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141白石まどか事件09

 その日の朝、清水先生はやたらと元気だった。疲れのつの字も知らぬような溌剌はつらつぶり。やたらフレンドリーに出席を取って、ホームルームを笑顔で締めた。


「どうしたんやろ、先生。何かいいことでもあったんやろか」


「これからいいことがあるのよ。私の告白といういいことがね」


 美音子は自信満々だ。あたしは清水先生の腕のぬくもりを思い出し、自分の両肘をそっと抱え込む。


「それで、いつ告るんや?」


「今日の昼休みよ」


 あたしはその昼休み、空席の美音子の椅子を眺めながら、一人で昼食をしたためた。美音子を応援する気持ちと、ふられればいいという残酷な気持ちとが、心の中で半々になって揺れ動いていた。


 昼休みの終わりごろ、ようやく美音子が帰ってきた。異常な上機嫌に、あたしは嬉しいような悲しいような複雑な気分になる。


「うまくいったんやな」


「大成功!」


 美音子はけたけたと笑った。何かおかしい。いつもの美音子と比べ、妙にテンションが高いのだ。でもあたしは、それが清水先生への愛の宣言が成功したことによるものだと思った。恋の力は偉大なのだ。これぐらいのことはあるだろう。


 あたしは集中力を欠いたまま、午後の授業を上の空で聞いていた。




 放課後になった。美音子はあたしと一緒に教室に残り、無駄話で時を空費した。


「もう少ししたら、化学準備室で清水先生といちゃいちゃするんだ」


「うらやましいのう」


 あたしは自分たち二人きりになった教室で、美音子の自慢話に相槌を打った。胸の中がぽっかり空いたような、空虚な気持ちだった。時々生返事を叱られる。


「じゃ、私そろそろ行くわ。じゃあね、まどか」


「ほな、さいなら」


 美音子はうきうきと部屋を出て行った。あたしは盛大な溜め息をつくと、「帰るかな」と腰を浮かす。


 そのとき、どうしてあたしはそんなことを思いついたのだろう。


 あたしは――化学準備室の清水先生と美音子を、覗いてみようと考えたのだ。


 それが自分の人生を大きく左右する、重大な選択だと気がつかぬまま……。


 あたしは薄暗い廊下を歩き、明かりのついた化学準備室の前に来た。もちろん足音を立てぬよう、こっそりと、である。気取られていない自信があった。


 中は静まり返っている。二人はいったい何をしているんだろう? あたしは扉の窓枠からそっと中を隠し見た。


 そして、あっと声を上げそうになった。


 なんと美音子が、袖まくりで露わになった肘裏に、注射器の針を刺していたのだ。それも、清水先生の凝視する前で……。


「よくやったね美音子。ほら、昼にあぶりで吸ったときより、段違いの快感だろう?」


 美音子はとろけたような眼で呆けたようにうなずいた。清水先生がその頭を撫でる。


 あたしは恐怖と戦慄でパニックになった。清水先生が、教え子の美音子に薬を……覚醒剤を使わせているのだ。「あぶり」とは何か知らないが、昼の美音子の常軌を逸した随喜も覚醒剤のせいだと考えれば納得がいく。告白を受け入れる条件として、この秘密を共有したのは明らかだった。


 清水先生は覚醒剤の常習者なのだろう。そうでなければ注射まで到達するはずがない。何かの本で読んだ。麻薬はすぐ免疫ができてしまうため、どんどんエスカレートするのだ、と。その行き着く先が、注射だ、と。


 あたしの胸は早鐘を打った。頭に血が通わない。どうしよう。とんでもないものを見てしまった。誰かに報告しなくては。相談しなくては。


 そうだ、警察。警察に来てもらうのだ。あたしはその名案にすがりついた。きっと解決してくれる。美音子はもちろん、清水先生も救ってくれる。そうだ、そうしよう。


 考えがまとまったあたしはその場を離れようとした。だが震える足は意に反してもつれ、あたしは盛大に転倒してしまった。床との大きな衝突音が廊下に響き渡る。


「誰だ!」


 あたしは床に膝を打って悶絶し、逃げるどころではなかった。ドアが開き、清水先生が飛び出してくる。その表情は険しく、まるで絵本から飛び出した鬼だった。手には太いガラス瓶が握られている。


「白石か。見たな……!」


 血走ったまなこを最大限まで広げ、清水先生はあたしににじり寄った。あたしは気が動転して、ぶつけた膝も痛くて、もう何も考えられない。


「死ね!」


 全力で振り下ろされたガラス瓶が、あたしの頭部を強烈に打ち砕いた。それで、あたしは死んだ。




(あれ……)


 あたしは廊下に浮かんでいた。体重を感じないぐらい体が軽い。まるで羽毛のようだ。


 眼下では清水先生があたしの体を――あたしがあたしの体を外から眺めている、という事実は奇怪だったが――引きずって、化学準備室の中へ運び入れるところだった。あたしは彼に呼びかけようとしたが、声は喉から出て行かない。というより、宙をたゆたっている方のあたしになど、清水先生は目もくれない。確実に視界に入っているにも関わらず、まるで見えていないかのようだ。


 見えていない。


 あたしは、自分が殺されて、今幽霊の状態にあることにようやく気がついた。ガラス瓶は頑丈だったらしくて、あたしの頭蓋骨を粉砕したのにひび割れ一つ生じていない。清水先生は死んだあたしを移動し終えると、ドアを乱暴に閉めた。


 あたしは廊下に取り残された。今までの騒音は誰にも気づかれなかったのか、教職員や生徒が覗きに来ることもない。あたしはドアを開けようと手を伸ばし――すり抜けた。


「ま、まどか!」


 美音子が仰天している。薬が効いて高揚感に浸っていた頭でも、親友の死体に驚愕せずにはいられなかったようだ。


 それを無視して、清水先生はうなった。


「勢いあまって殺してしまったが……。さて、どうしよう。考えるんだ、清水京太郎」


「せ、先生……け、警察に……」


 清水先生は美音子をどうしようもない愚者であるかのように見下した。


「馬鹿か、美音子。そんなことしたら俺もお前も破滅だぞ」


「わ、私も?」


「俺に勧められたとはいえ、薬に手を出しておいて無事ですむものか。『覚醒剤を使用した女』として一生、さげすまれるぞ」


「そ、そんな……」


 あたしは二人のやり取りを黙って聞いていた。声も出せない、姿も認識されない。他にどうしようもなかった。


(ごめんな、二人とも。あたしが覗いたばっかりに、こんな目に遭って……)


 あたしは自分がもっと怒ったり悲しんだりするものと思っていたが、胸に渦巻く感情はそんな思考に収斂しゅうれんした。何だか二人が気の毒になったのだ。変な考え方だったが仕方ない。


「手伝え美音子。一緒に白石を捨てに行くんだ。そうだな、もう少し暗くなってから、裏山にでも」


「先生……」


 美音子は薬の影響からか、唯々諾々と従った。


「うん、分かった。まどかを誰にも見つからない場所に捨てに行こう。私たちならできる。そうよね、先生」


「そうだ、美音子」


 清水先生はそう言って、美音子と唇を重ね合った。あたしはそっと目を伏せた。

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