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013変わった客事件02

「はっはっは」


 翌日、1年3組の教室だった。純架は俺の推理を聞くと、腹を露出してブリッジし、水を溜めたやかんをへそに載せた。『へそで茶を沸かす』という意味らしく、馬鹿にされた俺は憤懣(ふんまん)やるかたなかった。


「楼路君、君の予想は僕には納得できないよ」


 ふざけた格好をしながら純架は俺を見くだす。


「『シャポー』で休憩? 3時間はいくらなんでも長過ぎるよ。いや楼路君、僕はそれには首肯できないね」


 バランスが崩れ、転倒したやかんの水が盛大に純架の全身にかかった。


「あれ、熱くない」


 当たり前だ。


 奈緒がはしゃいでいる。


「午前11時に来て、コーヒー一杯で3時間粘り、午後2時に帰っていく老人。凄くミステリアスね。私も見に行っていい?」


「見世物じゃないんだけどな」


 それでも俺はまんざらでもなかった。好きな人がバイト先に来てくれるなんて望外の喜びだ。純架はアントニオ猪木の赤い闘魂タオルで顔をぬぐった。


「僕はパスだな。というか、老人に直接聞けば済む話じゃないか。それを実行せずただ遠巻きにああでもない、こうでもないと予測するなんて、あんまり失礼というものだよ」


 奈緒が反論した。


「馬鹿ね。聞かないから面白いのよ。じゃ、明後日の3日にお邪魔するね」




 5月3日、俺は二日のオフを経て鋭気を充電し、再び『シャポー』の制服に袖を通した。


 老人は再び現れた。服装にはそれほど目立った変化はない。ただ毎回、品のいい上物のジャケットを着用し、ネクタイを締めなかった。そしてやはりコーヒーをほったらかし、外を見つめていた。店長の話では、昨日と一昨日は来なかったという。


 奈緒はそんな昼下がりに来店した。俺は天使のような彼女の御姿に心が洗われるようだった。俺と目顔でやり取りし、カウンター席の奥に座る。俺は注文を取るふりをしながら老人の位置を教えてやった。


 奈緒が老人を凝視する。老人の顔は戸外に向いているので気づかれる心配はない。


 十分過ぎるほど眺めてから、奈緒は俺の方を見た。周囲に聞かれないよう小声で話す。


「あの人が例のお年寄りね。なんか普通の人と違う気がするよ。ピリピリした雰囲気というか、近づきがたいものがあるね」


「どう思う?」


「私、考えたんだけどさ。耳貸して」


 俺は前かがみになった。彼女の息が耳にくすぐったい。


「多分あの人、ダイエットしてるんだよ。間違いない」


「ダイエット?」


「私、女の子でしょ? 分かるんだよね、ダイエットの苦しみ。あの人はきっと苦しんでるんだよ。なかなか痩せないことに。……あの人、頼むのはコーヒーだけで、食べ物は注文しないんだよね?」


「ああ」


「コーヒー一杯を目の前に置いて、それを飲みたい気持ちすらをも我慢する。なかなかできることじゃないよ。そして3時間忍耐した上で、ごほうびとしてコーヒーを飲み干す。そういうことなんじゃないかな」


 なるほど、そう言われてみればそんな気もする。食い物を頼まないこともそれで理由がつく。


「頭いいんだな、飯田さん」


 奈緒は照れて赤くなった。


「えへへ。……私も注文しよっと。ええと、アイスコーヒー一杯」


 奈緒は舌を出した。


「私もダイエット中なんだ」




 その夜、俺は純架と携帯電話で話した。家が隣同士だし、直接会っても良かったのだが、せっかくかけ放題プランに加入していることだし電話でやり取りしたかったのだ。


 俺は早速奈緒の名推理を披露した。


「……というわけで、たぶんあの老人はダイエット中なんじゃないかって思うんだ」


 純架はこちらの淡い期待とは裏腹に、さして興奮もせずあしらった。


「その老人は太っていたのかい?」


 あれ、そういえば……


「それに、ダイエットで腹を空かせている最中に、わざわざ美味そうなメニューの並ぶ喫茶店に入って我慢するなんて、ちょっと馬鹿げているよ。それなら公園なり広場なりでもできるじゃないか。だいたいダイエット目的でコーヒー一杯で3時間も粘るなんて景気の悪いこと、会話好きな複数客ならいざ知らず、一人でやろうなんて考えるものかい? それも午前11時から午後2時まで、という時間を区切ってなんて……。いくらダイエットだって言っても、他人に迷惑をかけてまでするかな? そんな人に見えたのかい?」


「いや、見えなかった……」


 純架はあくびをした。


「楼路君、君はどうでもいいことに首を突っ込みすぎだよ。アルバイトの本分を忘れずきちんと働くことだね。それじゃ」


 純架との電話は切れた。俺は髪の毛をかきむしる。また振り出しか。




 5月4日。泣き出しそうな曇り空の下、俺は敏晴マスターからお使いを頼まれた。午前10時45分のことだった。


「向かいの花屋さんが開いてるはずだ。ちょっと手が離せないので、朱雀君、花を買ってきてくれないか」


「何の花ですか?」


「ニリンソウの銀盃(ぎんさかずき)を一つ。飾り物に使うんだ」


「分かりました」


 俺は制服姿のまま店を出ると、車が通行していないのを確認し、道路を渡った。小振りな花屋は『MIKI FLOWERS』と名づけられ、近づくだけで(かぐわ)しい香りが漂ってくる。


「いらっしゃい」


 応対に出たのは20代くらいの美しい女だった。看板娘といったところか。


「何をお探しですか?」


「ニリンソウの銀盃を……」


「いつもありがとうございます」


 どうやら俺の制服で『シャポー』の従業員だと気づいたらしい。いつも、ということはゴールデンウィーク前にも何度も花を買っているということだ。


「780円です」


 俺は千円札を出しお釣りを貰った。


「ありがとうございました」


 店員の女性は深々と頭を下げた。うるわしい、とはこういう人のことを言うのだろう。一緒に食事したい気分だった。


「綺麗な子だっただろ?」


『シャポー』に戻った俺を店長が冷やかす。俺は銀盃の鉢の入ったビニール袋を手渡しながらうなずいた。


「店長、ああいう人が好みなんですか?」


「まさか。俺はかみさん一筋だ」


 ドアが開いた。


「いらっしゃいませ」


 俺は反射的に声を上げ、入ってきたものの顔を見て口をつぐんだ。


 あの老人だった。


 老人はまたまた窓際の席に座った。俺は注文を取りに行って、ふと窓の外に視線を動かした。『MIKI FLOWERS』がよく見える。


「カフェラテ一つ」


 老人は底知れぬ瞳に穏やかな波紋を立てて頼んだ。俺は復唱しつつ伝票にメモして立ち去ると、胸の奥で立ち上った邪推(じゃすい)の雷雲にどきどきした。


 ひょっとして、老人は花屋の監視をしているのではないか。あの、美人の店員に惚れ込んでいて。


 ストーカー……


 それが俺の頭が弾き出した、あの老人の正体だった。


 老人は、毎日毎日午前11時に店に来る。そして午後2時、退店する。その理由は分からないが、その時間、彼は確かに窓の外の景色に釘付けとなり、片時も目を離そうともしない。お腹が空く昼だというのに、食べ物を注文することもしないで。そう、あの美人の店員を見張っているからだ。


 きっとそうに違いない。俺はぞっとした。あの老人の温和な表情からはうかがい知ることも出来ない、陰湿で邪悪な本性。それを垣間(かいま)見た気がして、俺は吐き気を抑えるのに苦労した。


 何とかしなければ。俺はどうするべきか迷った。まだ何事も起きていない以上、警察に連絡するわけにはいかない。あの女性店員に「老人があなたを見張ってますよ」と告げるべきだろうか。それとも老人に「馬鹿なことはやめるんだ」と釘を刺しておくべきだろうか。

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