、隣の奇人一家――桐木家の長男である桐木純架だ。彼はシャツ、カーディガン、パンツ、靴下を全て裏返しに着用するという奇抜な格好で、何事もおかしなことは起きてないんだぞとばかりにドアの先で俺を見上げた。中世ヨーロッパの貴族のような、耳が隠れる豊富な黒髪だ。
「僕の家のテレビは妹の愛君が占領していてね。君の部屋のそれを借りたいんだ」
衣服のタグをひらひら風に舞わせ、屈託ない笑顔を向けてくる。そう、純架は奇行の達人なのだ。誰に命じられたわけでもなく、格好がつくわけでもない、あからさまな奇態を呈し、ただそれだけでこの世は平穏ですとばかりに笑顔でたたずんでいる。息を吐くように奇行を発する。それが彼、桐木純架の負の側面であった。
俺は玄関でひとつ溜め息をつくと、今更奇行を指摘することも面倒くさかったので「上がれよ」とのみうながした。純架は彼にしか見えない赤ん坊を抱き上げて、「高い高ーい」とあやしてから靴を脱いだ。もちろん俺は反応しない。これは反応した奴が負けのゲームなのだ。
純架については更に二つの側面がある。その一つは比類なき美貌の持ち主だという面だ。彼は心臓を鼓動させる生きた美の極致であり、その造作は衆を抜きん出ている。あえて言うなら笑ってしまうほどだ。
そこらのテレビタレントやアイドルなどは、彼の隣に立つのも嫌がるだろう。何故なら容姿の隔たりをいやが上にも周囲に感知させ、圧倒的な差を見せ付けられるからだ。道行く女などは純架を一度眺めたら、心を釘付けにされて舞い上がること間違いなし。
桐木純架はもはや生ける伝説とさえなっており、渋山台高校どころか全国にさえその名を轟かせていいはずだった。
それがそうならないのは、彼が既に述べた通りの奇行癖の持ち主だからだ。人間は見た目か中身かの議論は横に置くとして、誰もがうらやむ美貌も「発作」というべき奇行の霧に包まれれば、その価値を台無しにされるのは当然の帰結であった。もっとも純架には彼女がいる。どこの世も物好きはいるものだった。
そして最後の側面は、渋山台高校『探偵部』の部長である面だ。彼はその精密機械のような頭脳をときにフル回転させ、難事件を解決することたびたびだった。特に去年の文化祭『白鷺祭』において、盗まれたトロフィーを奪還せしめた功績は教師陣からも高く評価されている。俺は彼の最初の相棒であり、最初の部員であり、その活躍をつぶさに見てきた一人だ。
今では『探偵部』は総勢10名となり、正式に部活動として認められ、同好会から部活動に昇格した。部費まで出るようになったのだ。ありがたい話である。問題は、この活動が進学や就職の際にどれだけ役に立つのかという点だが……
純架は階段を上り切ると、彼にしか見えない赤ちゃんを「はい高い高ーい! はい高い高ーい!」と躍りながら執拗に上下させている。
これで麻薬をやってないんだから逆に凄いな。
俺は自室に純架を通した。俺も入ろうとしたところで、部屋から出てきた朱里と出会う。俺の義妹で、『探偵部』の一員だ。
「あれ、誰か来たんだ」
「おう」
「お茶汲んでやるよ。2名でいいよな?」
「ああ。悪いな」
彼女は赤茶色のミディアムの髪で、整理された短い眉、黒目の大きな瞳、高い鼻梁に魅惑的な唇が印象的だった。顔の輪郭はほっそりしている。大人顔負けのスタイルの良さだった。
女探偵部員は階段を軽やかに下りていく。
「麦茶でいいだろ?」
「頼む」
揺れる赤髪から目を離し、俺は室内に足を踏み入れた。純架はリモコンのスイッチを押しまくり、チャンネルを地方局に合わせた。ちょうど高校野球が始まったところだ。そこに映し出された名前に、俺は度肝を抜かれた。
「渋山台高校対星降高校……県大会決勝戦?」
渋山台高校は俺や純架、朱里の通う学び舎だ。そこが決勝戦に進出? これで勝てば甲子園確定ってことか?
「信じられん。いつの間にここまで勝ち上がってきたんだ?」
純架は肩をすくめて苦笑した。
「君は新聞を読まないのかい? それとも野球部の友達がいないんじゃないのかね? 夏休みに入ってから、僕は渋山台高校野球部の活躍をつぶさに拾い上げてきたんだ。今日は見ものだよ。何しろ弱小野球部に現れた救世主、三上譲治君が凄いんだ。きっとこの一戦も快刀乱麻の投球で、星降に凡退の山を築かせるだろうよ」
「へえ、三上ねえ。1年でエースか……」
「宇治川武蔵外部顧問を招いた甲斐があったというものだよ。やっぱり元プロ野球選手は教え方が違うんだね。三上君を先発起用してきたのも宇治川顧問の手腕によるというからね」
「ほう……。相手チームはどうなんだ? 強いのか?」
純架はヘルメットのようにばっさり水平に切られている後ろ髪を撫でた。
「ここまで来たんだから相当だろうね。強豪だろうけど、大丈夫、きっといける」
そこへ朱里が盆を持って現れた。汗をかいたコップに美味そうな茶色の液体が入っている。氷のぶつかり合う音が涼しさを感じさせた。チップスが盛られた深皿もあって、気が利いている。
「何だ、桐木先輩か。ほら、麦茶注いだぞ、お二人さん」
俺は手刀を切ると、早速純架に杯を手渡した。自分の分も取り上げる。義妹はテレビ画面を数秒間見つめた後、気まずそうに視線を逸らした。俺は隣のカーペットを叩く。
「ほら、お前も観て応援しろよ」
朱里は心底嫌そうに溜め息をついた。
「ああ、オレは駄目なんだ。オレが応援すると、何故か相撲でも野球でもサッカーでも、ひいきが負けちまうんだ」
純架がコップを傾けて喉を鳴らす。
「こう言っちゃなんだけど、まるで疫病神だね」
1年女子は寂しそうに笑った。自嘲の波動が面を走る。
「だからオレは自分の部屋に引っ込んでるよ。まあ楽しんでください、桐木先輩、楼路」
朱里はトレイを置くとドアの外に出て行った。純架は閉まる扉に目線を滑らせた後、改めて画面に向き直る。テーブルに肩肘をつき、拳に頬を預けた。
「じゃあ朱里君の分まで応援するかな」
俺は腕まくりをして試合開始のブザーを聴く。
「甲子園の夢がくだらない理由で散ってもしょうがないしな。あいつには我慢してもらおう」
「さあ、始まった!」
先攻は渋山台だった。相手先発・中山の前に、もろくも三者三振で無得点に終わる。俺は無様な打撃陣を嘆くより、相手投手の豪腕を賞賛した。
「こりゃ手強そうだな」




