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186冬の転校生事件03

 純架が鞄から同好会入会申請書を取り出す。いつ何時希望者が現れても対処できるように、いつも持ち歩いているらしい。その作業を見ながら、誠が奈緒に念押しした。


「俺が入ったからって、急に同好会を辞めたりしないでくれよな、奈緒」


「そんな真似しないわよ」


 純架が適当な机に申請書とボールペンを置いた。喜色満面、揉み手で誠をうながす。


「この用紙にサインしてくれたまえ、藤原君。学年、クラス、名前、それから『同意します』への丸印だよ」


「よし、了解した」


 誠はためらわず署名した。それを見守る純架は、まるで黒魔術に成功した老いた魔法使いのようだった。丸印まで完了すると、申請書を手にして宝の地図のようにひらひら舞わせる。


「これを職員室に持っていけば、『探偵同好会』は8名になる! よしよし、あと2名で部活動だね。善は急げ、僕は早速行ってくるよ」


 純架は復活の儀式をつかさどるシャーマンのように踊り狂いながら、部室を後にした。その背中を見届けた誠が、椅子に腰掛けて情勢を眺めていた奈緒に話しかける。快心の笑みを含んでいた。


「これで俺が本気だってこと、分かってくれたかい、奈緒」


 この野郎……。でも奈緒はきっぱり断ってくれた。


「うん。でも駄目だよ。私には楼路君がいるもの」


 誠は全くめげた様子もなく、まるで勝者のように勝ち誇っていた。


「これから俺の方が君の彼氏となるにふさわしい男だってこと、証明していくから。楽しみにしてて」




 それから――いや、転校初日からだったわけだが――誠の奈緒に対する猛アタックが始まった。


 藤原誠について分かったことは、生来の人たらしだということだった。彼は会話の技術に長けていて、テレビをよく観たりするのか最近の政治や芸能の話題にも精通していた。また何より、どんな相手の話でも興味深そうに、それは熱心に尋ねてくる。未知の事柄について知りたがり、それを目の当たりにした相手は自然と笑みを零し、とっておきの内容を惜しげもなく開陳するのであった。会話の達人の転校生として、1年3組のみならず、他のクラスでも話題に上らない日がないほど、彼はまたたく間にその地歩を固めていった。


 もっとも、基本的に彼の矛先は一人奈緒にのみ集中していたのだが。


 やがて俺は、休み時間といい昼食時といい、楽しそうに会話する二人を見て、先行きに大いなる不安を感じるようになってしまった。トークの主導権を握れないまま誠にいいようにあしらわれることで、俺は酷い劣等感にさいなまれる始末だった。


 しばらく経ったある登校時、俺は純架に聞いた。


「なあ純架」


「何だい楼路君」


「俺、奈緒の彼氏でいいんだよな?」


 純架は立ち止まり、片眉を上げて俺を見下げた。


「何を寝ぼけたことを言ってるんだい。それに決まっているじゃないか。藤原君の強烈な押しに尻込みしないで、君も果敢に飯田さんと向き合えばいいんだよ」


 そう、奈緒は俺の彼女であるはずだ。どうすればこの押し潰されそうな不安感、強烈な嫉妬を拭い去れるであろうか。そう、たとえば俺が誠に大きなリードをつけられるような、そんな成果をあげられたら……


 俺は一つ発案した。


「奈緒とキスしてみるとか?」


 純架は肩をすくめた。


「それは君の判断だよ。僕は責任持てないね。自分で考えるんだ」


「薄情な野郎だ」


 純架は突如道端へ、やたらと綺麗な光り輝くゲロを吐いた。


 それは「吐くジョー」だ。数十年前のアニメ『あしたのジョー2』を知らない人にはまるで通じない奇行だった。分かる俺も俺だが。




 その日、誠は風邪でも引いたのか欠席だった。俺はざまあみろとよこしまなことを考えながら、久々に緊張感がなく平和な『探偵同好会』部室でくつろいでいた。真菜は自身の事件以来、また純架にべったり張り付く日々を送っている。可愛らしく涙を流していた姿が一時の白昼夢のようだった。


 英二が寒風の吹きすさぶ窓の外を見やる。


「まったく、藤原にも困ったもんだ。ああまで女好き――まあ飯田限定だが――だとは思わなかったな」


 結城が豪華なシフォンケーキを切り分けている。英二と結城のコンビは時々こうやって差し入れを持ってきてくれるのだ。


「英二様、男女の仲はひとそれぞれでございますから」


 真菜が純架の背中に覆い被さっている。純架は彼女の胸の膨らみを背中で感じているだろうに、一向だらしない顔をしない。色仕掛けにはとことん興味がなさそうだった。真菜が思い人の髪をいじくる。


「藤原さんって大胆ですですよね。人目というものをまるで気にしないんですですもの」


 彼女以外の全員が、無言で「お前が言うな」というツッコミを共有したかに見えた。


 日向が愛用のデジタルカメラのレンズを磨いている。


「それにしても転校早々一目惚れして『探偵同好会』加入だなんて、よく分からない人ですね。普通そこまでしますかね?」


 真菜が口を尖らせた。


「辰野さん、それはどういう意味ですですか?」


 俺は、俺の彼女であるはずの少女に声をかけた。


「奈緒……」


 奈緒が結城の手伝いの手を休める。


「何? 楼路君」


 俺は熟考してきたことを思い切って問いただした。


「まさか藤原に惚れるなんてこと、ないよな?」


 奈緒は頬に血をのぼらせた。


「ちょっと楼路君、何てこと言うのよ。私は楼路君の彼女なんだよ。そんなに私が信用できないわけ?」


 そして俺の元に、紙皿に切り分けたケーキを持ってきた。


「心配しないで。私はぶれたり揺らいだりなんかしないから。そりゃ藤原君と話すのは楽しいし面白いけど、楼路君を好きだって気持ちが崩れたことは一度だってないわ」


 俺は舞い上がったが、すぐ冷める。


「うーん、それだけじゃ……言葉だけじゃ足りなくなってきた」


「どういう意味?」


 純架が逆立ちし、裸足の両足で二、三度拍手した。


 なんで手でやらない?


「はいはい、恋人同士のことは恋人同士の間でやりたまえ。楼路君、飯田さん、2人はケーキを食べたらもう帰宅していいよ。どうせ事件もないし、暇な『探偵同好会』に無理して付き合うこともないだろう。今日は藤原君が休みで、じっくり話し合えるだろうからね」


 純架なりに、俺たちに気を使ったのだった。




 渋山台駅までの帰り道、俺と奈緒は無言だった。二人きりの時間が刻一刻と終わりに近づく。俺の想念はある一点に集中していた。


 キスだ。キスをするんだ。もうそれしかない。藤原のあん畜生に決定的な差をつけられる前に、俺と奈緒が恋人同士だって事実を行為で刻み付けるんだ。


「もう着いたよ、楼路君」


「えっ?」


 驚いたことに、気がつけば駅が間近に迫っていた。学校帰りの小中高生、買い物を済ませた主婦などが、忙しそうにせかせかと歩いている。電車が金属的な騒音を立ててホームに停止し、また進発していた。


 俺は立ち止まった。奈緒もつられて足を止める。いぶかしげな視線を浴びながら、俺は彼女の方を見ずに提案した。


「なあ奈緒。……キスしないか」


「え……?」


 今度は奈緒が驚いた。しばしの沈黙は気まずく、俺は言い出さなきゃ良かったと後悔し始める。


 やがて奈緒が口を開いた。


「私が藤原君と仲良く喋ってるから? だからキスをしたいの?」


 俺は正確に図星を指されて狼狽した。しどろもどろで何とか返そうとする。

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